262話
東の国までの道中では、特に大きな問題は起こらなかった。問題といえば、カリンを公爵令嬢と竜司どちらの馬車に乗せるかで揉めたくらいだろうか。
未婚の男女が二人で乗るべきではない、学友ならば問題ない、などと言い合う二人。それをニコニコと満面の笑みで見ているだけのカリンに、それぞれの従者が仲裁を願い出るまで二人は揉めていた。
「カリンさんとの時間が随分と盗られてしまいましたわ。」
今こうして文句を言っている令嬢とて、近くで馬車から降りたばかりの竜司に同じことを言われているなどとは思ってもいない。ぷりぷりと実年齢よりも少しだけ幼い様子でご立腹な令嬢に、カリンはクスクスと笑って宥めるように肩にそっと手を置いた。
「良いじゃない。半分は一緒にいられたんだからさ。二人とも私の意見なんか聞きもしないし。」
結局、カリンは休憩の度に馬車を乗り換える事になったのである。最初から三人で乗るという選択肢は無い。
如何に友好国への道を歩み始めたとはいえ、警備の問題と諸々の危険性から令嬢と皇子が馬車を共にする事は叶わなかったのである。その辺りは二人とも分かっていたため、道中の暇な時間をカリンと共に過ごそうと考えていた。両者の言い分を纏めたのが、半々、という訳だ。
因みに、カリンは従者たちから頼られて意見を出している。カリンは護衛と共に歩く、と。
しかし平行線だった二人が急に意見を合わせ、それは駄目だと主張した。結果がこれである。
「カリンさんの意見を通したらそれはそれで問題ですわ。公爵家のわたくしと皇子である竜司殿下が学友を歩かせたなどと不名誉な噂が広がっては困りますもの。」
令嬢はツンと顔を背けて言うが、その言葉が本心ではない事くらいカリンにも理解出来た。護衛対象に近付く存在として注視していたのだから当然だ。
これがいつかカリンが目指したツンデレというものか、などと考えが横に逸れる辺り、カリンの頭の残念さも見えているが。
顔を背けてはいるものの、カリンが今どんな表情をしているか想像できたのだろうか。令嬢がキッとカリンを見ると、ニヤニヤしていたカリンは慌てて平静を装う。もし見られたらまたあーだこーだと言われるに違いない。
幸運にもその顔は見られなかったのか、訝しげにカリンを見るだけに留められた。その事に内心ホッとしながらも、また疑われるのも癪だとばかりに話題を逸らす事に決めたカリン。周囲を見渡せば、会話によって狭まっていた意識が辺りに広がった。
「わぁ。綺麗!なんだか活気があって楽しげだねぇ。」
皇子のご学友一行は、既に皇子が治める港町に入っている。今は海沿いに建つ城の目の前におり、しかしカリンは城ではなくそこから見える城下町に注目していた。
「そうですわね。わたくしも初めて来ましたから、是非この機会に色々と見てまわりたいものですわ。東の国といえば着物。一着誂えてもいいかもしれませんわね。」
スピア公爵令嬢がカリンの話題転換に付き合い周囲を見渡す。城の入り口までは門を通って少しの登り坂だったが、真っ直ぐではなかった。カクカクと折れ曲がるように登ったその坂は周囲を穴の空いた壁に囲まれており、進むか戻るかしか出来なくなっていた。
矢襖などと呼ばれる穴は、中から矢だけを発射する事が出来る防衛機能だ。門を破壊して城へ雪崩れ込んでも、そこで多くの兵士が矢に倒れる事になる。
その意図は分かるが、別に門から入らなくても制圧くらい出来るのになぁ、などと考えるカリンが異端である事を本人は知らない。
令嬢が呟いた着物というのも、近年東の国から少しずつ入り始めた東の国文化の一つだ。貴族令嬢が着るドレスのように足から履いて肩まで通し、背中を靴紐のように縛る事で締めるドレスとは違う。一枚布なのは同じだが、羽織るようにして帯を締めるそれは、東の国の職人が丹精込めて作り上げる逸品ばかり。柄も細かい物が多く、その芸術性も相まって一部の金持ちに人気が出ているのである。
折角東の国まで来たのだから、着物を誂えるのは悪くない選択だろう。他にも様々な文化を事前に勉強して来た令嬢こそ、今回の夏季休暇を一番楽しみにしていたに違いない。
「あ、竜司くん。後で城下町歩いて来ていい?」
