第七回 培養勢力謀天下 国譲領兵護曹家
沛国で曹操と別れた後、劉備はふと、ある考えに囚われた。
あの野郎…いずれ天下を争う相手になる。あの場で殺しておけば、後々苦労することはなかったかもしれねえ…
ヤクザの修羅場をくぐり抜けてきた宗一郎にとって、敵は芽のうちに摘むのが鉄則だった。しかし、曹操という男の器量に、一瞬とはいえ「義」を感じてしまった自分に、わずかな後悔がよぎった。だが、過ぎたことは仕方がない。劉備は、自らの「龍の道」を進むのみと覚悟を決めた。
平原丞として青州に留まった劉備は、複雑な状況に直面していた。当時の青州は、北方の雄である公孫瓚と、河北を席巻する袁紹の間で激しく揺れ動く最前線だった。劉備は公孫瓚の推挙で平原丞となったものの、刺史である田楷との関係は微妙だった。田楷は刺史として一州を束ねる立場ではあるが、郡の長である劉備に直接的な命令を下すような「配下」というわけでもない。お互い、独立した勢力として、協力関係にあるに過ぎなかった。
この曖昧な関係の中、劉備は公孫瓚の先鋒として、袁紹の領土を切り取ろうと軍事行動に参加していた。しかし、平原の郡民たちは、劉備が彼らを治めることを「恥」と見なしていた。彼らは名声高き袁紹に国を委ねたいと願い、公孫瓚の手先である劉備を排除しようと目論んでいたのだ。
ある夜、劉備の屋敷に一人の刺客が忍び込んだ。その背後には、袁紹への恭順を望む平原の郡民たちの意図があった。刺客は劉備の寝室に音もなく侵入し、その喉元に刃を突きつけた。
「劉玄徳、貴様の命、ここで終わりだ」
刺客の声は冷酷だったが、劉備は微動だにしなかった。彼は静かに目を開け、刺客の目を真っ直ぐに見つめた。
「俺を殺して、何が変わる?この平原の民は、本当に安寧を得られるのか?」
劉備は、低い声で問いかけた。刺客は驚いた。普通なら命乞いをするか、逆上するかだ。
「貴様がこの地を治めること自体が、我らの恥だ!袁紹殿こそ、この乱世を救うにふさわしいお方!」
「袁紹が救う?人を脅して領土を奪い、民を顧みない者が、本当に救いをもたらすのか?」
劉備は、これまでの「シノギ」で培った、相手の心を見透かす鋭い眼光で、刺客に語りかけた。それは、民衆を守るために命を懸けてきた男の「仁義」が詰まった言葉だった。彼は、袁紹が韓馥を脅して冀州を手に入れたこと、そのために評判を落としたことまで、冷静に指摘した。
刺客は、劉備の言葉に衝撃を受けた。彼は、ただ劉備を殺すためだけにここに来たはずだった。しかし、劉備の言葉には、彼が信じていた袁紹の「名声」の裏にある、別の真実が含まれているように思えた。そして、何よりも劉備の放つ「侠気」と、民を案じる「義」の心に触れ、刀を振るうことができなかった。
「…貴様のような男が、本当にこの世を変えられるのか…」
刺客はそう呟くと、刃を収め、静かに去っていった。劉備は、彼を追うことはしなかった。
この一件は、劉備にとって大きな意味を持った。彼は武力だけでなく、言葉と「仁義」によって、敵対するはずの刺客の心を動かしたのだ。それは、後に趙雲が彼に魅せられる過程にも似ていた。刺客は、はじめ袁紹派であったが、劉備と語り合うことで、劉備が悪くないことを知った。積極的に劉備や公孫瓚を支持するわけではないが、袁紹に漠然とした不信感を抱くようになり、当面は劉備たちの動向を見守ることを選んだのである。
劉備は、この経験を通じて、自身の「筋の通し方」が、単なるヤクザの流儀に留まらない、乱世を生き抜くための「人心」を得る術であることを再認識した。平原の郡民たちが彼を軽んじても、彼の「義」は、確実に人々の心を捉え始めていた。
