第一回 黒道転生成劉備 覇道之路足下始
新宿歌舞伎町の、黴臭い裏路地。冷たいアスファルトが、黒龍会若頭、龍崎組組長・劉宗玄の背中に、じっとりと張り付く。耳慣れた、しかし決して慣れることのない、乾いた銃声が鼓膜を震わせた。
「ぐっ……!」
胸元から広がる、熱く湿った感触。それは、かつて数えきれないほど見てきた、抗争の結末の匂いだった。肺が、苦しく酸素を求める。
「まさか、この俺が、こんな場所で……」
意識が、音を立てて遠ざかっていく。走馬灯のように、これまで歩んできた裏社会での日々が、脳裏を駆け巡った。新宿のネオン、金の匂い、そして血の匂い。数々の抗争、騙し合い、そして裏切り。だが、後悔はなかった。常に、自分自身の力で、この修羅の道を切り拓いてきた。薄れゆく視界の向こうで、子供の頃、母が読み聞かせてくれた『三国志』の、あの男の顔が、鮮明に脳裏に浮かんだ。
――劉備、字は玄徳…
死が、彼を完全に包み込んだ、と思ったその瞬間。
次に目覚めた時、劉宗玄は、まず自分の体の異変に気づいた。ずいぶんと幼く、ひどく貧弱だ。全身が、まるで洗い立ての布のように軽い。だが、その内側には、かつての劉宗玄とは比べ物にならないほどの、熱い血潮と、決して折れない不屈の闘志が、マグマのように滾っていた。
「……どこだ、ここは?」
視線を巡らせば、ぼろ屋の天井が目に入る。土壁は剥がれ落ち、隙間風が吹き込む。鼻腔をくすぐるのは、土埃と、かすかな焚き木の匂い。耳に飛び込んでくるのは、聞いたこともない古めかしい言葉だ。
「ああ、お袋さんよ、今日のわらじはこれでいいかい?」
隣で、しわだらけの手が、粗末な布を繕っている。その手の甲には、皺と共に、いくつもの泥の染みがこびりついていた。なぜかその古めかしい言葉が、すんなりと頭に入ってくることに劉宗玄は驚いた。そして、ふと目に入った壁に貼られた墨で書かれた貼り紙。ぼんやりと、だが確かに理解できるその文字を読み解いた時、彼は己が時代を遡り、三国志の英雄『英雄』として転生したことを悟った。
先主は、姓は劉、諱は備、あざなは玄徳という。涿郡涿県の人だ。漢景帝子中山靖王勝之後也。
資料に書かれた、あまりにも壮大な出自に、劉備は驚きを隠せない。
「皇族の末裔、だと?しかも前漢の景帝の子孫?冗談じゃねぇ。俺は昨日まで、歌舞伎町の泥水を啜ってたヤクザだぜ…?それが、こんなガキの体で、こんな貧乏長屋に逆戻りたぁ、どういうこった?」
しかし、すぐに劉備は思考を切り替える。ヤクザとして生きてきた彼の人生に、不可能という言葉はなかった。この状況もまた、新たな修羅場に過ぎない。
先主少孤,與母販履織席為業。
ぼろ屋で母親と履物や敷物を織る日々は、龍崎組のシノギで荒稼ぎしていた頃とは雲泥の差だ。だが、劉備は唇の端を吊り上げた。
わらじを編んでキャラ立ちか。上等じゃねぇか。こんなモン、昔はケツ持ちの若い衆に作らせてたもんだがな。だが、これも悪くねぇ。手先が器用になるってモンだ。この乱世を生き抜くには、どんな些細な技術も、無駄にはならねぇ!
家の東南の角に生える桑の木は、「高五丈餘,遙望見童童如小車蓋,往來者皆怪此樹非凡,或謂當出貴人」と評され、「貴人が出る」という伝説があった。
ある日、親戚の叔父、劉子敬とその知り合いが、その桑の木の下で立ち話をしているのが耳に入った。
「いやはや、あの桑の木は、やはり只ならぬと申しますなぁ。遠くから見れば、まるで天子の車蓋のようだとか」
「うむ、きっとこの家からは、いずれ高貴な御仁がお出ましになるに違いない。劉家の誉れじゃ」
二人の話に、劉備は静かに耳を傾けていた。
「ふん、ただの古い木じゃねぇか。こんなもんに、何を期待するってんだ?」
転生者である劉備にとっては、ただの古木に過ぎない。しかし、その根は、この乱世で生き抜くための、新たな野望の種を宿しているようにも感じられた。
そして、ぼそりと、誰にも聞こえない声で呟いた。
そうなのか?まぁ、ヤクザつったってなぁ…昔だもんなァ…いっそトップを目指しちゃろうか?
