【問題編・1】
ある朝、目が覚めるとお姫様になっていた。
そう、貴族のお姫様。ほっそりした指を目の前にかざして、雪のように白い肌を見たらすぐにわかっちゃった。だって、日焼けも手荒れもなーんにもないの!
急いでベッドから――マットレスは分厚くてふかふか、ベッド自体も広かったからほとんど落ちるみたいに――下りて、全身が写る大きくて立派な鏡の前に立った時、思わず歓声を上げちゃった。
ぱっちりと大きくて丸い空色の瞳、長くてくるんとうわむいたまつ毛、小さいけど形のよい鼻に、ふっくら柔らかそうな桃色の唇。お月様みたいな白金色のふわふわした長い髪。
夢じゃないかしらとほっぺたを触ったら、とってもなめらかで柔らかくってびっくりしちゃった! もちろん、肌荒れもにきびもひとつもないの。
お人形みたいにきれいでかわいいお姫様。それが今の私なんだって、鏡の中から見つめ返す姿を見てにっこり微笑む。やだ、笑ったらもっとかわいい! まさに理想通りのお姫様だわ!
でももちろん、ちょっと困ってもいたわ。だって、お姫様の私のことがなんにもわからなかったんだもの。
鏡よ鏡、私の名前は何かしら? なーんて。ふふ、答えてくれるわけないのにね。
確かこういう時は日記を探すのよ、と部屋を移動しようとしたら、あーあ、遅かったみたい。使用人が私を起こしにやってきちゃった。
「遅くなって申し訳ありません」
そう言ったのは多分四十歳くらいの女の人。メイドなのかしら? あれ、そういえば侍女っていう可能性もあるのよね。でも、メイドと侍女の違いがわからないから……うん、そうね! とりあえず全部メイドって呼ぶことにしましょう!
着替えさせようと近づいてくるメイドに、きっと今がチャンスだわと思って「ねえ」と声をかける。
「どうしてかわからないんだけど、昨日までの記憶がないの。わたしの名前を教えてちょうだい」
やっぱり、わからないことは素直に聞くのが一番よね!
*
馬鹿な遊びはやめてください、なんて最初は言われたけど、本当になーんにもわからないのよと根気よく繰り返していると、とうとうお医者さんが呼ばれちゃった。
でもねえ。昨日までの記憶がないって言ってるのに、頭をどこかにぶつけたかとか転んだかとか、そんなのわかるわけないじゃない。他にもいろいろ聞かれたけど、正直にわからない、知らない、って繰り返してたらお医者さんは諦めたみたい。ご当主様をお呼びください、だって。
そこでようやく、今の私の父さんと母さんがやって来た。ついでに兄さんと弟妹――このふたりは双子なんですって――も集まって、あーだこーだと質問ばっかり!
おんなじようなことを何度も聞かれて、弟妹だっていうふたりは生意気に嘘を言うなとか言ってきたけど、わからないのは嘘じゃないもの。どうして記憶がないのかしらって、私が一番困ってるのに!
家族は全員、さすが今の私の家族だわ、って感心するくらい美しかったのだけど……でもどうしてかしら。なんとなーく、私に対して冷たい感じ。ううん、家族全員、お互いに対して冷たいっていうか……なんだかあんまり仲良くなさそう。特に父さんと母さんなんて私がこんなバカなことを言い出したのは相手のせいじゃないかって、お互い面と向かって言うのよ。四人も子どもがいるくせに、どうしてこんなに仲が悪いのかしら。
どうやら本当に記憶がないみたいだ、ってなって、ひとまず様子を見ることになった。やった! 今度こそ日記を探さなきゃ!
教えてもらった今の私の名前はミラベル。家族にはミラって呼ばれてたみたいだけど、記憶のない私がそう呼ばれるのってやっぱり違うと思うのよね。だから、今の私のことはベルって呼んでもらうことにしたの! お隣の国の言葉で「美女」って意味らしいわ。うふふ、今の私にピッタリね!
