第十一章 想いを抱きしめて
アルザス家の敷地にある白い塔の上にて。
「壁を登ったことなどなかったが……存外、気分が良い」
バイエルは汗を拭ってシャツの一番上のボタンを外した。そんな風に服を着崩すバイエルは珍しく、少し艶っぽい。
その横に座っていたシルキーはしばしぼんやりした。
夫が初めて一緒に壁登りをしてくれたのが嬉しいし、満更でもなさそうなのがもっと嬉しい。
「空が綺麗だ」
バイエルは青空を見上げる。
「バイエルもとうとう分かってくれた!? 空の景色と、この背中の筋肉への負荷がたまらないの!」
シルキーは興奮して顔をバイエルに寄せる。
バイエルは苦笑した。ここ数年、バイエルがシルキーによく見せるようになった困ったような笑顔だ。
シルキーはバイエルのこの優しい表情が好きでたまらない。
「昔、白の姫君がここから落ちてきたのを、今でも覚えてる」
「私も、バイエルに手当してもらったのを覚えてる」
「あの時はソリスト兄上に少し嫉妬した」
「え……」
バイエルはシルキーの頬に唇を寄せて囁く。
「あの頃、お前には兄上しか見えていなかったろう?」
「気にしてたの?」
(そんな風には見えなかったけど……)
「多分、周りが思うより」
バイエルはシルキーと目を合わせる。
長い指がシルキーの頬をなぞり、藍色の瞳が鋭さを帯びる。
「独占欲は強い方だ」
シルキーは素早くバイエルから距離を取った。
よく分からないが身の危険を感じた。
「おいでシルキー、何もしないから」
「そんな猫みたいに呼ばれても!」
バイエルはシルキーに近づき、優雅にその手を取った。
「お前とシンフォニーの手を、離すつもりはない」
シルキーは自分の手の甲に視線を落とす。
「お父様も、お母様も」
シルキーの白銀の髪が風に巻き上げられる。
「シンフォニーを大事にしてくれるわ。きっと。でも賢い子である程、お父様達の狙いに早く気付いてしまうかもしれない」
シルキーはそれが怖い。
成長したシンフォニーが自分のように傷つくのが怖い。
バイエルはシルキーの髪を撫でながら言う。
「たくさん会いに来よう。よく見てやろう。そして翳りが見えたら」
「見えたら?」
「攫ってしまおう」
シルキーは目を点にした。夫にしては雑な計画だ。
「シンフォニーが壁に登り始めたら、危険信号だな」
シルキーは唇を尖らせた。
「でも貴方の方に似ていたら、周りの思惑を全部飲み込んで、利用してしまうかもしれないわね」
「それは頼もしい」
バイエルは、シルキーにだけ聞こえる声で囁いた。
「俺達の子供だ。アルザス家くらい乗りこなしてもらわねば」
結局のところ、バイエルは我が子シンフォニーの力を信じる方に賭けたのだ。
シルキーはそれに思い至り、深く息をついた。
これではアルザス家と皇室の騙し合いだ。
「帰る前に、沢山抱きしめておかないと」
バイエルの呟きに、シルキーは頷いた。
「そうね。しばらく会えないんだから」
(シンフォニーの顔をいっぱい覚えて帰ってほしい)
そんなことを考えていたからシルキーの反応は遅れた。
「じゃあ」
と、バイエルはシルキーから少し離れ、こちらに向かって両手を広げた。
「?」
「飛び込んでこないのか?」
「……私?」
「お前もしばらく帰ってこないだろう」
夫は悪戯っぽく笑んでいた。
シルキーは少し低い体勢を取った後、助走をつけて地面を蹴って高く跳び、夫に抱きついた。
ドレスの裾が宙を舞う。
シルキーはバイエルに強く抱きしめられた。
「愛してる。誰よりずっと」
その声に答える代わりに、シルキーは夫の頬に口付けた。




