277話
「その説得、代わってあげようか。」
その声は、緊張感に包まれた謁見の間に似つかわしくない、どこかのんびりとした穏やかな声だった。謁見の間にいた誰もが一斉にそちらを見れば、そこに立っていたのは白銀の長髪が美しい漆黒の瞳を持った麗人だった。
グラナルドの護国騎士団、ドラグ騎士団団長ヴェルム・ドラグである。
「おぉ、ヴェルム。いつからそこにおったのだ。」
予想外の人物が現れた事で騒つく謁見の間に、然して驚いていない国王の声が響く。謁見の間の入り口から玉座まで真っ直ぐに敷かれた赤い絨毯の両脇に並んだ文官達は、その国王の歓迎するかのような声掛けですぐに口を閉じた。それまでこの場に呼ばれていないヴェルムに文句を言っていたが、国王が咎めないのであれば注意されるのは自分だと考えたからである。
その判断は正しい。国王とヴェルムが無二の友人である事は意外にも知られておらず、国王もヴェルムもそれを隠していない。それでも知らない者がいるのは、二人で会うのが基本的に国王の私室という事もあって広がり難いためだ。
現に今、知らなかった文官は勝手に現れたヴェルムに対して文句を言っていた。知っていれば国王の友人に対して文句など言わないであろう。少なくとも国王の前では。
そんな文官達の囀りが当然のように聞こえているヴェルムはともかく、国王も聞こえていて無視している。己の首がギリギリのところで繋がった事に気づかない彼らは、国王にバレないようにヴェルムを睨むのに忙しかった。
「いつから?勿論最初からだよ。アデレイド侯爵は気付いていたみたいだけど。」
国王の問いにヴェルムが穏やかに応えれば、国王は驚いた様子でアデレイド侯爵を見た。その目はヴェルムの言葉が真実かどうか問うていたが、口には出さない。そしてアデレイド侯爵も口には出さず、頷くだけで答えとした。
「なんと。二人とも言ってくれれば良かったではないか。…してヴェルム、説得を代わるというのは?」
国王は驚きを誤魔化しつつ、なんとか話の流れを修正する。流れを変えたのが自分である事は分かっているためか、戻すのは些か強引だったにしても間違ってはいない。
そんな国王にヴェルムは穏やかな笑みを向け、アデレイド侯爵は変わらず少しだけ入った眉間の皺を、これまたほんの少しだけ緩めてみせた。
「勿論、アデレイド侯爵が愚か者の代わりに罰される事の無いように、さ。」
上位者同士の会話に入れない文官達は、ヴェルムのその言葉を聞いて心では心底莫迦にしたように嗤っていた。それは、彼らがアデレイド侯爵の性格をよく知るからこその嘲笑。
彼の提案する事について、それよりも国のために利となる物がなければ決して意見を変えないのが文官達の知るアデレイド侯爵という上司である。それを本件に関わりなく貴族でもない騎士が出てきたところで、変えられるとは到底思えないのだった。
しかし、国王の反応は違った。ヴェルムが失敗するなどと欠片も考えていないような顔で頷き、アデレイド侯爵をチラリと見た後に許可を出したのである。
「ヴェルムがやってくれるのか。ならば本件は片付いたも同然だな。頼んだぞ。アデレイド侯爵、今回ばかりはお主の言い分を曲げる事になりそうだ。」
「…簡単に説得されるつもりはありません。が、陛下の仰るようになりそうですな。」
アデレイド侯爵も少し肩を落として国王の言葉に同意した。文官達から見れば意味のわからない行動である。
何故なら、アデレイド侯爵は国王の意見とて国に利なしと判断すれば堂々と批判する胆力の持ち主。そんか彼が言い出した文官筆頭の座を降りるという宣言に、果たしてこの場の文官が何人喜ぶと思うのか。
はっきり言って文官筆頭の座は欲しい。文官達が生まれた頃にはもう筆頭の座にいたアデレイド侯爵の、その代わりに座す事が出来るなら末代までの誉れだ。しかし、彼が取り仕切る仕事を全て同じようにやれと言われてやる自信はない。
文官として過ごしたこの期間だけで、アデレイド侯爵という完全無欠の文官に着いていくだけでも必死だという事が分かっているからだ。
