表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

1・チャイナゲート

 平成という時代は冷戦終結とともに始まり、ソ連崩壊、湾岸戦争という激動が日本を襲った。


 国内に目を転じれば、リクルート事件、佐川急便事件という政治スキャンダルの混乱が吹き荒れ、まさに大混乱の様相を呈していたのである。


 しかし、これらはまだ序章に過ぎなかった。


 平成四(1992)年5月、世覧賣(よみうり)新聞のスクープは後にチャイナゲート事件と呼ばれる大転換のボタンを押した。


 今でもこのチャイナゲート事件なかりせばとはよく言われる事である。


 チャイナゲート事件が無く、平穏に天皇訪中が実現していればと言う予測において、令和の今、大陸は平穏に発展を遂げ、その人口は12億人から14億人に達し、世界最大の市場規模を誇る事になり、日本の貿易額もはるかに多くなっていたとするものもある。

 現在の中華を見ると些か疑問を禁じ得ない予測ではあるが、もし実現していれば、日本の経済もより発展、拡大していたのかも知れない。


 閑話休題



 チャイナゲート事件を世覧賣(よみうり)がスクープ掲載した時点では、佐川急便事件の陰に隠れる程度の話題性しか持ち合わせていなかったが、5月末には米政界でもチャイナゲートが発覚し、共和、民主両党の複数議員に関与が取り沙汰され、米報道機関によって外務事務次官らに対する人民政府による金銭授受や過度な接待という規模を超え、当時政権に参画していた公民党の母体である草華宗主座、池典大師(ちてんだいし)が多額の政治資金を日米政界にばら撒き、人民政府との仲介を果たしていたとの報道を受け、天皇訪中計画が佐川急便事件をも超える大スキャンダルへと発展する事になった。


 この報道は日本でも大々的に行われ、天皇訪中を金で買ったとして訪中に対する批判や疑問が噴き出す騒ぎとなる。


 この混乱によって三家沢(みやざわ)内閣は総辞職に追い込まれ、自民党は事態収拾のため、本人の意に反する形で小田沢一郎を総理、総裁とする事を決め、三家沢(みやざわ)からあとを継ぎ、小田沢内閣が発足した。


 小田沢はまず足元の佐川急便事件の収拾に取り組み、社民党との協議により事を穏便に解決する。


 小田沢は党内からも鍛冶山清六らの批判を浴びながらも剛腕を振るい、問題をチャイナゲートひとつへと収束させてみせた。


 しかし、その煽りを受けて審議中であった国際協力事業(PKO)法案は廃案となり、小田沢の悲願は潰える事となってしまった。


 そんな9月末、米国から衝撃的な話が飛び込んで来る。


 チャイナゲート事件は再戦を目指すボルス・ドール大統領が仕掛けた自爆攻撃だったというのである。


 ボルス・ドールは台湾派として知られ、日本や国務省、連邦議員の一部によって進められていた天皇訪中計画に否定的であり、天安門事件以来の対中強硬政策の継続を望んでいた。


 民主党で有力候補となったビッシュ・クリントフは制裁緩和に前向きな姿勢を見せていた為、牽制として共和党にも被害が及ぶチャイナゲート事件の暴露を行ったと言うのである。


 この話に触れた小田沢は激怒し、懇意にしていた「ミスター外圧」と呼ばれた駐日大使に抗議を行い、大統領にも電話会談で直接抗議に及んでいる。


 さらに怒りの収まらなかった小田沢は離米宣言を行い、米国と距離を置く事の信を問うとして解散総選挙に打って出た。その結果、過去最高の勝利を収める事になる。


 小田沢は政策の柱として在日米軍は第7艦隊のみで十分であるとし、大幅な米軍削減を米国に突きつけた。

 さらに日米構造協議からの離脱を宣言するに至った。


 ほぼ同時進行で行われた米国大統領選挙にも影響を与え、ドールは多くの政治的成果をあげていたにも関わらず、チャイナゲート事件という自爆劇と日本の過剰反応を受けて落選してしまった。


 こうして誕生したクリントフ政権は日本の宣言を受け、日本パッシング政策を展開し、当時日米共同開発が行われていた支援戦闘機計画からの引き揚げを行い米側の提供した機体、エンジン技術の利用一切を拒否、日米関係はさらに溝を深める結果を招いている。


 こうしてクリントフ政権は日本抜きでの対中制裁緩和へと舵を切り、取り残された日本はロシアへと接近していく。


 平成五(1993)年、水面下で行われた日露協議において、小田沢はボイス・エリテン大統領の頬を札束で叩く挙に出る。


 経済苦からこの提案を受け入れたエリテンは10月政変を制して来日すると、電撃的な日露平和条約締結を行い、日ソ共同宣言に則り歯舞、色丹の返還を実現するにとどまらず、国後、択捉への自由渡航も認めると発表した。

 日本からはその見返りとして異次元の円借款が行われる事になるが、小田沢はまさに札束で北方領土を買い戻したのである。


 さらにここには大きな余録がついており、エリテンは日米共同開発がご破産になったタイミングでミグ社を無制限に開発協力させると提案した。


 こうして、F-16をベースとした支援戦闘機開発は、ミグ29をベースとした開発へと衣替えして再開されたのだが、意気揚々と乗り込んだミグ社のエンジニアたちは、日本側の要求仕様を見て顎が外れるほど驚いた事は有名な逸話である。


「アイツらバカだとは思っていたが、予想の遥か上を行くイカレ野郎どもだった」


 とは、今もロシアで語られている。


 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
F-4EJを凌ぐ魔改造になりそうで楽しみです。 しかし現代ものは存命の人ばかりなので名前が大変ですねw
で、Mig-29Jはどんな魔改造を?(F-2同様だとは考えていますけど) ところで、この頃の日本の電気電子技術で東側の兵器がアップデートされると、色々面白いことになりますね 高層ビルのテレビ電波撹乱…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