第六章 待ち望まれた知らせ
バイエルとシルキーの結婚から、長すぎる年月が流れていた。帝国民達の間には、バイエルの御子の誕生を諦める空気ができあがりつつあった。
そこにきて発表された、皇太子妃シルキーの懐妊。
オルヴェル帝国の民達は喜びに沸いた。
シルキーを診た侍医は、
「悪阻でしょうね。今は口にできる物を摂れば良いですよ。今後は少しずつ楽になっていくはずです」
と言った。
周りで聞いた悪阻の話とシルキーの状態が違うことをバイエルが話すと、侍医は苦笑して言った。
「悪阻の形は人それぞれ違います。『酸っぱい物が食べたくなる』と世間では言われますが、中には土や氷が食べたくなる人もいますよ」
「土……」
バイエルは人体の不思議に再び衝撃を受けた。
「悪阻がほとんど無い方もいれば、妃殿下のように動けなくなるほど弱ってしまう方もいらっしゃいます。悪阻の期間も、数週間の方もいれば産むまで続く方もいます」
「産むまで……」今度はシルキーがショックを受けていた。
「水を飲んでも吐いてしまうようだと点滴が必要ですが、水を少しずつでも摂れているならひとまず安心です」
(こんなに痩せていてもか)
シルキーが塔の壁から転落した時、バイエルはシルキーを受け止めた。シルキーが骨が浮き出るほど痩せて軽くなっていたから、二人とも怪我無く済んだと思っている。
「何にせよ、悪阻が原因で出産前に命を落とすご婦人もいるので、周囲はくれぐれも妃殿下に無理をさせないことと、医師による定期的な診察と管理が必要です。身体の負担もさることながら、精神的に非常に不安定な時期が、これから産後2年くらいまで続きます。殿下はサポートをしてあげてくださいね」
(知らなかった)
出産時の苦しみは有名だが、子が生まれる前に死に瀕する女性達の存在を知らなかった。三回の妊娠出産を経験した母后も、シルキーの苦しみ様を聞いて大袈裟と鼻で笑った。
大丈夫、心配要らない。病気ではないのだから、様子を見ていればじきに良くなると周りに言われるがまま、バイエルもどこかでそうだろうと考えていた。
理由をつけて安心しようとしていた。
「ご質問はございますか?」
侍医の言葉に「あの」とシルキーが口を開く。
「壁にのぼりた……」
「シルキー、それはダメだと言ったはずだ」
バイエルは容赦なく遮った。
(本人がこんなだから、周囲も適切な対応が遅れる)
シルキーは以前、子供がほしいと言ったことがある。
子を望んでいる女性にとって———シルキーにとって妊娠は幸せなこと。
そんな勝手な思い込みをバイエルも持っていた。
しかし血の気の失せた顔をした妻を見ていると、手放しで喜べない。祝えない。
自分の身体の内側でもう一人の人間を育てるのが、簡単な訳が無い。幸せの一言だけで片付けられる訳がない。
明日また来ます、と言って侍医は寝室を辞した。
「シルキー」
バイエルはベッドの近くに置いた椅子に座った。
シルキーの顔色は相変わらず悪いが、最近長く見かけなかった穏やかな表情をしている。
(逃げ回っていた猫が観念したようだ)
「撫でてもいいか?」
シルキーは一瞬何を言われたか分からないようだったが、こくりと頷いた。