「…俺もいつかは、この国の頂点に立ってやる。皇帝とやらになってやるぜ。」
その瞬間、横から伸びてきた大きな手に、劉備の口は塞がれた。叔父の劉子敬が、厳しい顔で彼を見下ろしている。
「滅多な事を言うでない、備玄徳そのような事を口に出すだけで、我が一族は皆殺しの刑に遭うぞ!」
叔父の剣幕に、劉備は一瞬たじろいだ。ヤクザの抗争では命のやり取りも日常だったが、この時代の「皆殺しの刑」という言葉の重みは、彼が知るそれとは全く異質だった。
ちっ…危ねぇな、この時代は。昔なら、こんな爺さん、軽くあしらえるもんだが…
劉備は内心舌打ちしたが、表面上は素直に頷いた。
その頃、涿郡に住む李定という男が、劉備の生家を見て、驚きの声を上げたという。
「この家から、貴人が出るだろう!間違いない!」
その声は、貧しい劉備の耳にも、はっきりと届いていた。
それから数日後のことだった。劉備は母に言いつけられた雑用を済ませ、村の小道を歩いていた。すると、道の先で、年長の子供たちが幼い子を囲んで、何かを巻き上げようとしているのが見えた。
「おい、お前が持ってるその菓子をよこせって言ってんだろ!」
「やめてよ、僕のだよ!」
まさに、いじめの現場。かつての劉宗玄なら、有無を言わさず介入し、きっちり筋を通させていただろう。だが、今は貧弱な子供の体だ。
「へへ、劉備も見て見ぬフリかよ。お前も腰抜けだな!」
いじめっ子の一人が、劉備の存在に気づき、嘲るように言った。
劉備は、何も言わず、ゆっくりと近づいた。その目に、かつて裏社会で恐れられた冷徹な光が宿る。
「おい、坊主。その菓子、そいつからどうやって手に入れた?」
静かな、しかし有無を言わせぬ声。いじめっ子たちは一瞬ひるんだが、すぐに嘲笑を浮かべた。
「なんだよ、劉備のくせに偉そうに!お前なんかに何ができるんだよ!」
「そうだよ、弱いんだから引っ込んでろ!」
劉備は、にやりと口の端を上げた。
「弱い、だと?ああ、そうかもしれねぇな。だが、筋を通さねぇ奴は、俺の前に立つ資格もねぇんだよ。」
次の瞬間、劉備の体が動いた。幼い体とは思えない素早い動きで、一番大柄ないじめっ子の懐に飛び込むと、肘打ちを腹に叩き込んだ。
「ぐっ!」
想定外の一撃に、いじめっ子はうめき声を上げて膝をついた。劉備は容赦なく、その腕を捻り上げ、地面に押さえつける。
「おい、この菓子は誰のモンだ?」
冷たい声で問う劉備に、いじめっ子の顔は恐怖で歪んだ。
「お、俺のではありません…こいつの…」
「そうだろうな。他人のモンを奪うたぁ、ヤクザとして一番やっちゃいけねぇことだぜ。分かったか?」
劉備は腕を離し、地面に倒れたいじめっ子を蹴り上げた。残りの子供たちは、恐怖に顔を青ざめさせ、一目散に逃げ出した。
幼い子は、奪われかけた菓子をしっかりと抱きしめ、劉備を見上げた。
「ありがとう、劉備兄ちゃん…」
劉備は、少年の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「いいか、坊主。どんなに小さくても、自分のモンは自分で守れ。それが、この乱世を生き抜くってことだ」
この一件以来、村の子供たちは劉備を恐れ、同時に一目置くようになった。彼は村の悪ガキたちを一人ずつ叩きのめし、その地域の序列を確立した。しかし、彼の行動は決して乱暴狼藉ではなかった。筋を通し、弱いものを守り、無駄な暴力は避ける。ヤクザとしての『義理』と『仁義』を、子供ながらに貫いた。
そして何より、彼は母の言いつけを頑なに守った。わらじを編み、雑用をこなし、質素な生活を送る。それは、この時代で生きるための、彼の「シノギ」でもあった。
口数が少なく、よく人にへりくだった。喜怒の感情を、表情に出さなかった。劉備は、豪俠と交わった。年下の人は、争って劉備についた。
資料に書かれた劉備の姿は、まさに、このヤクザの魂を持つ少年劉備そのものだった。
劉備が成長するにつれ、彼の『シノギ』の範囲は、子供たちのいざこざだけに留まらなくなった。村の中での水路の分配争い、隣の村との境界線問題、盗まれた家畜の行方……。大人たちが頭を抱えるような問題にも、劉備は積極的に介入していった。