ミラベルの部屋は寝室とは別にもうひと部屋、お勉強部屋? みたいなのがあったから、日記を探すだけで一日つぶれちゃった。私ひとりにこんなに広い部屋がふたつもいるのかしら。いえ、今の私はお姫様なんだもの、もっといっぱい部屋があってもいいんだけど、でも日記探しにはただ面倒なだけだわ。
そんなに時間をかけたのに、結局日記は見つからなかった。ミラベル付きだっていうメイドに聞いたら家庭教師に言われてきちんと毎晩日記を書いていた、っていうから、絶対どこかにあるはずなのに。しょうがないわ、また探しましょ。
三日経ってから家庭教師が勉強を教えに来たけど、本当に何もわからない私を叱ってきたのは納得いかないわ! 記憶がないんだから歴史も詩もお作法だってわからないに決まってるじゃない!
あんまりひどいことを言われるもんだから悲しくってシクシク泣いたら、途端に家庭教師は驚いておろおろして、私が嘘を言ってるんじゃないってようやく認めてくれた。記憶があったら絶対人前で泣かないはずだ、ですって。昔の私、ひょっとして結構プライドの高いお姫様だったのかしら。
このことは他の家族にも伝わってたみたいで、ミラベルになってから初めて夜の食事一緒に食べたのだけど、真っ赤に腫れた目元を家族みんながまじまじと見てくるものだからさすがの私も恥ずかしかった。もしかして、こういう反応をされるのが嫌だから昔の私は泣かなかったのかもしれない。
十日経って、いよいよ私の記憶ソーシツが本当みたいだってみんなが思い始めた頃に、婚約者だっていう人がやって来た。
背が高くて、でもきちんと鍛えた体つきをしていて、私とは違う太陽みたいな金髪と海みたいな青い瞳のウォルター様。私の王子様。世界中の女の子が夢見るように優しくて、でもやっぱり最初は私の記憶がないことをまったく信じてくれなかった。
ひどいのよ、ウォルター様ってば。私は婚約者だっていうのに、なんだかとってもそっけないの。もちろん失礼だとかそういうわけではないんだけど、うーん、なんていえばいいのかしら……そう、多分、ミラベルに興味がないんだわ。
この辺りで、さすがの私も今の私、ミラベル・ティートがどうやらあんまり幸せなお姫様じゃないってことに気が付き始めていた。
まず、両親が不仲。夫婦の寝室はもうずっとお互いに鍵を閉めっぱなしで、食事を一緒にすることすらほとんどない。っていうことは会話がほとんどないってことよ。たまに顔を合わせても必要最低限しか話してないみたい。というのも、思ってたよりずっと貴族って忙しいみたいなのよね。
父さんには領主としての仕事がある。具体的に何をしているのかはわからないけど、だいたい一日中執務室にこもっていて、時々兄さんが後継者教育だとかで呼び出されたりしているみたい。もちろん、兄さんも次期領主としての勉強と乗馬や剣術の訓練をするだけで一日がほとんど終わっちゃう。私も似たようなもので、ううん、今までの記憶がない分文字通り朝起きてから寝るまでみっちり勉強させられてる私の方が大変かもしれない。しかも、私は魔術の勉強もさせられたの、兄さんはしてないのに! でも当然、ぜーんぜんダメ。魔力はちゃんと体にあるのにおかしいって言われたって知らないわ。できないって言ってるのに、しつこく調べようとしてきたから魔術の時間だけサボるようにしたら、いつの間にか魔術師の先生は来なくなってた。でも、空いた時間に別の勉強をさせられるから結局大変なままなのよ。あーあ、日記を探す時間どころか、お茶をする時間もないなんて!
弟妹たちは午前中勉強、午後は自由に過ごしてるみたい。まだ子どもだからなんですって。でも、この双子がまたすごいのだ。ほとんど毎日ケンカして大騒ぎ。使用人たちじゃ止められなくて、母さんはそっちにかかりっきり、ってわけ。
ええまあ、もうわかってくれたと思う。父さんに目をかけられている兄さん、母さんがつきっきりの弟妹――ミラベルだけが、家族の中でひとりぼっちだった。
それならメイドたちに相手してもらえばいいじゃない? っていうのはもちろんあり得ない。ミラベルと一番仲が良かったメイドは? って聞いても誰も出てこなかった。やだ、家族どころかこの家でミラベルだけがひとりぼっちってこと?
