289話
「さて、ヴェルムよ。儂に何か用事があったんじゃろう?」
元大将軍の空気が変わる。だが国軍関係者の観覧席最前列に座る彼より後ろにはそれが全く伝わらない。隣に座るヴェルムと、その反対側の通路で立つ重役だけがその変化に気付くような、そんな些細な変化だった。
ヴェルムはその言葉には反応しなかったが、無詠唱の遮音結界を張る。それに気付けない程に耄碌していない老人と、前線に立ってはいないものの武を極めんと今でも鍛えている重役は、ほんの少しの違和感ですぐに気が付いた。
「こ、これは…」
「黙っておれ。」
「…は。」
魔法が発動されたという事に気付いても、誰が発動しどんな魔法なのかまでは分からないようだ。すぐに警戒する様子を見せた重役に、老人は視線を舞台に向けたまま静かに制してみせた。
重役もそれを受け、事態を飲み込めないなりに老人の指示に従う。そして数瞬し、何かに気付いたようにヴェルムを見た。そんなヴェルムはと言えば、重役の視線も気にせず、老人と同じく舞台を見ながら薄く微笑んでいる。彼から見れば、最強の騎士団の長であるヴェルムが、自分が気がついた程度の魔法に気が付かない訳がないという勝手な想像がある。だからこそ、この魔法の正体がヴェルムにより齎されたという結論に至る事が出来たのだが。しかし何を考えているのか分からない表情と微笑みに、何故か薄ら寒い気がしたのだった。
「ゴウルが君を呼んでいるんだ。一緒に来てくれるかい?」
重役が魔法の正体について探っていた時、ふと思い出したかのようにヴェルムがぽつりと言った。あまりに自然に言ったためか、重役はその言葉の意味を理解するのに時間がかかった。だが理解してしまえばそれがどれ程無礼な事なのかが分かる。国王に頼まれごとをしておきながら、雑談に興じるなど言語道断だからだ。
「なっ…!陛下の申し付けを…」
「黙っておれと言ったはずだ。」
「…ッツ!!」
一瞬で憤慨しヴェルムの横顔を睨みつけた重役が、文句を言おうにも老人に止められてしまう。それどころか、ヴェルムの言葉を聞いても焦らない老人の姿に、重役は困惑するしかなかった。
現役を退いているとはいえ、国内における重鎮も重鎮である老人に、重役は従うしかない。自分が正しいはずなのに、先代国王の御世から国を拡げ支えてきた大将軍と騎士団長の態度が、自分の育ってきた環境を全否定しているような気さえした。
そんな逡巡に囚われた重役を、やっと静かになったかとばかりに意識から追い出した老人。フン、と一つ鼻を鳴らすと、視線は変わらず舞台に向けたまま、左眉を少しだけ上げて口を開いた。
「そりゃあいかんな。あのハナタレが儂を呼びつけるか。しかもヴェルムを伝令に使って?相変わらず失礼な奴じゃの。」
そして吐き出した言葉は、貴族として国民として、あり得ない言葉だった。そんな言葉が老人から出る事も驚きだが、それ以上にその言葉を聞いて笑っているヴェルムに恐ろしさを感じる重役。結果、彼はこれ以上ついて行けないとばかりに思考を止めた。英断である。
「そうだね。そう言われるだろうが、頼む。と言われてしまったからね。でも、君が不安視している国軍の為みたいだよ。だから、我儘言わずに着いてきてくれるかい?」
国王の言葉の部分を若干国王に似せて話すヴェルムは、とにかくそれが似合わない。しかしそんな事よりも、元大将軍という偉方をまるで子どもに言い聞かせるような言葉で説得する姿に、重役はツッコミどころが多過ぎるともう一度思考を止めた。彼に出来る事は一つ。置物になりきる事である。鍛えた精神力を発揮する良い場面だろう。
「ヴェルムが言うのなら仕方ないの。ヴェルムが言うなら、な。」
明らかに面倒そうな様子を隠しもしない老人に、ヴェルムは温かでいながら少しだけ困ったように苦笑を浮かべる。
「うん。私からのお願いさ。さぁ、ゴウルに会いに行こう。杖は必要かい?」
「老人扱いするでない!儂のこの姿勢を見て分からんのか!」
宥めながらも揶揄いを忘れないヴェルムに、老人は額に血管を浮かべながら唾を飛ばして叫ぶ。その横でただただ思考を止めて成り行きを見守っていた重役は、やっとそこで魔法の正体と理由に行き着いた。
遮音結界の理由は周囲に老人の不敬な言葉を聞かせないためかと思ったが、そうではないのだろう。如何にも素直になれないタイプに見える老人に、素直な言葉を出させる為。そして昔から仲が良いのであろう二人がいつも通りの言葉を掛け合う事が出来る為に。
今は国王ではなくヴェルムに対して文句を言っている老人を、ヴェルムは微笑みながらも揶揄い続けている。最強の騎士団の長は気遣いも一流か、と感心している重役は気付かない。ヴェルムが遮音結界を張った理由が、存分に老人となったこの友を揶揄う為だという事に。