沛国での曹操との別れ、そして平原での刺客との対峙を経て、劉備は平原丞としての地盤を固めていた。
あの夜、刺客が去った後、劉備は静かに簡雍、関羽、張飛、田豫を呼び寄せた。
「兄者、あの刺客、生かしておくとは…」
と張飛が訝しげに尋ねる。
劉備は首を振った。「いや、張飛。奴はもう俺を害することはねえ。それどころか、もしかしたら『味方』になるかもしれねえな」
そして数日後、劉備はあの刺客を捜し出し、自らの屋敷に招き入れた。刺客は警戒しながらも劉備の前に現れた。劉備は彼を上座に招き、自ら酒を注ぎ、手厚くもてなした。
「貴殿の心意気、しかと受け取った。民を思う気持ちは、貴殿も俺も同じだろう。この乱世、一人ができることには限りがある。だが、志を同じくする者が集まれば、きっとこの世を変えられる」
劉備の言葉は、刺客の心の奥底に染み渡った。彼は、袁紹の名声に惑わされていた自分を恥じ、劉備の「仁義」と「筋」に心服した。
「劉玄徳殿…私は、貴方のようなお方に初めてお会いいたしました。この命、もしお役に立つならば、喜んでお預けいたしましょう」
刺客はそう言って、劉備の前にひざまずいた。劉備は彼の肩を力強く叩き、静かに頷いた。このようにして、劉備は武力だけでなく、その「人たらし」の才、つまり人心を得る力で、着実に味方を増やしていったのだ。それは、彼が公孫瓚の傘下に留まるつもりなど毛頭なく、いずれ来るであろう天下への旅立ちに備え、あらゆる「縁」を繋ぎ、「仲間」を増やすための布石でもあった。
時が経ち、劉備の名声は徐々に広まり始めていた。そんな中、下邳の地で広陵太守を務める陳登が、劉備を高く評価しているという噂が劉備の耳に届いた。陳登は、太尉を務めた陳球の孫という名門の出であり、天下の士人を軽んじることで知られた人物だった。
ある日、陳登の功曹である陳矯が平原郡を訪れた際、劉備は彼を丁寧に迎え入れた。表向きは公務の協議であったが、劉備は陳矯を通じて陳登の真意を探ろうとした。
陳矯が下邳に戻った後、陳登は彼に尋ねた。
「陳矯よ、劉玄徳とはいかなる人物であった?」
陳矯は、劉備との面会の様子を詳細に報告した。劉備がどれほど民を大切にし、義侠心に溢れているか、そしてその配下がいかに精強であるかを語った。
陳登は腕を組み、深く考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「そうか…天下の士人を多く見てきたが、劉玄徳だけは別格だ。あの男には、『王覇の略』がある」
陳矯は驚いた。普段、他人を滅多に褒めることのない陳登が、劉備にこれほどの評価を下すとは。
この陳登の言葉は、やがて劉備の耳にも届くことになる。
「へえ、あの堅物の陳登が、俺を『王覇の略』があるってか。なかなか見る目があるじゃねえか」
劉備は、簡雍と田豫にそう告げ、不敵な笑みを浮かべた。
「大将、これでまた一つ、箔がつきましたな」
と簡雍が笑う。
田豫は冷静に分析した。
「陳登殿の評価は、我々の今後の動きに大きな影響を与えるでしょう。特に徐州方面との連携を考える上で、非常に重要です」
関羽は静かに言った。
「兄者の『義』が、ようやく理解され始めた証でしょう」
張飛は豪快に笑いながら
「ちぇっ、堅物野郎が何言ってるか知らねえけど、兄者がすげえって言ってんなら、そりゃすげえんだろ!」