せっかくお金持ちで美人な貴族のお姫様になったのに、こんなのってないわ。
だから私は、まず家族仲を改善することにした。目指せ、愛され仲良し家族! なんちゃって。
使用人たちの噂を集めたところ、両親の不仲の原因はすれ違い。つまり単純に会話の機会自体がなくなってるせいだったから、ここは「家族みんなで食事をしたい」って駄々をこねることにした。ふふん、文字通り、泣いて騒いでわがままを言ったのよ。
記憶ソーシツのかわいそうな娘が、あんまり放っておかれるものだから精神的にまいってしまって――なんてお医者さんは言ってたかしら。おかげで朝と夜はできる限り一緒に食事をすることになって、だんだん会話も増えていったのよね。
最初はぎこちなかったけど、記憶がないのをいいことに私が積極的にみんなにあれはなにこれはなにって聞いていって、ちょっと油断するとすぐケンカになる弟妹をなだめて母さんの負担を軽くして、やらなきゃいけないことで毎日必死の兄さんをすごいすごいと褒めたたえて、父さん母さんができるだけふたりでいられるようにして。
半年が経つころには、一家団欒が当たり前になっていた。
夫婦の寝室はまた鍵が開けられて、兄さんはたまに一緒にお茶を飲んでくれるようになった。もちろん弟妹たちも一緒。ケンカも減ったかな? 母さん任せじゃなく、私はもちろん、兄さんもふたりに関わるようになったから今度は兄弟全員でのケンカになったりもしたけど、同じくらい一緒に遊ぶようにもなったの。いやあ、がんばった、私!
そうやって家族仲が改善されたら、じゃあ次はウォルター様ねと思ったけど、これがまあ難しかった。
そもそも私に興味がないから、月に一回の手紙しか交流がなかったのよね。でも、記憶がない私はそもそも読み書きすらできない。つまり唯一の交流すらなくなったってわけ。
使用人の誰かに代読してもらって、お返事は代筆してもらう、っていう手段もあったけど、そもそも私の記憶がないこと自体を疑ってるウォルター様相手じゃそれはまずいんじゃないか、って言われた。昔の私はきちんと自分で手紙を書いていたから、書いた人が代わったのはすぐにわかる。ウォルター様にとっては昔か今、どちらかは使用人任せの手紙ってことになって……うーん、あんまり良い印象はないわよねえ……。
記憶がありません、文字の読み書きもできなくなりました、しょうがないのでもう一度勉強していますっていう事情を書いた手紙は父さんが書いて送ってくれた。その頃にはだいぶ家族仲も改善していたから、一緒にウォルター様のご両親へも事情説明の手紙を送ってくれていたみたい。
返ってきた手紙には、記憶を取り戻すための助力は惜しまない、ついてはこちらを訪ねてきてはどうか、婚約前の顔合わせをした時と同じく、バラが見ごろになったので――とお誘いの言葉。私は思わず舞い上がってしまった。
ウォルター様のお屋敷は、まるでお城みたい! もちろん、ミラベルの家だってとっても大きくて立派だ。でも、住んでいると慣れるのよね。それに、ウォルター様のお屋敷の方がもっと大きくて、案内された庭は夢のように美しかった。
バラに囲まれた東屋に案内されると、ウォルター様が待っていた。その隣には、真っ黒な大きい犬。
見たことがないくらい大きくて立派な犬だったから、ついついまじまじと眺めていると、ウォルター様がびっくりしていた。え? どうして?