ある日、長年いがみ合っていた二つの家の間で、田畑の権利を巡る争いが勃発した。当主同士が怒鳴り合い、一触即発の状況。役所に訴えても埒が明かないと、村人たちは誰もが匙を投げていた。そこに、ふらりと劉備が現れた。
「へぇ、ずいぶん盛り上がってんじゃねぇか、おっさんたち」
劉備は、一見すると何気ない様子で、二人の当主の間に割って入った。
「なんだ、小僧。こんなところに何の用だ!」
「ガキは引っ込んでろ!」
二人の当主は、劉備をぞんざいに扱った。しかし、劉備は眉一つ動かさない。
「いやいや、あんたらの言い分は聞いたぜ。だがな、両方とも筋が通らねぇ。ヤクザの世界じゃ、こんな見苦しい争い方はしねぇんだよ」
劉備の声は静かだが、そこに宿る圧力は、かつての劉宗玄のそれと何ら変わらなかった。二人の当主は、そのただならぬ雰囲気に気圧され、言葉を失う。
「いいか、喧嘩ってのはな、互いの言い分をぶつけ合って、落としどころを探るもんだ。分からねぇなら、俺が教えてやる。どっちも一歩も引かねぇなら、もう片方に引かせてやればいいだけだ」
劉備はそう言うと、それぞれの言い分を辛抱強く聞き、その上で、一方が隠していた不正を見抜いた。
「おい、あんた。去年の収穫時に、隣の土地にわざと自分の苗をはみ出させたな?それ、俺の目の前でやられても、バレねぇとでも思ったか?」
ギクリと当主は顔色を変えた。
「そ、そんなことは……」
「とぼけんな。見ればわかるんだよ、そういうのはな。俺の目は誤魔化せねぇ」
劉備は、冷静に、しかし有無を言わせぬ論調で、隠された真実を暴き出した。結局、不正を働いた当主は、劉備の圧力と論理の前に観念し、和解に応じた。
劉備が成長するにつれて、彼の知恵と、時に隠しきれないヤクザ時代の『暴力』の片鱗は、村の秩序を保つ上で不可欠なものとなっていった。彼は、村のいざこざを解決し、すっかりかつてのヤクザの劉宗玄に戻りつつあった。しかし、その根底には、義理と人情を重んじるヤクザとしての『筋』が常に流れていた。
劉備の評判は、村の外にも聞こえるようになった。しかし、その一方で、彼の母と叔父の劉子敬は、その振る舞いを案じていた。
「あの子は……備は、一体どうなってしまうのじゃろう。」
母が、ため息混じりに叔父に語りかける。
「うむ、義弟よ。あ奴の行動は、確かに筋は通っておる。だが、あまりにも危なっかしい」
叔父は腕を組み、桑の木を見上げていた。
「このままでは、いつか大きな揉め事に巻き込まれてしまう。そうなっては、この劉家もただでは済まぬ」
二人は、話し合いを重ねた。そして、ある決断を下す。
「玄徳や、こちらへ来なさい。」
母が、いつになく真剣な顔で劉備を呼んだ。隣には、厳しい表情の叔父。
「おっかさん、どうしたんだ?そんなに神妙な顔して」
劉備はわらじを編む手を止め、怪訝な顔をした。
「玄徳よ。お前はもう、この村に留まっていてはならぬ」
叔父が切り出した。
「我らでお金を出し合い、同じ宗族の徳然と共に、涿郡の盧植先生の元へ学びに行きなさい」
劉備は目を丸くした。
「…学問、だと?あのクソ真面目な勉強のことかよ」
内心、ヤクザ稼業で学問とは無縁だった劉宗玄は、うんざりした。学校の勉強など、面倒なだけだ。
冗談じゃねぇ!こんなクソ田舎で、俺様が喧嘩捌いてる方がよっぽど実になるってモンだぜ…!
だが、母の顔を見ると、その言葉を飲み込んだ。母は、劉宗玄にとって、この世界で唯一「親」と呼べる存在だ。ヤクザとして、親孝行は当然の「筋」だ。
「玄徳よ、これはお前のためじゃ。このままでは、お前はいつか大きな災いを招いてしまう。」
母の潤んだ瞳に、劉備は諦めにも似たため息をついた。
…ちっ、しょうがねぇな。母さんがそこまで言うなら、行ってやるよ。せいぜい、この時代にも使える『頭の回転』ってやつを磨いてやるか!
「はい、わかりました。喜んで行かせて頂きます!」
「本当かい?!」
「うむ!よく言った!」
まぁ、シマが広がったって事だな!
内心では愚痴を言いつつも、劉備は母の言いつけを頑なに守るしかなかった。彼は、新たな『シノギ』場所へと、重い足取りで向かい始めた。