第二回 劉玄徳初入涿郡 四處尋覓地頭蛇
荒れた村の道を抜け、劉備は従兄弟の劉徳然と共に、涿郡の城門をくぐった。城壁は高く、土埃が舞う中、兵士たちが厳しく行き交う人々を監視している。村とは比べ物にならない喧騒と人の多さに、劉備はわずかに顔をしかめた。
「へぇ、これが涿郡の城か。案外、しょぼいな。新宿の雑踏と比べりゃ、まるで田舎の祭りだぜ」
劉備は辺りを見回しながら、ぶつぶつと独りごちた。隣を歩く劉徳然が、不安げに劉備の顔を覗き込む。
「兄ちゃん、あまり変なことは言わないでくださいよ。我らはこれから、盧植先生の学問所へ向かうのですよ。失礼があってはなりません」
徳然は、いかにも真面目そうな顔で、書物を抱きしめている。劉備は鼻で笑った。
「そんな堅苦しいこと、性に合わねぇって言ってんだろ。それに、あのジジイの学問が、この乱世で何の役に立つってんだ?」
「兄ちゃん!滅多なことを……」
徳然が慌てて劉備の口を塞ごうとするが、劉備はひらりとそれをかわした。
先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服。
劉備はあまり読書が好きでない。犬や馬、音楽を好み、衣服を飾った。
劉備の頭の中には、資料の記述が蘇る。ヤクザ時代から、退屈な勉強など御免だった。しかし、母と叔父の顔が脳裏に浮かび、ため息をつく。
「ちっ、あの二人には世話になってるからな。義理は通さねぇと」
盧植の学問所は、城内でもひときわ立派な屋敷だった。門前には、真面目そうな若者たちが何人も立っている。どうやら、各地から集まった学徒らしい。
「備兄、あそこです。さあ、早く中へ…」
徳然が、期待に目を輝かせ、劉備の手を引こうとした。しかし、劉備はそこで足を止めた。
「悪ぃな、徳然」
劉備は、徳然の手をすり抜け、門とは逆の方向へ歩き出した。
「え?兄ちゃん、どちらへ?」
徳然が呆然として問いかける。
劉備は振り返り、ニヤリと笑った。その顔は、かつて龍崎組のシノギで駆け引きをする時の、冷徹な若頭の顔だった。
「野暮用だ」
あったりめぇだ!こんなとこで呑気にやってられるか
よ!先ずは金だ!千里の道も一歩からたァ言うがな…それも金が無けりゃ始まらねぇ!
「おい、野暮用って言ったって…先ずは先生に挨拶だろ!?兄ちゃん、待ってくださいよ!」
徳然の焦る声が背後から聞こえるが、劉備は振り返りもせず、そのまま雑踏の中に姿を消した。彼の目指す先は、学問所などではない。この涿郡の、裏社会の匂いがする場所だった。
「まず何から始めるか…この涿郡にも、きっと厄介なシノギがあるだろうからな。」
劉備の口元に、獲物を見つけた獣のような笑みが浮かんだ。彼の「学問」は、座学ではなく、この乱世の修羅場で培われるのだ。
「ちっ…学問所なんざ、ヤクザには何の役にも立たねぇ。時間の無駄だ。」
劉備は、涿郡の雑踏の中を悠々と歩いていた。周りの人間は、彼が幼い子供であることに気づきもしない。しかし、その瞳の奥には、裏社会を生き抜いてきた男の冷徹な光が宿っていた。
「そうだよなぁ…どうすっか?とりあえず商売やるにしても、元手を増やさなきゃ下も集まらねぇよな…」
独りごちながら、劉備は顎に手を当てた。ヤクザのシノギと同じだ。金を動かし、人を集める。それがこの乱世で生きていく基本だろう。
「この時代で金を稼ぐって言っても、何がある?賭場か?それとも、何か物資を強引に横流しでもするか…?」
かつての宗玄なら、手っ取り早く暴力で金を奪うことも辞さなかっただろう。しかし、今はまだ、この貧弱な体だ。迂闊な真似はできない。
「かといって、堅気に商売するってのもなぁ…泥臭いことには慣れてるが、効率が悪すぎる」
彼の頭の中では、すでに様々な「シノギ」のアイデアが、かつての経験とこの時代の状況を照らし合わせながら、高速で組み立てられていた。
「まずは情報だ。この涿郡に、どんな大きな金が動いてるか。そこからだ。美味い話には必ず裏がある。その裏を握ってこそ、ヤクザってもんだ」
