第八章 そして、月は輝いた
アルザス公爵夫人はシルキーの予想通り、シルキーへの手紙で怒りまくっていた。
そしてその手紙の終わりに『初めての妊娠出産なのだから、公爵家へ里帰りをして出産を』と書いてあった。
これに当のシルキーは抵抗し、伝統に従い、夫がいるヴェン・フェルージュ宮殿で産むと主張。
両者が真っ向から対立する中シルキーの悪阻が続き、産み月が迫る中でシルキー側が折れた。
実母の圧力に耐えられる気力がシルキーに残っていなかったのもあるし、バイエルとしてもシルキーがアルザス家に一旦帰るのは賛成だった。
バイエルの母后は、シルキーの妊娠が公になっても彼女に辛辣な言葉を浴びせるのをやめない。シルキーもまた体調が完全に回復せず余裕がないのもあってか、母后に批判されるたび言葉で反撃をする。そしてその態度を母后が更に糾弾する泥沼の様相だった。
バイエルは母后を何度か諌めたが、どうやらバイエルがシルキーを庇う程、母后はシルキーが憎らしくなるらしい。
アルザス公爵夫人は、公務で忙しいバイエルの代わりに母后からシルキーを守る強力な盾になってくれるだろう。
バイエルから離れたがらないシルキーには裏切り者扱いをされたが、バイエルなりに最善を考えてのことだった。
「シルキー。必ず会いにいくから待っていろ」
「……うん」
アルザス公爵家へ向けてヴェン・フェルージュ宮殿を出立する馬車の前で、臨月が迫るシルキーはバイエルと向かい合っていた。
その首元に樹脂でできたカーネーションが咲き誇る。バイエルが以前シルキーに贈ったチョーカーだ。
シルキーの悪阻は続いていたが、果実水以外何も喉を通らなかった一時期に比べるとだいぶ回復していて、妊娠前の半分くらいの量なら固形物も食べられるようになっていた。
大きくなった腹部を重たげに支えて歩く妻の手足は相変わらず細く痩せている。
妊娠していない人間が摂る食事量も摂れていないのに、シルキーの身体の中で赤子は順調に大きくなっているらしい。
(それだけ、母体に負担がかかっている)
『病気でもないのにつらいフリをして』
『もう安定期なのだから公務に復帰を』
と母后は執拗にシルキーを責めるが、悪阻の時期でも普段と変わらない生活を送れていた母后には、結局のところ侍医の説明があっても重い悪阻の苦しみを理解できないのだろう。理解しようと言う姿勢も無い。
シルキーはここ2、3ヶ月、顔色こそ戻ってきたが、眩暈と疲れやすさは取れず宮殿内で数度倒れた。侍医が言うには、赤子が身体の中で大きくなるにつれ必要となる血液の量が増えて、この時期母体の血液は『薄まる』のだそうだ。貧血である。
栄養を摂ろうにも、シルキーの場合は身体が受け付ける食べ物の種類や量が限られているから、すぐには良くならない。
貧血だけではなく、腹部が大きくなったことで夜も眠りづらくなったようだ。日中、シルキーはよくウトウトしている。
(公務のことを気にせず、アルザス家でゆっくりできればいいが)
バイエルは馬車の中に座ったシルキーの腹部にそっと触れる。
腹の子は元気にバイエルの手を蹴った。
小さい存在の愛らしい抵抗に、思わずバイエルは笑みをこぼした。
(シルキーにはこの子がついている)
「闘おう、それぞれの場所で」
白い頬に手をあてると、シルキーは名残惜しそうにバイエルの手に頬をこすりつけた。
「バイエル、好きよ」
見上げてくるシルキーの白銀の瞳が涙でじんわりと潤んでくる。それでも、涙をこぼすまいと彼女が堪えているのが分かる。
「大好き」
「……俺も好きだよ、シルキー」
曇った表情のシルキーに口付けて、バイエルは馬車を見送った。
離れるのが不安なのは自分も同じだ。
出産時に母子が亡くなった話をバイエルは何度か聞いたことがあった。
もしシルキーが出産で命を落としたらと考えると、足がすくんで動けなくなる。
———『闘いましょう、バイエル。この不安と闘うの。二人で』
その先にある、本当に欲しいもののために。
(どうか無事で)
シルキーがアルザス家に向かってから、二度目の満月を少し過ぎた日。アルザス家からの早馬で、予定より少し早いバイエルの長男誕生の知らせがヴェン・フェルージュ宮殿に届けられた。