271話
「カリンさん!遅いですわよ。」
無事にホールへと着いたカリンを待っていたのは、先ほど別れたスピア公爵令嬢であった。ホール内部からは賑やかな声が聞こえており、気配を探ればそこに学院長もいる事が分かる。
となれば、もう既に後夜祭は始まっているのだろう。それでもカリンの到着を待っていてくれた令嬢に、カリンは感謝を込めて微笑んだ。
「待っててくれたんだ。ありがとう。」
身についていないが教わった事があるカーテシーを見様見真似でやってみせれば、令嬢は怒ったような顔を引っ込めて少しだけ驚いたようだった。
ほんの少しの間を空けてからカリンの全身にくまなく視線を這わせる。そして一つ頷いたかと思えば、カーテシーの姿勢のままだったカリンに手を伸ばした。
「ここはこう。足はもう少しこちらですわ。…よろしい。付け焼き刃にしては上出来でしてよ。それにそのドレス。明らかに高級な素材がこれでもかと使われていますし、何よりデザインが秀逸ですわね。流石はドラグ騎士団、という事かしら。」
やはりバレている。だがアイルの言う通りスピア公爵と話がついているのであれば、遅かれ早かれ彼女はカリンの正体を知っただろう。ならば己との会話からそれを本人に導き出してもらった形になった今回は、互いのためにも良かったのかもしれない。
少しだけ戯けたつもりでしたカーテシーを矯正されながら、どこか腑に落ちない様子でそんな事を考えるカリンだった。
「さぁ、もう後夜祭は始まっています。行きましょうか。」
「うん!」
だがそれはそれ。今は大好きな師父の言う通り、精一杯楽しんでこようではないか。
煌びやかに光舞うホールに歩み出した二人の女性は、騒めいていた会場の視線を一気に集めながら進んで行った。
「やぁ、カリン。そのドレスとっても良く似合ってる。まるで絵画から貴婦人が抜け出したようだよ。」
カリンが令嬢と並んで歩いていると、周囲から視線が突き刺さる。だが誰も二人に話しかけようとしなかった中、人混みを掻き分けて二人に歩み寄った人物がいた。
その人物は、カリンの隣に立つスピア公爵令嬢に惜しくも準決勝で敗退した東の国の皇子、竜司その人であった。
「あ、竜司くんだ。ありがと。そう言う竜司くんは袴じゃないの?」
今日の竜司は東の国の公式行事で着る袴を着用していない。着ているのはグラナルドを含めた大陸の貴族達が着るようなスーツであり、スラリとした彼の背丈によく似合っていた。
少し伸びてきた黒髪を整髪料で後ろに撫で付け、ほんの少しだけ施された化粧が彼の若い男としての色気を倍増させている。
髪を後ろに撫で付けているために露わになった額は白く美しい。この年代特有の皮膚湿疹やデキモノの跡はなく、余程食べ物に気を遣って清潔な生活をしているのだろうと思わせた。
皇子という立場から、数多のストレスを抱えているはずにも関わらず、それが肌に影響を及ぼさないのは周囲から三人を眺める令嬢令息たちから見ても羨ましい。
そんな竜司を含めた三人に送られる視線は変わらず多いが、彼がカリンの名を呼んだ事で周囲が少しだけ騒ついた。
「袴を着るか悩んだのだけどね。聞けば後夜祭ではダンスを踊るというじゃないか。であれば、袴よりもスーツの方が映えるだろう?」
カリンの疑問に爽やかな笑顔を向けて答える竜司に、周囲の令嬢達から黄色い声があがる。グラナルドの美醜感から見ても非常に整った顔つきをしている竜司は、それだけで令嬢からの人気が高い。
反対に、令息からは鼻につく奴だと思われている節がある。
だがそんな煌めく笑顔を見ても、ふーん、と流したカリンには関係のない話である。竜司としてはそれが何故か少しだけ面白くなかった。
「竜司くんなら踊ってほしいって女子が多そうだね。今日は戦ってないし疲れてないでしょ?たくさん踊ってきなよ。」
そしてカリンから出る言葉に撃沈した。彼とて、この留学の期間でグラナルド貴族の令嬢を一人連れ帰っても良いかと思っている。