「ミラベル嬢は動物が苦手ではなかったのかい?」
「まさか! 犬も猫も、馬だって大好きです」
どうしてそんなことを聞くんだろう。首をかしげていると、ウォルター様もなんだか少し考え事。
「……撫でてみるかい?」
「え! いいんですか?」
やったあ! 私は遠慮なくいそいそとウォルター様の犬に近づいた。
「この子、名前はなんていうんですか?」
「ドルフだよ」
ぴくぴくと耳が揺れている。緊張しているのかな? 人見知りする子なのかも。まず手を差し出して匂いを確かめてもらう。怖くないよ、大丈夫だよ、って挨拶するの。
それから、まずはあごの下。おとなしくなでさせてくれたから、ほっぺた、耳の後ろ、首。はああ~~! なんってもふもふで気持ちいいのかしら!
思わずにこにこしていると、ふ、とウォルター様が息を吐いた。やだ、夢中になっちゃってた!
おそるおそるウォルター様を見上げて、今度は私がびっくり。笑ってる……さっきまでの愛想笑いとは、全然違う……。
「本当に記憶がないんだね、ミラベル嬢」
昔の私は、動物が苦手。実は、これは家族にも言われたことだ。
弟妹が犬を飼いたい、猫を飼いたいと言っても昔の私が断固反対して飼えず仕舞い。もちろん、今の私は平気だからさっそく我が家には猫が一匹やって来たのよ。でもその子はまだ私にはなついてくれてないから、今こうしてウォルター様の犬を撫でさせてもらえたのが本当にうれしいの。
そんなことを伝えると、ウォルター様は本当にうれしそうに笑った。そして、教えてくれた。昔の私が動物を苦手になった理由を。
婚約する前、手紙にあったように、昔の私とウォルター様はこの東屋で顔合わせをした。その時、子犬だったドルフに飛びつかれて転んじゃったんだって。
子犬とはいっても、ドルフは狩猟用の大型犬。中型犬の成犬くらいはあったそうだ。やだ、その頃からもふもふだったのかしら!
ドルフ自身はミラベルのことがひと目で大好きになってしっぽを振ってぺろぺろ顔中舐めて――なんてうらやましい――以来、ミラベルは動物全般ダメになったんだそうだ。
自分のしつけが甘かったせいだ、とは言うけれど、ウォルター様にとってドルフは一番の相棒。自分の家にいる時はいつも連れて歩いているし、できる限り外出する時も一緒にいたい。でも、昔の私はドルフに近寄るのも嫌がっていた。
あーあ、そりゃあウォルター様だって面白くないよ。だってほら、今こうやって私から近づいても、ドルフは顔を舐めてくるどころか飛びついても来ない。いや、動物好きの私としてはむしろ飛びついて大歓迎してほしかった! でもここまで大きい犬だと危ないからね、きちんとウォルター様がしつけてくれたから、こんなにおとなしくていい子なんだろう。
私が喜んでドルフを可愛がるから、ウォルター様も嬉しそう。そうだよね、ウォルター様にとってはただの飼い犬じゃなくて家族なんだもの。家族を嫌うような昔の私じゃ、そりゃあ仲良くなんてなれなかったよね。
この日をきっかけに、ウォルター様はよく私を連れ出してくれるようになった。もちろん、ドルフも一緒! 劇場とかお買い物とか、そういうお貴族様らしいデートにはならなかったけど、遠乗りもピクニックもとっても楽しかった。
その内弟妹たちも一緒に来るようになって、そうなると兄さんだって参加して、私とウォルター様は、だんだん仲良くなっていった。
相変わらず私は記憶がないままだったけど、家族もウォルター様も、今の私が好きだって言ってくれた。昔の私より、今の私の方がずーっと良いんだって! 記憶も、無理して取り戻す必要はないって言ってくれたから、日記を探すのも止めた。だって、もう必要ないものね。
憧れのお姫様になれたのに最初はどうなることかと思ったけど、私、がんばりました! やっぱり私の方が、ぜーんぶうまくできたのよ! 優しい家族に私だけの素敵な王子様、今、とってもしあわせ!
……だけど、ひとりだけ。
ミラベルの幼馴染、昔の私とケンカして、ずっと仲が悪かったっていう男の子、オーウェンだけが、私をミラベルだって認めてくれなかった。
ああもう、どうしたらいいのかな。どう思う? 昔の私。