劉備は、公孫瓚の傘下に甘んじることなく、自らが天下を狙う「龍」であることを、周囲に示し始めていた。陳登のような名士からの評価は、彼の勢力拡大の追い風となり、やがて彼を、より大きな舞台へと導いていくことになる。
平原丞となった劉備は、この地を単なる通過点とは考えていなかった。彼は、この乱世を生き抜くためには、「根ざす」ことの重要性を理解していた。自らの「仁義」と「筋」で得た名声をさらに集めるべく、彼は配下の兵士たちの家族、そして自身の家族までも平原に呼び寄せ、共に暮らすことを奨励した。これは、ヤクザとしての「組」の結束を固めるが如く、平原を劉備の「縄張り」として盤石にするための、彼なりの試みだった。
「家族がここにいれば、兵士たちも安心して戦える。それに、民も俺たちが本気でこの地を守るってことを理解するだろう」
劉備はそう言って、平原の治世に心血を注いだ。しかし、彼自身、これが一時的な「根差し」であり、この乱世にあって永続的な安寧が困難であることは、三国志の知識から承知していた。それでも、彼は今の自分にできる最善を尽くした。
関羽と張飛は、劉備の度重なる指導により、自身の性格を矯正しつつあった。
「益徳、お前は下の者に対して、もっと『思いやり』を持って接しろ。酒の席で羽目を外すのは構わねえが、部下の飯を勝手に食ったり、威張り散らしたりするような真似は許さねえ。彼らだって、家族のために命懸けでついてきてんだ。お前が慕われなきゃ、誰も本気でついてこねえぞ」
劉備は、張飛の「下に対する厳しさ」を指摘した。張飛は相変わらず不満げな顔をしたが、以前のように反発することはなく、「へへっ、兄者がそう言うなら…」と渋々ながらも納得するようになった。
「雲長、お前は確かに義に厚く、下の者には優しい。だが、『上』に対してもう少し『柔軟な対応』ができなければ、いずれ足元を掬われるぞ。この乱世は、清濁併せ呑む覚悟がなければ生き残れねえ。時には、憎まれ役を買って出ることも必要だ。それが、俺たちを守ることに繋がるんだ」
劉備は、関羽の「上に対する頑なさ」を諭した。関羽は難しい顔をしたが、劉備の言葉の真意を理解しようと努めた。「兄者の仰せ、肝に銘じます」と、以前よりも素直に受け入れるようになった。
劉備は、彼ら義兄弟に、いつか自分自身の「所帯」、つまり独立した勢力を持ってほしいと願っていた。そのためには、ただ強いだけでなく、人を束ね、動かすための器量が不可欠だと考えていたのだ。
「あいつらは、俺がいなくても、いつか自分の力で天下に名を轟かせる。そのためにも、今、徹底的に鍛え上げてやる」
劉備はそう考えていた。
そんな中、劉備は田豫に別働隊五千の指揮を任せることを決めた。
「田豫、お前にはこの五千を預ける。平原周辺の黄巾残党の掃討、そして新たな『シノギ』の開拓を任せる」
劉備は、田豫の持つ「器」を見抜いていた。真面目で冷静沈着、そして何よりも劉備の「仁義」を理解している。彼に足りないのは、大軍を率いての「経験」だけだと踏んでいたのだ。
「劉備様…この田豫に、かかる大役が務まるでしょうか」
田豫は恐縮しながらも、その目は自信に満ちていた。
「務まるさ。お前にはその器がある。経験はこれから積めばいい。お前の背後には、俺たちがついてる。もし何かあれば、いつでも援軍を送る。だが、基本はお前の判断で動け」
劉備は田豫の肩を叩き、全幅の信頼を置いた。
