第3話 席替えの巡り合わせ
「おはよー」
そう声をかけつつ、俺は教室へと足を踏み入れた。すでに登校していたクラスメイトからは、まばらに挨拶が返ってくる。久しぶりに顔を合わせたクラスメイト達、長期休暇明けとあってか、皆どこか気怠げだ。
瞬く間に残りの夏休みは過ぎ去り、今日から二学期がスタートする。つまり、本来の学生としての日常が戻ってきたというわけだ。
自分の席へと向かう途中、教室内をぐるりと見渡すと、窓際最後列の席で、頬杖をついてぼんやりと窓の外を眺める水琴さんが目に留まった。つい先日、夏休み終盤のあの日に出会った彼女だった。
彼女はいつも、俺より早く登校している。そして誰とも話すことなく、静かに佇むのが常である。その姿でさえ絵になるのだから、美人というのは恐ろしい。
ただまぁ……寂しくないのかな、とは前々から心のどこかで思っていた。だからといって、自分から声をかける勇気などあるわけもない。彼女に関する話は聞こうとせずとも耳に入ってくるのだから。
例えば、一学期の、とある日の放課後のことだ。
「あの……水琴、さん?」
クラスの女子の一人が、帰り支度をしている水琴さんへと声をかけた。その女子は、その日の日直だった。
「…………なんですか?」
「え、えっとね……古文のノートの提出、今日なんだけど……あと、水琴さんだけで……」
すっと差し出されるノート。
「あ、ありがとっ……」
それだけ言って、ノートを受け取ると逃げるように立ち去る日直女子。水琴さんはそれを見届けて、さっさと帰っていった。
その後。
「はぁ……緊張したぁ……」
「あんた、よくやった。うん、頑張ったよ」
「でもやっぱりあれだね」
「うん。あれだよね」
「「水琴さんとは、三言以上続かない!」」
そんな会話が聞こえてきた。本人が不在なので止めたりはしなかったが、やはりどこか違和感、もしくは嫌悪感のようなものを覚えた記憶がある。
ここで一つツッコミを入れておくとするならば、その時の会話は四言続いたわけで、三言以上続かないというのはオーバーな表現である、ということだろうか。ただ、その日直女子を始め、他の皆にとっては、そんなものは些末な問題でしかない。
例の言葉は、それほどまでに水琴さんと会話をするのは大変だ、という意味なのだから。
あの日の俺でさえ、水琴さんの困っている様子に気が付かなければ、話しかけることができたかどうかわからない。
何も用事のない今ならなおさらだ。俺は真っ直ぐに自分の席に向かい、机の横に鞄を引っ掛けて椅子に腰を下ろした。
*
「さーて、学期始め恒例の席替えをするぞー」
我がクラスの担任が、面倒くさそうな声で宣言した。
始業式にて、校長からのありがたい(長い)話を華麗に聞き流し、再び教室に戻ってきたところである。
「せんせーっ! 恒例って、まだ二回目なんですけどー?」
一人の女子からヤジが飛んだ。その声は、瞬く間にざわめきとなって教室中に広がっていく。
「はいはい、静まれーっ。あんまりうるさくするなら、席替えやめるぞー?」
その言葉に、ピタリとざわめきが止んだ。
「いいか……席替えなんてものはなぁ、そんなしょっちゅうするもんじゃないんだ。誰がどこにいるのか、覚える先生の身にもなってくれ」
うちの担任はいつもこういう感じなのだ。ものぐさというか──決して悪い先生ではないのだが、とにかく面倒くさがりで、席替えも入学直後に一度したっきりだった。
そのせいで俺は、最初の席替えで手に入れた教卓のド真ん前というポジションに、四ヶ月弱も縛り付けられることになった。
おかげで真面目に授業を受けることになり、一学期はそれなりの成績を修めることができたりと良いこともあったわけだが。
でもまぁ、それもすでにお腹いっぱいなことだし、願わくば、次はもう少し気楽に過ごせる席を獲得したいものだ。
「というわけでだ、全員、適当にクジを引きにこーい!」
誰もが我先にと席を立ち、先生が教卓の上に置いたクジ入りの箱へと群がっていく。
あー、もうっ! 先生が適当になんて言うからっ……。
俺はその渦に飲み込まれ、一番近い席だというのに、クジを引けたのはかなり後半の方だった。
そして、皆が席に戻った頃合いを見計らうように、水琴さんが最後の一つを手に取り、クジ引きのターンは終了した。
「全員引いたな? ちなみにトレードは禁止だ。今手にしているクジに素直に従うように。不正を働いた者は、問答無用で今の日向の席にするからそのつもりでいるように」
その反応を確認するように、先生はゆっくりと教室内に視線を巡らせ、それから満足そうに頷いた。
「ん、よさそうだな。なら、移動しろー」
黒板には、俺達がクジを引いている間に先生の手で教室の略図が描かれ、席にあたる部分には数字が書き込まれていた。クジの番号が、そのまま黒板の席番号に対応する、定番のやり方だ。
俺は黒板を確認して、密かに机の下で拳を握りしめた。
なぜってそりゃ……運任せな席替えという勝負に勝利したからに他ならない。俺が手に入れたのは、窓際から二列目の最後尾。なかなかどうして良い席になったものだ。
ある者は嘆きながら、またある者は喜びながら席を移動する。俺はもちろん後者だ。
俺も皆に倣って席を立ち、移動の途中で蒼汰とすれ違った。蒼汰は、まるでこの世の終わりのような顔をしていた。
「……陽介ぇ、俺はもうおしまいだぁ」
「なに、どこだったの?」
「……今までのお前んとこ。なぁっ、頼む、代わってくれぇっ!」
「いや、無理でしょ。不正は厳禁、バレたら結局そこじゃん。まぁ悪いことばっかじゃないし、せいぜい楽しみなよ」
俺が肩を叩くと蒼汰は項垂れ、よろよろと今まで俺がいた席に向かっていった。
うん、頑張れ。二学期は長いぞ。
心の中でエールを送る。
蒼汰とは真逆に、俺は晴れ晴れとした気持ちで新たな席へと腰を落ち着けた。実に良い眺めだった。
ただ、座ったのと同時に、なぜか左側から強い視線を感じた。
これを気のせいで済ませられるほど、俺は鈍くないつもりだ。確か、人間の視界の範囲は左右におよそ百八十度。正面を向いていても、隣の席の人物はぼんやりと視界の端に入ってくる。
その人物は、明らかに俺を凝視している。
ゆっくりと左に視線を向けた俺は、驚きを隠しきれなかった。
まるでそこが自分の指定席だとでも言うかのように、一切動くことなく、立ち上がることすらしなかった水琴さんがいた。
残り物には福があるとはよく言うが、まさにその通りかもしれない。彼女の窓際最後列という席は、おそらく誰もが羨む席なのだから。
水琴さんは俺と目が合っても、俯きもせず、視線を逸らそうともせず、ただその大きな瞳を真ん丸にして俺を見つめていた。