何かを指導された訳でも、注意を受けた訳でもない。同じ問題を目にして導き出す答えが、いつも自分より上をいく。ただそれだけだ。
それだけだが筆頭という立場を再認識するには十分な結果で、アデレイド侯爵が決裁した事柄においてグラナルドの損になるような結果が齎された事は一つもない。
文官達は思う。筆頭の座は欲しいが欲しくない。と。
そんな願いが通じたのか分からないが、おそらくは騎士団の制服であろう黒色を基本とした服に銀の差し色が入ったそれを着た騎士団長が、アデレイド侯爵を説得するという。
正直に言えばこの者では無理だと思っているし、国王が何故こんな者を信用しているのかが分からない。しかもアデレイド侯爵自身も説得されると思っているらしい。
弱味でも握られているのではと思ったが、それを材料に説得するなら謁見の間という舞台はおかしいだろう。
そんな考えもあって、文官達の興味は次第に説得の内容に移りつつあった。
「さて、じゃあ早速。君を説得するなら、まずは国の利になる事でするのが一番だよね。」
「そうですな。私の進退には然して興味がありませんので。」
始まった説得は、最初からアデレイド侯爵の鉄壁の守備が張られた状態で始まった。部下である文官達からすれば、ここまで警戒を面に出して交渉する侯爵も珍しい。
表情は普段と変わらないように見えるが、長年部下として勤めてきた彼らにとって、上司の表情が読めないなどと今更言うわけがない。そんな彼らから見ても、今の侯爵は己を説得しようとする人物に対して最大限の警戒をしているようだった。
「ではまず、君が辞める事でどんな利があるのか教えてくれるかい。」
「えぇ勿論。まず、私の元寄子が犯した罪を償わなければなりません。今回の事件では国内の有力な貴族の令息令嬢が危険に晒されております。当然、私の責任を問う声が数多挙がるでしょう。更に、東の国皇子の問題があります。東の国からの責任追及は確実でしょう。あちらは少しでも条件をよくしたいはず。最悪、ユリア殿下に竜司殿下を王配として差し出す、と言いかねません。それら全てを防ぐ意味でも、私が責任を取らねばならないでしょう。長年お仕えした文官筆頭が辞めるとなれば、文句は出ないはずです。」
アデレイド侯爵は、自身の立場を過小評価も過大評価もしなかった。確かに国王が生まれる前から文官筆頭として腕を振るってきた彼が辞めるというのは、東の国との戦争の時にいた重鎮が辞めるという事。辛酸を舐めさせられた相手が辞めるのであれば、東の国も多少は手を緩めるだろう。それ以上グラナルドを口撃しても機嫌を損ねるだけだと考えてくれれば得だ。
国内の貴族に対してもそうだろう。彼が辞めれば責任は果たしたと考える貴族は多いはず。後継のいない彼は社交界から消える訳ではなく、そちらで世話になっている者は寧ろ、社交界へ顔を出す機会が増えるのではと喜ぶかもしれない。
文官達や国軍である公爵二人、そして国王もそう考えた。この鉄壁の意見があるからこそ、アデレイド侯爵が辞める以外の解決策が思いつかず困っているのだが。
しかしその意見を促したヴェルム本人は、大して困っているようには見えなかった。寧ろ何か企むように口角を上げており、その顔に良い思い出など無い国王はそれを見て若干引いている。
そしてアデレイド侯爵もまた、それを見て警戒の色を強めた。
「という事は、問題はその二つだけだね。なら一つずつ崩していくとしようか。」
自信ありといった表情で言うヴェルムに、国王と侯爵は眉間の皺を深め、文官達や公爵は疑問を浮かべた。
「まず一つ。国内貴族に関してだね。問題を起こしたアージノス伯爵に関してだけど。既にその身柄は押さえてあるよ。彼は無断で身分証を持たぬ他種族を首都に入れ、襲撃に参加させたという罪で捕えた。襲撃時に、違う目的の襲撃者がいた事は知っているかい?」
ヴェルムの言葉に驚いていないのは国王と宰相だけだった。アデレイド侯爵もこの言葉に驚いており、誰もが彼も知らなかったのだと知る。
国軍として己も現場にいた公爵達も驚いており、何故その時に報告しなかったのかと怒りが湧いたが今は言える雰囲気ではない。それより、襲撃者を見逃していたという事実が彼らの肩身を狭くしていた。
