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2・台湾海峡事件

 日米間に深い溝が出来た事は極東情勢にも影を落とす事になる。


 朝鮮半島において、当時北朝鮮による核開発が行われているとの疑惑が持ち上がり、日米韓三カ国が足並みを揃えて事態に当たる筈だったのだが、チャイナゲート事件によって足並みは著しく乱れる事になる。


 当時韓国は民主的な選挙によって大統領が選出された事から、対日関係の再構築に取り組んでいる所であった。


 しかし、チャイナゲート事件をきっかけとした小田沢の離米宣言によって梯子を外された格好となり、韓国世論は急激な反日転換を見せていた。


 そのため、クリントフ政権は連係した対北朝鮮対策を打ち出すことが出来ない中、小田沢はエリテンと協議して北朝鮮対策を進める事を発表し、クリントフ政権と対等に渡り合う姿を見せつけた。


 これにより小田沢の人気は盤石なものとなり、小田沢批判を続けていた鍛冶山清六ら反小田沢派も軍門に下る事となり、国内政治に平穏を齎す事を実現した。


 ただ、小田沢とクリントフが対等な関係を演じる姿は人民政府からすれば到底受け入れられる話ではない。


 関係改善を模索していたロシアのエリテンとの関係も小田沢による札束攻勢に後手を踏み、もはや頼れるのはクリントフ政権だけという状況になってしまった。


 そんな中、クリントフ政権は人民政府ではなく小田沢の手を取る事を選択する。


 客観的に見て当然の帰結なのだが、人民政府からすればとんでもない背信行為と映っていた事だろう。


 だが、北朝鮮を巡る非核化協議において、米ロと肩を並べて参画するというプライドを優先し、KEDO取り纏めには協力している。


 ただ、このことによって人民政府の対米観は見事に反転し、率先して制裁緩和を行うクリントフ政権への反発を強めていった。


 平成七(1995)年、台湾の李透輝総統は翌年の総統選挙を直接選挙によって行う事を正式に表明する。


 この動きに対して人民政府は過敏に反応して台湾独立に向けた策謀だと声明を出し、軍事行動も厭わないと恫喝を行った。


 クリントフ政権はKEDOにおける人民政府の貢献と、協議内容が小田沢・エリテン声明に沿った事に対する後ろめたさもあり、対中姿勢は消極的なものとなった。


 人民政府は口撃だけで鉾を収める事無く5月暮れからミサイル演習を開始し、実力行使の挙に出るのだが、クリントフ政権は批判声明こそ出したものの有効な措置を取ることはなかった。

 

 この事態に立ち上がったのはまたしても小田沢であり、燃料と資金を提供する事でロシア太平洋艦隊を動かし、日露艦隊による台湾海峡航行を行い、人民政府に自制を促す。


 しかし、人民政府はこの行動に強硬な反応を示し、金門島上空への度重なる領空侵犯を行い、より過激な対応を示すのだった。


 こうして海峡危機がより深刻さを増す中、ボルス・ドールは次期大統領選挙を見越していち早く声を挙げ、速やかな米軍展開による事態沈静化を促す。


 そして平成八(1996)年に入ると米国の弱腰を見た人民政府は艦艇による金門島周遊や馬祖島周辺への展開を行いさらなる緊張を煽る姿勢を示した。


 2月には日露艦艇が再度展開する事になるのだが、人民政府はそれを無視し、総統選挙当日の3月3日には金門島砲撃やミサイル発射演習を実施、台湾も応射する事態となり、危機は事件へとエスカレートしてしまう。


 しかし、ようやく重い腰を上げた米軍の横須賀出港の報にそれ以上の事態悪化は抑えられる事となった。


 米機動部隊が台湾海峡に展開したのは3月10日の事であり、この時日露艦隊と連係してプレゼンスを示す事により、人民政府はようやく鉾を収めるのだった。


 話が前後するが、日本において平成七(1995)年1月に発生した阪神・淡路大震災は非常に大きな被害をもたらしただけでなく、自衛隊が如何に縛られ動けないかを示す事になり、小田沢が唱えてもなかなか進まなかった自衛隊関連法整備が俄に動き出した。


 さらに台湾海峡事件において、台湾海峡だけではなく、3月3日には与那国島南方海域にもミサイルが着弾した事に激震が走った。


 これまで国民の多くは小田沢を支持、評価しながらも、安全保障分野での支持は芳しいものではなかったのだが、与那国島南方にミサイルが着弾する事態を目の当たりにし、自分事として捉える様に変化していく。


 同じ頃、総統再選を果たした李透輝は平成六(1994)年のクリントフ政権によるビザ発給拒否という仕打ちを思い返し、「もはやアメリカの時代ではない。自立の時代である」と発言し、日本に接近する姿勢を見せる。


 平成八(1996)年の米大統領選挙はクリントフの弱腰を見せ付けるられた有権者の支持がボルス・ドールへと流れたことによって、ドールが再選を果たす事になった。


 ドールは小田沢との関係修復を図ろうとするも、完全な修復を果たす事は出来ず、日台関係強化を裏から支える事を確約するに留まる事になる。


 こうして米国の後押しもあって李透輝の来日が決まるのだが、人民政府の反発や韓国の反発によって早期実現とはいかなかった。


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