7・日米修復
平成十三(2001)年6月に始まった台湾海峡戦争参戦は、僅か半年の戦いで日台側勝利で終える事になった。
日台連合軍は解放政府軍への航空攻撃を主体に行い、沿岸部に所在した陣地、基地多数を破壊する事に成功し、飛来した空軍機も尽く撃墜した。
しかしすべてが完全な形で勝利出来たわけではない。
日本はそもそも専守防衛を掲げ、侵攻攻撃能力など持ち合わせていなかったため、海峡戦争はすべて手探りの状態で進められ、F-2やF-4といった対地攻撃に投入された部隊に無視できない被害をもたらす結果となってしまった。
相手が能力の低い解放政府軍であったから良かったが、より整備された軍備と練度を有する相手に対して同じ作戦が遂行可能かは不安があった。
日本は台湾と組んで独自開発の道を切り拓く傍ら、米国との関係修復を模索していくことになる。
安野辺がまず行った事は新たに政権の座に就いたオバハンとの対話だった。
10年にわたる溝を一気に埋める様な方策はなく、まずは小さな事柄から始める事になり、父島事件慰霊というほんの些細な理由によってオバハンとの会談を持つ事から始められた。
父島事件とは、昭和二十(1945)年2月、小笠原諸島父島において捕虜となっていたジョブズ・H・W・ブッシュらが現地に所在した日本軍によって処刑され、食人が起きたとされる事件の事である。
他に幾らでもネタはあったにも関わらず、父島事件を取り上げたのは、お互い就任間もない2月に会談を行うにはちょうど良かったからである。
単なる捕虜虐待などではなく、食人疑惑がある事も、敢えて追及されても言い訳になると考えられた。
こうして行われた会談は、日本の戦後、そして現状に関する情報交換程度に留まったが、今後に繋がる機会となる。
日本は台湾を事実上の同盟国として新たなアジアを構築しはじめていたものの、大陸や半島で繰り広げられる争乱を解決する術を持たず、押寄せる難民にも苦慮していた。
難民たちが目指すのは日本や台湾ではなく、遠く対岸の米国。強制送還すら容易ではない難民たちを米国に引き受けて貰うにも、関係修復は欠かせないという切実な事情もあった。
オバハン政権としても、フサンイを拘束したものの、人権問題しかでてこないのでは持て余した。
さらに自身の掲げたイラク撤退が成功裡に行えたとしても、ドールの失態はイラク戦争だけなのである。
アメリカの威信を回復させた功績は無視出来ず、オバハン政権はドールに比類、何なら凌駕する成果を求めていた。
それは他でもない、中華に求めるのが手っ取り早いのは明白であった。
こうしてオバハン政権と安野辺政権の関係修復はスムーズに進み、平成十五(2003)年には安野辺による仲介の下、もはや意味を無くした台湾関係法に代わる米台安全保障条約を締結する。
その際日本との関係も再構築され、日米安全保障条約はその中身を大幅に書き換えられ、アジアにおいて双務性を持った内容へと変化する事になった。
この年海兵隊は完全に日本から撤退し、沖縄や岩国に所在した米海兵隊基地はすべて日本へと返還されている。
そして、三者にとって問題となるのが中華情勢と半島情勢である。
中華において日台と海峡を隔てて戦った解放政府は有力な部隊、兵器を失って上海攻防戦でも敗北し、さらに南京まで戦火が及ぶと華南へと逃げ出した。
この際、解放政府は南京市民を人間の盾として時間稼ぎを行い、人民政府も市民を意に介す事なく攻撃を繰り返したため、数万人から十数万人といわれる犠牲を出す事態となった。
南京に在ったジャーナリストによってその事実が世界に報じられると国連においても大問題として取り上げられ、民間人の適切な保護と戦争犯罪追及に関する決議が採択された。
ユーゴスラビア紛争を参考に民間人保護を目的とした国連部隊の介入が模索されたのだが、解放政府や人民政府は一切受け入れを拒否して取り合わなかった。
さらに派遣部隊についても問題があり、日本や台湾が入る事は憚られた。
こうして当事者、派遣国双方に問題を抱えて紛争介入はうまく進まないまま犠牲だけが広がっていった。
この事件は南京事件2002として広く知られる所であり、日本が行ったとされる南京大虐殺に疑問を呈す契機ともなった。
平成十二(2000)年から4年間の間に少なくとも二千万人が紛争に巻き込まれて犠牲となり、その数は毎日増え続けていた。
目を転じて朝鮮半島を見れば、そこも変わらぬ様相を呈し、韓国政府はあくまで国内問題であるとして介入を拒否している。
ドール政権によって在韓米軍は事実上の撤退状態にあったが、事態を重く見たオバハン政権は部隊の帰還という名目で韓国へと軍を派遣し韓国政府へ圧力を掛け、朝鮮半島全域への米軍の展開と争乱地域における安全地帯設置を認めさせる。
こうして朝鮮半島へと米軍が展開してみれば中華と変わらぬ実態が明らかとなり、金大准に戦争犯罪疑惑が浮上した。
こうした米軍の韓国展開に呼応する様に北天政府の要請を受けたロシア軍が満州地域へと予防展開を行い、米露の関係に隙間風が吹くようになる。
平成十六(2004)年になるとロシアは過激派掃討を理由に朝鮮族武装勢力への攻撃を開始した。
この攻撃に対してオバハン政権や安野辺政権は再三の中止要請を行うのだが聞き入れては貰えず、韓国から義勇兵と称して朝鮮族支配地域へ向かう者が現れはじめた。
韓国からの義勇兵侵入を阻止するために韓国国境付近へもロシア軍が展開する事態に米国も韓国軍と協力して国境警備の強化を実施、韓国側からの越境を封じる事でロシアの過剰な軍事行動を抑える措置をとる。
こうして朝鮮半島や北方が一応の安定を見せると米国は本格的に中華の和平実現に向けて動き出す。
手始めに民主政府と接触して和平に向けた歩みをはじめるものの、すでに独自路線を歩みはじめていた海南島に対して解放政府が軍事行動を起こす。
この動きに空母機動部隊を南シナ海へと展開して牽制しながら両者の停戦を働きかけ、一時停戦の合意を取り付けた。