281話
実りの秋。グラナルド王国では様々な旬の食材が商人によってアルカンタに持ち込まれ、民はその日の食事をどうするか悩みながらも楽しげに買い物をする。
食事の秋。そう呼ばれる程に実り豊かなこの季節は、数代前の国王が食に異常な程の関心を見せた事で、国内の食事情が大幅に改善された季節でもあった。
当時、主要街道のみが整備され、町や村に続く道はデコボコした馬車の轍に足を取られそうな道しかなかった。これのせいで町や村から届く食材は痛みが早く、民達は旬の食材という言葉を使う事すら無かった。
美味しいものを美味しいままに食べたい。国王の欲求が直球に現れた街道整備の方策は、その欲求を知っていて尚、民から大いに喜び受け入れられたという。
グラナルド王国全土で飽食という訳にはいかないが、それでも首都アルカンタに行けば国中の食材が集まると言われる程度には整備され、こうして今も民が近隣では手に入らない食材を安価に購入する事ができる様になったのである。
当時の国王の事は、義務教育でも歴史として習う。その際、"暴食王"や"グルメ王"などと呼称される事も多いようだ。
首都アルカンタでは、今日も市場に並ぶ食材を買い求める声がよく響いている。売り込みをかける商人の声、値引きを迫る主婦の声、逸れた母親を探す子どもの声。活気に溢れた市場は、荷物を持ってすれ違うのが難しい程であった。
「どうした、坊主。迷子か?」
手を繋いでいた筈の母親が見つからず、露店の間に蹲るように座って泣く幼い女の子に、近づいて優しく声をかける人物がいた。背には鞘に入れた大剣がベルトによって固定されており、騎士のような服を少し崩して着ているその人物は、白髪の混ざった老輩であった。
グスン、と鼻を啜り上げた女の子はその声に驚き肩を揺らしたが、近付いてきた人物の服装を見てパッと表情を明るくし、そしてまた母親がいない事を思い出したのか悲しい表情に戻ってしまう。
だが迷子かと聞かれた事に返事をしなければならないと考えたのか、下げかけた顔をしっかりと上げて、目線を合わせるためにしゃがんだ騎士の目を見つめ返した。
「あのね…。ママと手をつないでたの。チーズとハム、それからぶどうを買いにきたの。パパがお誕生日だから、パパが好きなぶどうを、買いに、でも…。」
そう言ってまた涙が溢れてきた女の子に、ドラグ騎士団の団服を着た老輩は安心させるように目を細くして微笑んだ。重ねた歳の分だけ刻まれた顔の皺は、彼が微笑めばより深く刻まれる。
乳飲み子は老人の笑顔に安心するという説があるが、それは皺が多く何もせずとも笑っているように見えるからだろう。力無き乳飲み子が己に害する存在かどうかを視覚で判断しているのかは分からないが、ぼんやりとしか見えない世界でも分かる程の笑顔であれば安心するのかもしれない。
そんな老輩の笑みを見た女の子も、その笑みで少しだけ安心したようだ。何より、老輩が着ている団服に絶大な信頼を寄せているのが分かる。団服の胸にはドラグ騎士団の紋章が刺繍されており、それは民にとって己を守護する守護神のようなものであった。
「そうかそうか。今儂の仲間がお母さんの事を探しとるからの。…おぉ、そうだ。嬢ちゃんがお母さんと逸れたと気付いたのはどこら辺か分かるかの?」
すぐに聞き出すべき事を、敢えて今思いついたように聞く老輩。それは女の子に対して気遣った結果であり、一番不安な彼女を更に不安にさせないためにも、こちらが焦りを見せる事がないようにという意図がある。
そののんびりとした様子に女の子も少し落ち着いたようで、母親と逸れた事に気付いた場所を懸命に思い出している。逸れた場所がわからずとも、それに気付いた場所が分かれば良い。それが伝わっているようで何よりだと笑みを深めた老輩は、急かす事もせずに女の子が思い出すのをしゃがみ込んだまま待っていた。
「まずはハムを買いにいって…、焼きたてのパンがあったからいい匂いだねって話をしてたの。それから…。」
一つずつ今日の行動を振り返る女の子に、老輩は逐一相槌を返しながらも黙って話を聞く。全く急かさないその様子に安心を深めた女の子は、それからも一つずつ思い出しては口にしてを繰り返していった。
その追憶がぶどうを買う段階に差し掛かった頃、ハッとした女の子は急に老輩を見上げ、叫ぶ様にその声をあげた。
「くだもの屋さんに行く前に、ママが辛い粉のお店で止まったの!でもあのお店、においだけで鼻が痛くなる気がして…。そしたらお隣にキラキラしたのを売ってるお店があってね!…それを見に行ったらはぐれちゃったの。」
どうやら逸れた場所まで思い出せたようだ。感情の浮き沈みが激しい女の子に、老輩はよく思い出せたと頭を撫でる。落ち込んだ女の子は少しだけ驚いた様子だったが、やがて老輩の大きな手を照れた様子で受け入れた。
「よし、今仲間にお母さんと逸れた場所を伝えたからの。すぐに迎えが来るじゃろうて。」