「こちらの襲撃者の狙いは、学院に通う元平民の令嬢。今は伯爵家の家系に入れられているね。彼女は元々、下町の聖女なんて呼ばれる聖属性魔法の遣い手だよ。その力を欲した者とアージノス伯爵の思惑が一致して今回の襲撃が成った訳だね。」
下町の聖女。それを聞いた事がある貴族は少ない。市民街なら兎も角、職人街や商業区よりも外のアルカンタ外壁に近い場所になど、貴族は寄り付かないからだ。スラムなどと呼ばれる事もある下町で、聖女と呼ばれる存在があるなどと知る者は、この場にはいなかった。
近年社交界で少し話題になった伯爵家の庶子。平民から令嬢になったその人物が、下町では聖女などと呼ばれている事に興味がある者など普通はいないのである。
令嬢になったからといって、同じく伯爵令嬢である他の伯爵家の令嬢と同じかと言われれば、そんなわけがない。生まれてからずっと伯爵家で育ったという事は、即ちそれだけ教育がしっかりしているという事。幼子の内に招き入れたなら兎も角、ある程度大きく成ってからであればそれは令嬢の皮を被った平民であろう。そこに令嬢としての矜持も知識も矜持もあるはずもなく、金持ちの商人が娘に綺麗なドレスを着せるのと変わりはない。
つまり、貴族達にとってその話題は然して興味の惹かれる事ではなかったという事だ。
「その令嬢に関しては、彼女を崇拝する四人の男性がしっかり護ったようだね。ドラグ騎士団からも手助けはしたけれど。そして襲撃があったその日に、アージノス伯爵の屋敷は押さえたからね。襲撃者の本隊がアデレイド侯爵の私兵だと思い込んでいる事は知っていたよ。しかし残念ながら、捕えたのは私たちだ。つまり、国法で裁く訳じゃない。今頃、アージノス伯爵が犯した罪について広場で大々的に宣言されているのではないかな。」
ヴェルムは企むような笑みを深めながら言った。それに焦った国王が宰相へと目配せをすると、宰相も珍しく焦ったように頭を下げて謁見の間を出て行った。ヴェルムが言ったことが本当なのか、確認に走らせるつもりなのだろう。
もし本当であれば、アージノス伯爵が犯した罪を元寄親であるアデレイド侯爵が責任を取るという形で座を引くというのが難しくなる。既に処罰した者の代わりというのは無理があるからだ。
「して、仮にそれが本当だとして、残る東の国に関してはどうするのですか。」
深く息を吐きながら若干諦めたように言ったのはアデレイド侯爵だった。これからアージノス伯爵を捕まえようか、という段階で、不意に出てきて既に捕まえたし余罪も調べ上げてますなどと言われた側にすれば、その反応は正しいだろう。
そんな侯爵に対して機嫌よく笑みを深めたヴェルムは、そちらも問題ないとばかりに隊服の内ポケットから一枚の書状を取り出した。それを国王に近寄り手渡す。国王も気にせず直接受け取ると、静かだった謁見の間が再び騒ついた。
通常、国王が誰かから直接物を受け取る事は無い。国王の生誕祭で多くの贈り物が贈られても、それを直接手に取る事などないのだ。手紙にしろ何にしろ、侍従や近衛騎士、宰相が受け取って中身を改め、安全を確認して国王の手に渡る。
それが当然であり、どれほど親しくともそれは変わらないはずだった。今は宰相がいないとはいえ、国を護る騎士団の団長如きがそれを破っていい訳がない。
しかし国王は何も気にせず受け取り、団長もそれが当たり前のように渡した。ここに宰相がいても同じようにしたと知らない彼らは、その光景に驚くどころの騒ぎではなかった。
そうして文官達が騒いでいる間に、国王はヴェルムから受け取った書状を開いて読んだ。読み終えると口角を上げ、アデレイド侯爵を見つめる。何やら嫌な予感がする侯爵は黙ってその目を見つめ返したが、それによって更に笑みを深めた国王から書状を差し出され、反射的にそれを両手で受け取るのだった。
「読んでみると良い。東の国からの書状だ。」
ヴェルムが渡した書状。それは東の国の天皇からの書状だった。何故そんな物をヴェルムが持っているのかと疑問に思う国王だったが、読んでみれば何の事はない。皇子である竜司殿下が持ってきたのだから当然だろう。