劉備は、まるで歌舞伎町の路地裏を歩くかのように、城内の大通りから、少しずつ薄暗い横道へと足を踏み入れた。彼の目は、人々の表情、交わされる会話、そして建物の隅々にまで、かすかな「匂い」を嗅ぎ取ろうとしていた。それは、金と、権力と、そして血の匂いだった。
「この身体じゃ、まだ大っぴらに動けねぇ。だが、小さいシノギでもいい。まずは足がかりだ。組を立ち上げるにも、まずは金と、信頼できる若い衆がいなきゃ始まらねぇ。」
彼は、かつての龍崎組の若頭・劉宗玄として、ゼロから組織を立ち上げた時の感覚を思い出していた。この乱世も、結局は同じことだ。
「よし、まずはこの街の『顔役』でも見つけてみるか。そこから、何かヒントを掴めるかもしれねぇ。」
劉備の口元に、自信に満ちた笑みが浮かんだ。学問所での退屈な座学よりも、彼にとっては遥かに刺激的で、実りある「学び」が、今、始まろうとしていた。
「さて、この涿郡の『顔役』でも見つけてみるか…」
劉備が涿郡の街を彷徨い歩いていると、あっという間に時間は過ぎていった。通りに立ち並ぶ商人の屋台、活気ある市場、路地裏に漂う胡散臭い匂い……。彼は五感を研ぎ澄ませ、この時代の「シノギ」の種を探していた。金になりそうな話、人を集めるきっかけ、そして何より、この乱世を生き抜くための情報。かつての龍崎組若頭として培った嗅覚が、新たな獲物を探し続けていた。
しかし、幼い体と、まだ見ぬこの世界の「ルール」の前に、すぐに大きな獲物を見つけることはできない。結局、日が傾き始め、夕闇が迫る頃になっても、めぼしい情報は掴めずにいた。
「ちっ、こんなもんか。そう簡単に美味い話が転がってるわけねぇか。まぁ、焦るこたぁねぇ。地道に足を使って情報を集めるのが、ヤクザの基本だ」
そう諦めかけたその時、ふと視界の隅に、先ほど置き去りにしてきた盧植の学問所が見えた。そして、その門から、ぞろぞろと生徒たちが吐き出されるように出てくるのが見えた。一日が終わったらしい。
「お、なんだ、もう終わりか。早いもんだな、学問ってやつも」
劉備は、その中に見慣れた顔を見つけた。従兄弟の劉徳然だ。いかにも真面目そうに、大量の竹簡を抱え、疲れ切った顔で歩いている。
劉備は、徳然に近づき、声を掛けた。
「よお、徳然。勉強熱心なこったな。もう終わりか?」
劉備の呑気な声に、徳然はハッと顔を上げた。そして、彼の姿を認めると、眉間に深い皺を寄せた。
「兄ちゃん!一体どこに行っていたのですか!?」
徳然の声は、疲労と怒りが入り混じったものだった。
「どこって、野暮用だよ。言ったろ?」
劉備は肩をすくめた。
「野暮用!?あなたが来ていない間、どれだけ私が困ったか……!先生にも、どう説明すればよいか分からず、ずっと気をもんでおりました!」
徳然は、抱えた竹簡をガサガサと鳴らしながら、立て続けに愚痴を吐き出した。
「それに、今日の講義ときたら、また孔子の論語だの、孟子の教えだの…。実りがあるのは分かりますが、どれもこれも退屈で、頭が痛くなりましたよ!備兄がいないから、余計に退屈で…」
徳然の愚痴を聞きながら、劉備は内心でニヤリと笑った。
「そうだろうな。お前みてぇな真面目な坊主には、あの座学は性に合うかもしれねぇが、俺には退屈で仕方ねぇ。こんなクソ退屈な場所に一日中閉じ込められるなんて、拷問だぜ」
劉備は、表面上は同情するような顔を作りながら、徳然の愚痴を全て受け止めた。ヤクザ時代、組員や客の不満を聞くのは日常茶飯事だった。相手のガス抜きをしてやるのも、一種の「義理」だ。
「まあまあ、そう拗ねるなよ、徳然。明日から、また新しい『シノギ』が見つかるかもしれねぇぜ?」
劉備はそう言って、徳然の肩をポンと叩いた。彼の心の中では、すでに学問所通いをどうやってサボり、効率よく「元手」を稼ぐかの算段が始まっていた。
翌朝。劉備は、まだ夜が明けきらぬうちから、徳然に強引に起こされた。
「兄ちゃん!起きてください!今日はちゃんと学問所へ行くのですよ!」
「あー…くそ、まだ眠ぃんだよ…。なんで朝からこんなに元気なんだ、お前は」
劉備は頭を掻きながら唸った。昨夜遅くまで、この街の地図を広げて、金になりそうな場所を探していたのだ。
「何言ってるんですか!昨日、あんなことをして、今日まで休んだら、先生に顔向けできません!」