本島に婚約者がいるが、東の国では一夫多妻が皇族にのみ認められている。世継ぎのためではあるが、側室としてなら外国の貴族がいてもいいのではないかと考えているのである。
単純に、中央の国と東の国の架け橋、つまり友好の象徴としてどちらかが嫁を出す必要は元からあった。
現在の東の国皇族には姫がいるが、グラナルドに王子がいないため竜司が高位貴族の女性を娶るのが一番だという考えからだ。
だが竜司本人はそれに乗り気ではなかった。寧ろ、この目の前の少女こそ連れて帰りたい気持ちでいっぱいなのだ。
先程二人が入場してきた時は、それはもう驚いたのである。
後夜祭という祭会場に妖精が紛れ込んだかと思った。だがよく見れば二人とも見知った顔で、片方は夏季休暇で己の領地に来た時に見たドレス姿であった。
しかしカリンはどうだ。彼女はラフな格好を好み、竜司の城でもシャツ一枚とズボンという女性とは思えない格好をしていたではないか。
確かに、令嬢と二人で着物屋へ行ったという日に着て帰ってきた着物はよく似合っていた。桜という東の国特有の木に咲く花が繊細に織られた着物は、彼女の眩いばかりの明るさと笑顔によく合っていたのだ。
それだけでも十分な程綺麗だと思っていたが、グラナルドのドレスというのも良い。腰周りは彼女の細い腰を更に惹き立て、ふわりと広がるスカートは彼女が動くたびに花が舞うような錯覚を起こす。
胸元には何やら宝石が飾られており、魔法を得意とする竜司が見ればそれは何か魔法がかかった物であると分かる。
また、そもそもドレスの生地も容易に準備できる物ではないことに竜司は気付いていた。あれは南の国で作られるという絹の一種ではなかろうか。
東の国にも蚕を育てる技術があり、それの吐く糸は最高級生地になると聞く。実際にその絹で織られた着物を何着も所有している竜司には、カリンのドレスの異質さを理解するだけの地盤があった。
「カリンは踊らないのか?」
ドレスの事は二の次だと手に持っていたシャンパンを一口飲み、己が一番聞きたい事を聞く。あと少しだけ己に勇気があれば、自分と踊ってほしいと言えただろうに。
そんな己の不甲斐なさに悔しくなる竜司を、憐れむような目で見る令嬢。彼女にはこの気持ちがバレているだろうか。きっとバレているのだろう。
己の何が弱点となり足を引っ張られるか分からないグラナルド貴族と違って、血によって成り立つ東の国皇族に生まれた竜司はその辺りがまだまだ未熟だ。基本的に己が欲したものは全て手に入る生活をしていた彼に、己の欲求を他人に隠すというのは難しかった。
それでも、随分前に親愛なる兄が追放されてからはそれを改めるよう心掛けてきた。いつか兄を側に呼び戻すために、と周囲を騙すために始めたそれは、いつしか本心を面に出さない技術として定着したのだ。
だが恋心というのは厄介で、相手の一挙手一投足に歓喜し絶望してしまう。それを隠せというのは難しい。
「んー、私踊れないから。折角だし美味しいご飯食べて帰ろうかなって。そういえば、竜司くんは先に来てたんだよね?何か美味しいものあった?」
カリンはカリンとして、竜司の意思とは関係なく側にいなければならない。それが護衛としての任務であり、ここにいる意味だからだ。
そんな事とは知らない竜司は、カリンから頼られたのが嬉しくてその笑みを深める。護衛で一緒にいるための理由だとすぐ察した令嬢は、そんな一喜一憂する竜司に同情の気持ちを向けた。今までのカリンの行動も、竜司に気があるのではと疑った事もあった。
だが今となっては全てに納得でき、護衛だと思わせないその力量にただただ感嘆するばかりだ。
「あちらに美味しいステーキがあったよ。仔羊のかな。それにあちらは朧料理を出してくれている。私がいるからか、そういった気遣いをしてくれているみたいだね。」
カリンの好みはどちらかと言えば肉。確かに仔羊のステーキは好物だ。だがドラグ騎士団本部の食堂はどんなものでも世界一美味いと思っているため、なんだって美味しく食べられる。
こうして外で食べるのなら、せめて好きなメニューを選びたいところだ。
