第四章 脱走
シルキーがいる寝室に、酸っぱい匂いが広がっていた。いつもなら爽やかさを感じる香りなのだが。
「要らない。飲めない」
バイエルが料理人に頼んで特別に用意させたというレモンの果実水を、シルキーは掠れた声で突っぱねた。
ベッドの上から動けなくなってどのくらい経ったのだろう。横になると胸焼けが酷くなるので、クッションを使って常に半身を起こして座ったような姿勢でいる。
だが、この姿勢では首が疲れて仕方ない。
ずっと座りっぱなしのせいか、腰も痛む。情けなさで泣けてくる。
(突然、何だろう)
レモンの果実水の他にもレモンの輪切りと丸ごとが、何故かシルキーの前に両方出されている。
夫はこれをどうしろと言うのか。
「これ……」
シルキーは口元を押さえた。
バイエルはシルキーに耳を寄せる。
「見たくない。早く下げてほしい」
ただでさえ胃酸が常に喉元まで上ってきているような感覚だから、更に酸っぱい物を口に入れると堪えられず吐いてしまう。
この数週間で既に何度も嘔吐を繰り返しているシルキーには大体、自分が近づいてはいけない食材が見分けられた。
匂いが強い物、味が濃い物、温かい物、酸っぱい物。それらを目にするだけでも吐き気を催す。
夫は自分を見て、不可解そうな顔をしている。
「シルキー、やはり侍医に診てもらった方がいい。薬で良くなる病かもしれない」
その声がシルキーの胸に突き刺さるようだった。
(予感がするの)
「嫌」
シルキーは首を横に振る。
「シルキー」バイエルの声に厳しさが宿る。
(これは私達を変えてしまう)
「嫌……」
「侍医を呼ぶ。大人しく診てもらうんだ」
バイエルは有無を言わさず家令を呼び、侍医を皇太子夫妻の部屋に呼び出した。
しかし、シルキーもシルキーで最後の抵抗をした。
夫が目を離した隙をついて、侍医から逃げることにしたのだ。
✳︎✳︎✳︎
「恐れながら殿下」
皇太子夫妻の部屋に駆けつけたはずの侍医は、困り顔でバイエルの執務室を訪ねてきた。
「どうした」
「妃殿下が、その……逃げ回っておられます」
「は?」
シルキーが寝込んでいる寝室に侍医を呼び、バイエルは外せない重要な仕事があったため執務室に移動した。
どうやらバイエルが居なくなったあと、シルキーは寝室から脱走したらしい。
(あの身体で?)
不健康に痩せ細り、気力も無くしたシルキー。一体どこに逃げ出す体力が残っていたのか。
歩くのはおろか、立つのもやっとのはずだ。だから逃げる心配もないと思って離れた。
(嫌がりすぎだろう)
逃げたからと言って何かが解決するわけでもないだろうに。妻の往生際の悪さに頭を抱えてしまう。
バイエルは最悪の事態を想像した。
幼い頃の自分が可愛がっていた白猫の最期の姿がチラチラと頭に浮かぶ。
(猫は)
バイエルは白猫が好んだ場所を思い出す。
(高い場所が好きだ)