正確に言えば、竜司が源之助に渡し、それがヴェルムの手元に届いたという訳だ。竜司は事件があってすぐに本国へと手紙を飛ばしている。その返事がすぐに届き、読んだ竜司は源之助に預けたのだ。竜司が国王へ渡すよりも、ヴェルムに預けた方が上手く活用してくれると考えたからであった。
それはまだ幼い兄を拾い育ててくれた恩人に少しでも恩返しが出来たらという気持ちが幾分も含まれており、兄である源之助は弟にまで恩を返させるつもりはないと言いつつも、この書状が主人の役に立つと判断してからは直ぐに受け取り届ける判断を下した。
そんな兄が誇らしく、また兄の役に立てた事が嬉しい竜司は、これからも兄の、ひいてはヴェルムの役に立てるよう努力すると密かに心に決めている。
そんな書状を読んだアデレイド侯爵が顔を上げた時。もうその眉間に皺はなく、全てを諦めた美青年がそこにいた。
国王の父、先代国王が生まれた時にも既に文官筆頭を勤めていたというアデレイド侯爵。しかしその見た目は若い青年から変わっておらず、これがエルフの血かと社交界ではいつも話題に挙がる。
そんな侯爵は常に眉間の皺が取れず、美青年であってもその雰囲気によって近寄れないと、貴族令嬢達は眺めるだけで精一杯なのであった。
そんな侯爵の眉間の皺が取れた。国王ですら見た事がないその表情は、しかし一瞬で普段よりも深い皺が刻まれてしまう。
「ヴェルム殿。これは何故そちらに?」
機嫌悪そうに見えるのは皺が深いからか。明らかに先ほどよりも低い声は、確かに彼の機嫌が良く無い事を表していた。
「それかい?何故だろうね。それより、その書状で東の国の問題も片付いた。これで君が辞める必要は無くなったね。」
書状を読んでいない文官達や公爵二人は何のことか分からない。この発言でやっとその書状が東の国からである事を予想できた訳だが、一体何と書かれているのか。様々な想像は出来ても、納得はいかない。このまま終われる訳がなかった。
「陛下。その書状は何でございましょうか。」
我慢できなかった文官の一人が問う。すると先ほどまで彼らが騒ついても目も向けなかった国王が、ここで初めて彼らに目を向けた。
「なんだ。気になるのか?東の国からの書状だ。本件に関して東の国は責任を追及しない事、皇子を無事に護った事に対する感謝などが書かれておる。」
国王が書状の内容を随分と端折って伝える。しかし必要な情報はそれで十分だったのか、文官達は驚きながらも喜んだ。普段、こういった場で国王に声をかけるなど出来やしない。勇気を出して聞いた文官など、勇者の如き扱いで他の文官から褒められている。
しかしそんな喜びも長くは続かなかった。
「お前達。先ほどまで無礼にもヴェルム殿の文句や騒がしくしていた事、陛下が注意しなかったのは何故か分からないのか。見逃してくださっていたのだぞ。つまり、お前達は居ないものとして扱われていたのだ。今陛下がお答えになったという事は、それを止めるという事。お前達は後で処罰だ。分かったら黙っておれ。」
アデレイド侯爵の鋭く厳しい声があがる。だが誰も否定できない事実のみをズバズバと言うその姿は、やはり周辺国からも畏れられる文官筆頭だけはある。その様子に国王とヴェルムは苦笑していたが、怒れる筆頭の目から逃げるように目を背ける文官達の目に映る事はなかった。
それから少しして、宰相が戻ってきた。東の国からの書状を読み、嬉しそうに何度か頷いてアデレイド侯爵の残留を喜んだ。
更にその後、宰相に言われてアルカンタの広場まで走った近衛騎士が帰ると、アージノス伯爵の悪事が晒されており、街ではアデレイド侯爵を擁護する意見で溢れかえっていたと報告された。
アデレイド侯爵が挙げた二つの理由。そのどちらもが崩された瞬間だった。
「侯爵よ。筆頭の座、まだ降りる時ではないようだな。」
「そのようでございますな。このアデレイド、まだまだ陛下にお仕えする必要がありそうです。」
「うむ。存分にその腕を奮ってくれ。」
こうして、アデレイド侯爵は責任を負う事なく文官筆頭の地位から離れずに済んだのである。