劉備はしばしば田豫を別働隊の大将に任じ、独立した軍事行動を行わせた。これにより、田豫は着実に経験を積み、劉備の勢力は、表向きは平原に根ざしつつも、水面下でその影響力を広げていくことになる。平原の地は、劉備にとって、将来の天下統一を見据えた、人材育成と勢力拡大の重要な拠点となっていた。
乱世の胎動、徐州への布石、そして曹操一家の護衛
平原の地で着実にその勢力を固めつつあった劉備(劉宗一郎)は、刻一刻と変化する天下の情勢を冷静に見つめていた。反董卓連合が瓦解し、各地の諸侯が互いに争う群雄割拠の時代が本格的に到来したことを、彼は肌で感じていた。
いよいよか…この乱世の本格的な幕開けだ。そして、俺の「龍の道」も、ここからが本番だ
劉備の脳裏には、遠い未来の記憶が蘇っていた。自分がいずれ、陶謙から徐州を受け継ぐことになるという確信。そして、その徐州を巡って、曹操と激しく対立することになるという予感。
「大将、天下はますます混沌としてきましたな。この平原も、いつまで安泰でいられるか…」
簡雍が不安げに呟いた。
劉備は静かに首を振った。
「混沌こそ、俺たちの『シノギ』の好機だ。だが、そのためには、先手を打つ必要がある」
劉備は、田豫を呼び出した。
「田豫、お前に重要な任務を任せる。別働隊五千を率いて、徐州と豫州の近くを通れ。そして、曹操一家の護衛にあたれ」
劉備の言葉に、田豫は驚きを隠せない。
「曹操一家の護衛にございますか?しかし、我らは公孫瓚殿の配下として…」
「表向きはな。だが、この乱世で生き残るには、『筋』を通しつつも、時に『裏』の顔を見せる必要がある。曹操は、いずれ天下を争う相手となるだろう。だが、今はまだ、奴を利用させてもらう」
劉備の目には、冷徹な計算が宿っていた。
「曹操一家を護衛することで、奴に貸しを作る。そして、徐州と豫州の地の情報を集めろ。特に徐州は重要だ。いずれ、俺がその地を治めることになる」
田豫は劉備の言葉に、その深謀遠慮を感じ取った。
「承知いたしました、劉備様。この田豫、命に代えても任務を全ういたします」
田豫が別働隊を率いて出発した後、張飛が不満げに劉備に詰め寄った。
「兄者!なんであの曹操の野郎の家族なんざ護衛しなくちゃならねえんだ!あんな胡散臭い奴、いつか裏切るに決まってら!」
関羽もまた、静かではあったが、張飛と同じような疑問を抱いているようだった。
「益徳、雲長。お前たちの気持ちもわかる。だが、この乱世は、敵と味方が常に明確なわけじゃねえ。時には、敵を利用し、時には味方と見せかける。それが『生き残る』ってことだ」
劉備は、二人の義兄弟に諭すように語りかけた。
「俺たちは、いつか天下を取る。そのためには、今、力を蓄え、情報を集め、『縁』を作る必要がある。曹操一家の護衛は、そのための布石だ。徐州の近くを通ることで、地の利も知れる。そして何より、曹操に貸しを作ることで、いざという時に利用できる『手札』が増える」
簡雍がニヤリと笑った。
「へへっ、大将の『シノギ』は、いつも一石二鳥どころか、三鳥、四鳥ですな」
劉備の言葉に、関羽と張飛も納得した。彼らは、劉備の「仁義」が、単なる感情論ではなく、乱世を生き抜くための冷徹な戦略に基づいていることを理解し始めていた。
田豫が率いる別働隊は、徐州と豫州の境界近くを進軍した。彼らは、曹操一家の護衛という任務を遂行しつつ、その道中で各地の情勢、兵力、民の暮らしぶりといった詳細な情報を劉備に報告した。この行動は、劉備が将来、徐州を治める上で、かけがえのない情報と経験をもたらすことになる。そして、曹操との間に、奇妙な、しかし確かな「縁」を築き上げていくのだった。