徳然は、劉備の腕を掴み、半ば引きずるようにして学問所へと向かった。
盧植の学問所の門前には、既に何人かの学徒が立っていた。徳然は深々と頭を下げ、劉備を引っ張って中へ入る。盧植は、白髪を蓄えた厳格な雰囲気の老学者で、教壇に座って竹簡を読んでいた。
「先生、劉備が参りました!」
徳然が大きな声で告げると、盧植はゆっくりと顔を上げた。その鋭い眼光に、劉備は一瞬、かつての親分衆の威圧感を覚えた。
「ふむ。お主が劉備か。徳然から話は聞いているぞ」
盧植の声は落ち着いていたが、その奥には底知れぬ威厳が宿っていた。
「遅れて申し訳ありません。昨日は……野暮用がありまして」
劉備は、内心で舌打ちしながらも、最大限に恭しく頭を下げた。相手は、この時代の「顔役」の一人だ。まずは、礼儀を示すのがヤクザの筋というものだ。
「野暮用、か。まあよい。学問とは、己を磨き、世を治める術を学ぶもの。遊び呆けてばかりいては、何も身につかぬぞ」
盧植の言葉に、劉備は内心で遊び呆けてるわけじゃねぇんだよ、シノギを探してるんだと反論したが、もちろん口には出さない。
「はい、肝に銘じます。」
劉備は、いつものように感情を表に出さず、深く頭を下げた。徳然は、劉備が素直に挨拶したことに安堵したのか、ホッと息をついている。
「これで、お袋も叔父貴も、とりあえずは納得するだろう。だが、座学なんぞ、長続きするわけがねぇ。どうにかして、この時間を利用して、別の『シノギ』を見つけてやる」
劉備は、盧植の言葉を聞き流しながら、この退屈な学問所で、いかにして自分の野望を達成するか、新たな算段を巡らせていた。彼の「学問」は、これからが本番なのだ。
学問所の広間には、数十名の学徒たちが盧植の声に耳を傾けていた。儒教の経典や歴史書を読み上げる盧植の声は、劉備にとっては単なる子守唄に過ぎない。しかし、この場所には、学問以外にも「使える」情報が転がっているはずだと、劉備は周囲を観察していた。
その中で、劉備は特に目を引く二人組に気づいた。一人は、顔つきは穏やかだが、どこか鋭い光を宿した男。もう一人は、豪放磊落な雰囲気を纏い、時折大きな声で笑う男だ。彼らが同郷の者たちと話しているのを聞くと、どうやら、遼西出身の豪族、公孫瓚と、同郷の高誘というらしい。
休憩時間になると、劉備は徳然を伴って、その二人へと近づいていった。
「よお、あんたたち。ずいぶん威勢がいいじゃねぇか」
劉備が声をかけると、公孫瓚がギロリと目を向けた。
「なんだ、お前は?この学問所で喧嘩を売りに来たのか?」
公孫瓚の声には、確かに豪族としての気迫が宿っていた。隣の高誘は、少し驚いたような顔で劉備を見ている。
「まさか。俺は劉備。涿郡のモンだ。あんた方、遼西の公孫瓚殿と高誘殿だろ?噂はかねがね聞いてるぜ。まさか、こんな堅苦しい場所で会えるたぁな」
劉備は、低い姿勢で、しかし有無を言わせぬ態度でそう言った。ヤクザの世界で培った、相手の懐に入り込む術だ。
公孫瓚は、劉備の堂々とした態度に、少しばかり興味を覚えたようだ。
「ほう、我らを知っているとは。お主もなかなか変わった奴だな。学問など、退屈極まりないと思っておるのか?」
公孫瓚の言葉に、劉備はニヤリと笑った。
「まぁ、そんなところだ。俺は、本より人を読む方が性に合ってるんでね。あんた方からは、学ぶべきことが多そうだ」
高誘が、そこで口を挟んだ。
「劉備殿、あなたは盧植先生の教えを軽んじるのか?」
「とんでもねぇ。先生の教えはありがてぇ。だがな、この乱世、書物だけじゃあ生き残れねぇ。俺は、この足で稼ぐ『学問』の方が好きでね」
劉備の言葉に、公孫瓚は再び興味深げに劉備を見た。
「なるほどな。面白いことを言う。お主、名は劉備、字は玄徳と申したか。いずれ、我らと酒でも酌み交わすこともあるかもしれんな」
公孫瓚はそう言うと、豪快に笑った。その笑い声は、学問所の静寂を破るには十分だった。劉備は、彼らに「名刺代わり」の一言を残し、その場を離れた。
これで、少しは顔を売れたか。この学問所も、意外と使えるモンだな。ヤクザの『コネ』作りってやつだ。
劉備の心には、新たな「シノギ」の種が芽生え始めていた。