この時期の市場は、通常とは違い似た様な店が立ち並ぶ。露店での販売とはいえ、同じ物を扱う店が集中している訳もなく、一通り市場を歩いてから良い物を買う必要がある。そのため、女の子の言ったような並びになっている場所を探さねばならない。が、小さな女の子一人で移動してここまで来ているのだ。そう大した移動距離ではないだろう。
二人一組で動く事が決められている準騎士は、当然ながら老輩にも相方が存在する。今は母親探しで離れているが、その相方に念話魔法で連絡をとり、逸れた場所のヒントを送っている。
相方からはすぐに了承の返事が届き、後は相方が見つけてくれるのを待つだけだ。
「おじいちゃん?もドラグ騎士団なの?」
母親を待つだけで良いと言われた事に気分をあげた女の子は、そこでやっと周囲を気にする余裕が生まれたようだ。ドラグ騎士団の団服を着る老輩に向かって、その正体が分かっていながらも、おじいちゃんと呼ばれてもおかしくない老輩が騎士をやっている事に疑問を持ったようだった。
「儂か?勿論、ドラグ騎士団の一員じゃよ。今の仕事は嬢ちゃんを無事にお母さんと会わせる事じゃな。」
微笑んで女の子の質問に答える老輩。確かに見た目は老人だが、それはあくまで女の子視点からの話である。大人が見ればまだ働いていてもおかしくない年齢であり、逞しい筋肉と背負った大剣から、熟練の騎士だと思われる事は間違いない。
白髪混じりで顔に皺もあるが、それでも尚朗々として溌剌なこの老輩は、目の前の女の子より大きな孫がいる。
息子に家督を譲って、老後は好きにさせろとばかりに家を飛び出してドラグ騎士団に入り、老いていようと下っ端からと自分から準騎士になった猛者だ。
元の仕事は将軍職。それから領主も。そう、彼はフォルティス・ラ・ファンガル元伯爵である。
「おじいちゃんはもう歳だから、戦争には行かない?」
フォルティスを信頼して良い人物だと認識したのか、女の子はこうして思った事を直球に質問し始めた。それにユーモアを交えながらもお茶目に返すフォルティスに、女の子は更に不安を消していった。
次第に思いつく質問が無くなってきた頃、女の子が黙った瞬間にフォルティスはニコリと笑って一つ提案を持ち掛ける。それは女の子が少しでも寂しさを紛らせられるようにという提案だった。
「嬢ちゃん、市場を高いところから見た事はあるかの?」
「え?ううん。ない。」
唐突な質問にも素直に答える女の子に、フォルティスは女の子の思考を引き留めたまま畳み掛けるように続ける。
「ではどうだろう。儂の肩車で周りを見てみんかの?儂、思ったより背が高いんじゃよ。」
フォルティスの身長は人族の成人男性の平均よりも高い。同じく平均よりも高いヴェルムよりも高いのだから、頭一つ抜け出した高さから周囲を眺められるのは間違いない。
だが高いところが怖いのか、未知が怖いのか。女の子は少しだけハードルを下げた要求を出してきた。それだけフォルティスに心を開いたという事だろうか。
「まずはおんぶじゃダメ…?怖くなさそうだったら肩車してほしい…!」
おねだりするように下から目を向け、手を合わせて握っている。フォルティスはそれを見て、将来が楽しみじゃの、などと思って苦笑した。
そしてすぐに女の子の提案を受け入れて彼女を背負うために背中の大剣を外す。腰にも着けられるようになっているため、それを腰につけなおしてから女の子に背を向けてしゃがみ込んだ。
「わぁ…!すごい!おじいちゃんはこんな風に見えてるんだ!」
背負っただけでも十分なほどに、女の子は感動してキャッキャとはしゃいでいた。それは迷子に泣いていたのとは違う、楽しそうな姿だった。しかし、感動も落ち着けばすぐに目線はあちこちへと飛ぶ。それが何を探しているのかなど、フォルティスにはすぐに分かってしまう。だからこそ、敢えてそれをこちらから提案する事にした。
「どうじゃ?肩車もいけそうかの?」
「うん!あ、落とさないでね!」
「何を言っとる。当たり前じゃろう。もっと高くなったら、そこからお母さんを探して見れば良い。嬢ちゃんがお母さんと逸れた、キラキラを売っとる店でも良いのう。」
そう言った後、フォルティスは女の子を降ろすこと無く脇に手をやってそのまま持ち上げた。準騎士となる前から柔軟体操を続けてきた彼にとって、背中にしがみついている少女に手を回して持ち上げる事など容易い。一切の重さを感じさせないその動きに、女の子は驚きながらも喜んだ。
そして目線が更に高くなると尚も喜び、まるで物見台に上がったようによく見えるその景色を堪能し始めた。
先ほどまでと同じ景色だというのに、高さが違うだけで全く異なる世界に見えるから不思議だ。背の高いフォルティスも普段は見ることのない景色を、頭の上で楽しんでいる女の子を落とさぬように適度な力加減で支えながら、フォルティス自身は周囲を注意深く探した。
女の子の言っていた店を探すためである。