そんなカリンの好みを何故知っているのかは分からないが、そこに興味を持たないカリンは素直に微笑んで礼を告げる。そして一人でトコトコと歩き出した彼女を、令嬢と竜司が追いかけた。
「カリンさん。こちらを食べたいのですが、半分こにしません?ドレスだと多くは食べられませんもの。」
令嬢がカリンにある提案を持ちかける。確かに、コルセットをキツく巻いた上に何枚もの生地を合わせたドレスを着ていては、碌に食べることが出来ないだろう。
そこでやっと令嬢がいつもより小さな口で食事をしている理由に気がついたカリンは、ふと自分のドレスは苦しくない事にも気付く。
初めて着たドレスだったためか、ドレスとはこういうものなのかとすんなり受け入れられていた。だが、世の令嬢がこのドレスを着たらこう叫ぶだろう。
ドレス界の革命だ!
と。
カリンがそんなドレスを着ているとは思っていない令嬢は、いつも通り美味しそうに食べ進めるカリンに気付かせるつもりで、敢えて己の事のように言っている。
彼女はこれでも公爵令嬢で、数多くの舞踏会や茶会に参加している。成人を迎えてから参加の許される夜会にも数度参席しており、そういったものとは無縁のカリンに助言するつもりで言っているのだ。
当然、そんな令嬢は食べ方をセーブしているし腹が満ちるまで食べたりしない。だが立食形式となっているこの後夜祭で、見た目も華やかで食欲をそそる料理が大皿に乗って並んでいるのを見れば、食欲が否応なしに湧いてくるというものだ。
通常であれば、令嬢達は仲の良いグループで食べ物を分けたりする事で種類多く食べようと考える。
これは目上の者が主催のパーティー限定ではあるが、その辺りは色々と事情がある。
己よりも上の立場など王族しか存在しないスピア公爵令嬢は、こうして友人と分け合って食べたりするのを密かに夢見ていたのである。身分が下の者とは、分けられないからだ。
そんな期待と助言が混ざった言葉を額面通りに受け取ったカリンだったが、ドレスはまだキツくない。だがドレス生活の大先輩である令嬢の意見も聞くべきだと思ったし、それで分けたデザートが美味しければもう一つ食べれば良い。
そんな風に自己完結したカリンは、嬉しそうな笑顔を令嬢に向けてから頷いた。
「美味しそうだなぁ。これ、なんだろ?」
貴族は己の食事を自分で取ったりしない。そのため後夜祭には使用人らしき者が数多く会場に散っており、飲み物をトレイに乗せて運んだり、料理が並んだテーブル一つ一つに配置された使用人が、学院生の望んだ通りの料理を注ぎ分けている。
そんな使用人の一人から、半分にしたケーキを受け取った令嬢。その一つをカリンに差し出すと、カリンはその断面を興味深く眺めながら疑問を口にした。
「こちら、カヌレでございます。甘くて美味しいですよ。」
切り分けた使用人がカリンの疑問に答える。よく見れば鍛えられた身体の使用人は、カリンが見れば服に武器を仕込んでいるのが分かる。
それが分かってもカリンが反応しないのは、その使用人が零番隊、暁の部隊員だと分かっているからだ。
魔導学院には学院生の昼食を準備するために大きな食堂がある。そこのスタッフが後夜祭の使用人をするのだが、当然ながらそれだけでは足りない。
例年は生徒会の学院生が実家の使用人を連れてくるのだが、今年は竜司がいるためにそれは棄却された。代わりに、ドラグ騎士団がその穴を埋めたのである。
食事に関しては最も注意せねばならず、食べ物や飲み物を手渡す使用人は全て騎士団の者に変えられた。これならば毒殺の心配はない。
「カヌレは我が家でもよく出ますの。我が家のシェフとは別に、パティシエも雇っておりますから。」
自慢げに言う令嬢を軽く流し、カヌレを一口で頬張る。サクリとした外側に反して中は柔らかく、濃厚なバターとチョコレートの香りがカリンの鼻腔を擽った。
「ん、おいしい!」
満足そうなカリンを見れば、軽く流された令嬢の心も上向く。
気に入ったのであれば今度うちに来ないか、と令嬢が提案しようとしたその時だった。
きゃああぁぉぁああ!!!