「さぁ行きましょうか、ご老人。御手を支えますよ。」
「だぁから!儂はまだ現役じゃあ!慣れない敬語を使ってまで莫迦にするでないわ!」
何はともあれ、古き友人である二人が久しぶりの邂逅でも変わらず仲が良いのは良い事である。
「あ、来た来た!団長、おっそ〜い!」
見た目老人と青年の、如何にも貴族と騎士といった二人が王城を歩いていると、荘厳な王城に似つかわしくない明るく少し幼い声が先から聞こえてきた。その声に覚えのある二人が同時にそちらを見やると、そこには声の主人として想像通りの少女が薄紫の癖毛を高い位置で纏めて馬の尾のように揺らしながら近付いてくる所だった。
「あぁ、リク。先に着いていたんだね。」
緑の差し色が入った隊服を着たリクが、ビシッと音が鳴りそうな程に素早く敬礼をヴェルムに向ける。それに和かな笑みと共に返礼をしたヴェルムは、リクの後ろで同じく敬礼している彼女の副官に目を向けた。
「リクもクルザスもお疲れ様。待たせたね。この御老人が行きたくないと駄々を捏ねてね。手間取ってしまった。」
そう言って流れるようにヴェルムの隣を見やれば、案の定その言葉に憤慨した様子の元大将軍が顔を赤くして手に持った杖をヴェルムの脛に何度も叩きつけているところだった。
「だから儂を老人扱いするなと言うておろうが。全く、無駄に頑丈な身体をしおってからに…。あぁ、イェンドルの姫よ、ご無沙汰じゃの。元気にしておったかの?」
ヴェルムに対しては厳しく、そしてリクに対しては甘く優しい好々爺然とした様子で語りかける老人。歴戦の兵だけあってその顔は幼子が見れば泣き出す事間違い無しだが、リクとて見た目はともあれ中身は良い大人である。すまし顔で丁寧な礼を見せると、部下曰くの"淑女モード"で対応し始めた。
「閣下もお元気そうで何よりですわ。まだまだ隆盛なご様子に、我が団長も羨ましく思っているのでしょう。お二人が変わらず仲睦まじき事、わたくし共も喜ばしく思います。」
老人とリクは、老人の言葉通りにリクがイェンドル王国の姫として在った頃からの知り合いである。祖父孫どころか曽祖父孫といった年齢が離れているが、リクが幼き頃から変わらず優しく接してくれる老人の事を、リクも好んでいた。
「おぉ、おぉ。姫がおるならハナタレの所に行くのもまだ我慢出来るというものじゃて。さぁ、この悪竜は放っておいて、ご老体と共に参ろうではないか。」
老人は最後にもう一度だけ杖でヴェルムを叩くと、リクに向かってエスコートの姿勢を取る。それにクスクスと笑い声を返したリクは、優雅な動きでその腕に手を乗せる。普段の天真爛漫な様子からは想像出来ないが、やはり元姫だけあって、エスコートを受ける所作は洗練されていた。
老人とリク、そしてヴェルムの三人は、道中でリクの副官クルザスと別れた後、国王が待っているという執務室に向かった。そこを護る近衛騎士から誰何される事なく通されると、あっという間に執務室へとたどり着いた。騎士団長と元大将軍が歩いていれば、誰も止めようとすら思わないらしい。
「おぉ、待っておったぞ。」
執務机から顔を上げた途端、あからさまに喜色を浮かべた国王。今は騎士学校と魔導学院の交流試合が行われており、国王の観覧席も設けられている。そして今も国王はそこに座っているのだ。影武者が、だが。
そこまでしなくてはならない理由。それは単純に国王が忙しすぎるというだけである。近年、宰相と王妃の不祥事があったり、南方の小国郡との戦争などの国として乗り出さねばならない事態が続いた。その後処理がまだ済んでいないのだ。国内の有力貴族が多く処罰された事もあり、更には前宰相が縁故採用した位だけ高くて能力のない者が多く王城に勤めているため、人手はあっても処理が追いついていないのが実情であった。
「やぁゴウル。我儘爺さんを連れてきたよ。」
「だぁれが我儘ジジイじゃ!」
部屋に入るなり漫才を始める二人に、国王は相変わらずだと微笑んだ。だがその楽しい遣り取りをただ見ている暇などない。オホンと咳払いをして空気を変えれば、老人とヴェルム、リクの三人は国王へと意識を向けた。
「昨今、国軍のイメージを回復させるために色々としとるのだが…。丁度良い案件があってな。それに関してヴェルムとリク隊長から先に報告を受けようと思う。」
リクがここにいる理由。それが国王の言うそれのためだった。国王の言葉にヴェルムが頷き、老人の視線がリクに向く。穏やかに微笑んだリクは軽く会釈すると、マジックバッグから資料を取り出して配る。そして静かに報告を始めるのだった。