だが、思ったより先に店ではなく見知った顔が近くに見えた。
「嬢ちゃん、儂の相方が嬢ちゃんのお母さんを見つけたようじゃ。もうこちらに向かっとるみたいでな。お母さんを見かけたら手でも振ってやると良い。」
「ほんとっ!?どこだろう!」
「ははは。慌てんでもお母さんが見つけてくれるじゃろうて。それまでこの景色を楽しんで、後でお母さんにこの景色を教えてやるといい。」
「あ、そっか!ママ背が低いから、きっとこんな風に見た事ないよね!後で教えてあげるんだ!」
「ママ!」
「ニーナ!」
市場を行く民から好奇の目で見られる事数分。フォルティスの相方は無事に女の子の母親を連れてきた。焦りと安堵がない混ぜになったような表情で女の子を抱きしめる母親は、反面楽しそうな様子の娘に驚いたようだった。
「あのね、ママ。騎士のおじいちゃんがお話をたくさんしてくれたの!肩車してママを探すの手伝ってくれたんだよ!」
母親と会えて喜びが爆発する女の子の説明に、母親はうんうんと頷きながらもしっかりと女の子を抱きしめる。そしてそれをゆっくり離すと、真剣な様子で娘に言い聞かせるように言葉を発した。
「ニーナ。騎士様にありがとうって言いましょう?」
「そうだった!おじいちゃん、ありがとう!おじいちゃんの相方さんも、ママを見つけてくれてありがとう!…それからママ、心配かけてごめんなさい。」
母親に言われた通りに眩い笑顔でフォルティスと相方に礼を言う女の子。それにドラグ騎士団の敬礼で返した二人は、寧ろその後に女の子が自分から母親へ謝った事に驚いていた。
余程しっかり教育されているのか、思い返してみればフォルティスに事情を説明するのもこの歳の子どもにしてはしっかりしていた。"キラキラを売っていた店"以外は何を売る店なのか大体分かっていた上、ぶどうを買いにくだもの屋さんに行くとも言っていた。
フォルティスが予想したよりも歳は上なのかもしれないと思ったが、母親を見て家庭での教育が上手くいっている事に気付く。フォルティスは子育てなどした記憶がないため、どう教え導けば良いのかは分からない。だが子どもは好きだった。だからこそ、子どもが苦手だという相方に母親捜索を任せたのだから。
「まぁ。自分から謝れて偉いわ。ママもごめんなさい。ニーナの手を離してしまって。今度は絶対離さないわ。」
子どもは親の鏡である、と誰かが言った。それは確かに的を射ており、母親がこうして子ども相手でも真摯に謝り改善策を出す事に、子どもは影響を受けているのだろう。
高い教育を受けた事がわかる母親は、どこか裕福な生まれなのかもしれない。何はともあれ、この親子がこれからも幸せな生活が出来るように巡回にも力を入れねば、と感じた準騎士二人であった。
それから親子は、ぶどうを買いに行くのだと言って去って行った。最後まで母親は二人に謝罪と感謝を伝えていたが、娘ニーナが不安そうな顔をした事で無理矢理それを止める事になった。
親が何度も謝らねばならない程に自分が迷惑をかけたのだと幼い子どもに思わせるのは、二人としては受け入れられない事だったからだ。
これが生意気な糞餓鬼であれば、反省させるためにももう少し謝罪を受けただろう。だがニーナは賢かった。自身の過ちも受けた恩も正確に把握していたし、何より不安な中でも気丈に振る舞っていた。その事を、相方がニーナと話している内に静かに母親へ告げたフォルティス。叱るのも良いが、まずはたくさん褒めてやってほしい。そう言えば、母親は驚きながらも目に涙を浮かべて何度も頷いていた。
「フォルさん、子どもの扱いが上手いんですね。」
「ん?そうかの?」
親子が去ってからまた巡回に戻った二人。唐突に今日の相方がフォルティスへと揶揄うような声をあげた。
「フォルさん顔が怖いのによく泣かれませんでしたね。」
「なぁにが顔が怖いじゃ。嬢ちゃんも女子じゃからな。このカックいい顔に惚れたんじゃよ。」
互いに前を向いて歩きながらも、フォルティスはキメ顔までしてみせる。誰も見ていないのに。
そんなフォルティスに呆れたような相方は、眉尻を下げながらもはいはいと軽く流していた。
そんな二人でも周囲の警戒はしっかりしている。仕事中に雑談は禁止されていないが、気を抜くなとは重々言われているのだ。東の国に伝わる鬼のようだと呼ばれている教官から。
寧ろ、雑談しながらも周囲を警戒する準騎士の様子に民は安心を得るという。真面目で怖い顔をして巡回する騎士がいると、どうしてもその周辺が緊張してしまうからだ。民はドラグ騎士団の腕をよく知っているし、それを信頼している。
準騎士が雑談しながら歩いているからこそ、今日も平和だなと感じる事ができるのだった。
「カックいいとかいつの時代の言葉ですか…。」
賑わう市場。耳の良いフォルティスにすら聞こえない音量で相方が呟いたのは、フォルティスに聞かれたら怒られる言葉だった。




