キルホーマン ニュースピリッツ
オーセンティックバー「不知火」は街角の半地下にある隠れ家的なバーである。
マスター一人で運営している、落ち着いた雰囲気が売りの店だ。
先日誕生日を迎え48歳となったマスター。名を村雨直幸という。
世界的大手ホテルチェーン、ホールトンのバーで腕を磨き、チーフバーテンダーまで務めた後に独立。今に至る。
開店前の店は静かさも際立ち、村雨がグラスや道具のチェックをする音だけが時折聞こえてくるのみである。
18時。看板に火を入れると同時と言って良いほどのタイミングで、一人目の客が来店した。
「こんばんは、マスター。もう良いですか?」
「こんばんは、大島様。今日もお早いですね。こちらの席はどうぞ」
大島はホールトンのメインバーをよく訪れていた常連で、村雨の独立に伴い付いてきた古い馴染みの客である。長居はせず、数杯飲むとバーを梯子していく典型的なバーホッパーだ。界隈でも顔が広く、大島を常連としているバーも多い。
大島は不知火をバー巡りのスタートと決めているらしく、ほぼ開店一番の客は彼である。
「さてと、今日は何にしましょうかね。マスター、何か面白いものは入っていますか?」
「大島様の『面白い』を叶えるものは・・・フェルネット・ブランカやオクトモアなども面白いかと思いますが、キルホーマンのマキヤーベイなどいかがですか?」
バーの客も色々いる。とにかくスッキリ飲みたい人、喋りたい人、いろんな酒を楽しみたい人等々。大島は典型的な後者で、とにかく変わった酒を喜ぶ。
「キルホーマンというと、あぁ、思い出した。以前そこのニュースピリッツで貯蔵1ヶ月というのを飲ましてもらいましたね。あれは面白かった。流石にあれはありませんよね?」
キルホーマン蒸溜所はイギリスのアイラ島で2005年に誕生した最新の蒸溜所で、2008年ごろに短期貯蔵のニュースピリッツ(ウイスキーと呼ぶには3年以上の貯蔵が必要)を三種ほど出していた。1ヶ月、3ヶ月、1年だっただろうか。ウイスキー好きが面白がって飲んでいて、割と早くなくなってしまった。
「ニュースピリッツは全て出払ってしまいましたね。ウイスキー好きな方が喜んで楽しまれていました」
「うん、あれは面白かった。突き上げるアルコールの荒々しさ、甘いモルトの味、強烈なピート香、あれの熟成して育ったものが出ているんですね。是非それをお願いします」
食いついてきた。
テイスティンググラスに定量を注ぎ、大島に向けラベルを見せてボトルを置く。それからチェイサーを添える。
香りをまずは確かめて
ストレートで一口
わずかに水を一滴垂らし、グラスを揺らして一口
しばらく口の中で感触を楽しんだあと
もう一口
「ふふん」
思わず声が漏れる。ウイスキーは加水で表情を変える。その匙加減は人によって好みが違うが、大島の好みは極めて少量の加水だったようだ。
「いや、これも素晴らしいウイスキーですね。正統派のまま、綺麗に進化しているように思います」
子どもの成長を喜ぶような顔をして言う。
「アイラモルトはファンも多いですし、これからも楽しみな蒸溜所ですね。また新たなものがあればお勧めいたします」
「ありがとうございます。さて、もう一杯。ちょっと軽めにジンフィズをいただきましょうか」
「ジンフィズですね、かしこまりました」
ジンフィズ
ジンベースのライトな感覚のロングドリンク。
その手軽さと裏腹に、バーテンダーの技量を量るカクテルとも言われる。レモンの絞り方からシェイクとステアの技術、いずれも盛り込まれた贅沢なカクテルとも言える。
無論、村雨の手際は際立っており、この界隈のバーテンダーが参考にするために来店するほどである。
明るい色合いの炭酸飲料が大島の前に進む。
レモンは市場で売っているもの、炭酸はキリン、ジンはビーフィーター、特に特別でも何でもないが、何故か村雨の手を経ると特別な一杯に仕上がる。
大島はこの魔法を楽しみにここを訪れるのだ。
何度味わっても感動を覚える爽快感。
ジンの香りを消さずレモンの酸味も両立する絶妙なバランス。
「ごちそうさまでした」
大島は静かに会計を済ませ、さらっと店を後にする。
「行ってらっしゃい」
さてさて、次のバーはどんな魔法を見せてくれるのか
気合いを入れ直し、大島の旅は今日も始まった。
カウンターを片付けると、次の客が訪れる。
三人組の女性客である。
「いらっしゃいませ。そちらのテーブルも空いておりますが、カウンターも空いておりますよ」
三人並んでカウンターを選ぶ。
少し店内が賑やかになり
今日もバー不知火は静かに火を灯す。