第五章 気配
シルキーは宮殿の片隅にある塔の壁を登っていた。
久しく登っていない壁は、いつもと変わらず自分を受け入れてくれた。
全身の筋肉が久しぶりに壁を登る刺激に歓喜している。平面を歩く時と違う負荷が、シルキーに活力を与える。
(生きてるって感じ!)
見上げた空は雲一つなく澄み切って穏やかだ。
(なんだ、私もこの塔も変わらない)
そんな風に安心して、油断してしまった。
シルキーは自分の重心が以前と変わっている事に気付かず、高所で足を踏み外した。
「シルキー!!」
誰の声だろうと思った。
普段物静かな夫が叫んだ声だと理解した時には、シルキーの身体は完全に宙に投げ出されていた。
何も掴めない。
時の流れが永遠のように遅く感じる。
自分はこのまま死ぬのだろうか。
(前にも落ちたな……)
あの時はソリストが助けてくれた。
でも今はもう彼はいない。
(巻き込んでしまった)
唐突に、誰かに猛烈に謝らなければいけない気がした。
(ごめんね)
ガサガサガサガサ!!
という音と共に、シルキーは何かに掴まれ柔らかい物の上に落ちた。
そして。
「お前は死ぬつもりか!!」
耳元で怒鳴られる。
自分が下敷きにしたのは夫のバイエルで、彼はシルキーを抱きしめたまま塔を囲うようにあった植え込みに倒れ込んだらしい。
「シルキー……?」
バイエルの戸惑った声が聞こえる。
シルキーは自分の腹部を両手で押さえて呆然としていた。そこを、無意識に衝撃から守るように抱え込んでいた。
シルキーが驚いたのは珍しいバイエルの怒声でも、自分の無意識の行動でもない。
シルキーが心の中で謝った時、それに微かな力で応えた存在がいた。
自分の内側から。
「……うごいた」
涙がこぼれた。怖くて。不安で。心が震えて。光が世界中に弾けるようで。
その存在は、自分はここにいると今もシルキーに伝えてくる。
「死んでない」
自分も、この小さな存在も。
バイエルはシルキーを羽を抱くように包み込んだ。
「頼むから、もう壁には登らないでくれ」
「……分かった」
「走るのは良いが、ほどほどに」
「うん……」
「あと」
バイエルはシルキーを叱るような顔で見つめた。端正な顔で睨まれると、シルキーでもピリッと緊張してしまう。
「ちゃんと侍医に診てもらえ」
「……」
「大丈夫だ。何があってもお前を離さないから、怖がるな」
シルキーはバイエルに抱きついて頷いた。