カリン達がいるホールの隅とは別の、反対側から悲鳴があがる。何事かと振り返るも、人の多いホールで身長の低いカリンからはよく見えなかった。
瞬時、使用人に扮した家族に視線を送る。すると彼もまたカリンを見ており、学院生の誰にも見えない速さでハンドサインを送ってきた。
予定通り、ね。
送られてきたのは指示ではなく護衛の続行。ならば最初にすべきは竜司の身の安全の確保である。そのためには隣にいる令嬢が足枷となるが、そちらを見れば令嬢はわかっているとばかりに頷きを返してきた。
ここにきて、カリンの中に一種の感動が生まれる。先ほどアイルが己の正体を令嬢に仄めかした理由がここで活きたのだ。
ならば心配ないと竜司を探せば、彼は先ほどまで二人が食事をしていた場所から動いていなかった。
カリンは皿を使用人に扮した部隊員に渡すと、慣れた足捌きで人混みを抜ける。そして容易に竜司の元へと辿り着くと、まずはその身体に怪我がないかを見ただけで把握した。
「カリンとスピア嬢が向かった先じゃないとは分かってたけど…。無事でよかった。」
竜司から紡がれる心配の声に、カリンは何となく可笑しくなってしまった。自然と上がる口角を自覚しながらも、竜司も無事でよかったと言葉を返す。互いに無事を確認したところで、人混みを掻き分けるのに手間取った令嬢が合流してきた。
それから教師の指示が出るまで、三人はその場から動かなかった。騒めきが広がる中、我先にとホールの出口へ向かう学院生達を眺めながら。
すると、令嬢の友人達がカリン達に合流してきた。どうやら令嬢やカリンを探していたようだ。
「まぁ、貴女達。逃げなかったんですの?」
令嬢がそう問えば、友人達は揃って令嬢が心配だったと言い募る。中々良い友人じゃないか、と何目線か分からない感情でカリンがそれを眺めていると、隣から微かな笑い声が聞こえてきた。
「カリン、まるで保護者のような顔をしているよ。」
言われて気付いたカリンだったが、その笑い声で既に皆の注目を浴びている。友人達は可笑しそうに微笑んでいるし、令嬢はどこか不満そうだ。
ホールは緊急事態だというのに、この一角だけは何故かほのぼのとしていた。
警備兵は何をやっている!
賊だ、賊が出た!
出入口の方では阿鼻叫喚の騒ぎになっているようだが、カリンにしてみればこれはアイルから聞いた有事である。であればスピア公爵とアクス公爵が国軍を動かしているだろうし、その裏で五番隊が暗躍しているに違いない。
カリンがやるべきは護衛対象である竜司を護る事。周囲には暁もいるし、なんて事はない簡単な任務だ。
国軍がどこまで賊の侵入を阻止できるかが鍵になるが、万が一はあり得ない。何故なら、ここにカリンがいるのだから。
「私そんな老けてないよ!」
であれば、師父の言う通り精一杯楽しもう。ドレスを着て己の友人と共に過ごすなど、この先あるか分からないのだから。
拗ねたように怒って見せれば、口々に謝ってくる。それがなんとなく恥ずかしく、なんとなく嬉しかった。