そんな二人に近づいて来ていた竜司に、先に声をかけたのはカリンだった。旅の疲れは無いかと尋ねようとした竜司は出鼻を挫かれた気がしたが、いつも自由で楽しげなカリンを見ればその気持ちも吹き飛んだ。
「あぁ、勿論だよ。是非この町を楽しんで行ってほしい。でも今はまず、部屋の案内などもしたいからね。観光は明日以降にしたらどうかな。」
竜司が学校でのやり取りと同じように優しく微笑んで言う。その姿が見慣れないものだったのか、竜司の周りにいた東の国の者達は大いに驚いた様子だった。
それもそのはず。若くして城主となった彼には自分より上の者がおらず、東の国の大陸側領土を治める大大名でもある故に周囲は丁寧に接してきた。
若いからと舐められぬよう、竜司も部下へは威厳を示しつつも丁寧に接してきたつもりだ。つまり、上の者としての立場で命令する事に慣れており、そんな姿しか見てこなかった周囲が優しく平等に接する竜司の姿を見て驚いただけの話である。
そんな理由など想像はつくが大して興味のないカリンは、良くも悪くもいつもと態度が変わらない。学院生は身分問わずという規則も、ここは学院ではないのだから本来の関係に戻るはずだとしても。
だが、それこそ竜司や令嬢にとっては心地の良いものだった。学友という立場があるからこその、期間限定の平等な関係。それに甘えているつもりはないが、二人はカリンを大事にしようと同じことを考えていた。
「そっか。じゃあそうする!ほら、観光は明日だって!今日のうちに着物のお店の場所聞いとこうよ!」
カリンは令嬢にも声をかけてから城の入り口へと歩き出す。それを穏やかな視線で追った令嬢の頬は、少しだけ上がっていた。
「あ、待って、ちょっと、案内をつけるから!」
竜司すらも置いていったカリンに、慌てて竜司が声を投げかける。その様子はあまりにも見た事がない竜司の素で、反応が遅れた従者達が一呼吸遅れて動き出す。一人の従僕が走ってカリンに追いつけば、ごめんごめん、と謝りながら頬を掻くカリン。それを見た竜司と令嬢は思わず二人で目を合わせて笑った。
「お待ちなさい。わたくしも行きますわ。」
しかしすぐに視線を逸らしてカリンを追う令嬢に、竜司は困ったような楽しいような複雑な笑みを浮かべるのだった。
翌日、カリンと令嬢は城下町を歩いていた。周囲には公爵家の私兵が数人と、令嬢付きの侍女がいる。どう見ても他国の要人であるとすぐに分かるその集団は、町人から少しだけ遠巻きに、しかし興味津々に見られていた。
「あ、あの串焼き美味しそう!ちょっと買ってくるね!」
「あ、カリンさん!?お待ちなさい!」
だがここでも自由なカリンに振り回される令嬢の姿があった。学院には使用人を連れて入れないため、学院内部での事は家の者も知らない。
グラナルドの最高位貴族である公爵家として厳しくされて育った彼女は、家にいる時も人目があるときはいつだって完璧な令嬢として過ごしている。
しかし今はどうだ。平民の女子生徒の行動に慌て、振り回されるばかりではないか。だがその様子は普段の様子からは見てとれない程に楽しそうで、お嬢様が楽しそうで何よりです、などと周囲が考えを一致させている事など知る由もない。
「はい、これ。食べるでしょ?」
姿を消したかと思えばすぐに戻ってきて、侍女の分まで買ってくるカリン。この突拍子のない行動に、私兵や侍女ですら既に慣れてきている。
最初は団子屋を見つけて私兵を含めた全員分を買ってきたカリン。だが私兵たちは勤務中であるとして受け取らなかったのだ。侍女も同じように断ったが、じゃあこれは全て令嬢が食べるのか、と聞き返したカリンによって侍女も受け取る羽目になっている。
因みに令嬢は最初から諦めて受け取っているし、何なら歩きながら食べている。それこそ侍女からはしたないと注意されていたが、そこは令嬢が見事に論破したのである。
「しかしこうして見ると、東の国の食事は様々に工夫がされていて美味しいですわね。この品質の物が庶民でも味わえるというのなら、それは正しく竜司殿下の治世が素晴らしい事の表れなのでしょう。」
そして令嬢は竜司の政治的手腕に感心していた。学院ではあまり自己主張をせず、東の国を軽んじている貴族の子どもたちですら軽く流している。それも波風立てずにだ。
事なかれ主義なのかと思えばそんな事はなく、こうして賑わっている城下町を見ればその手腕は疑うべくもない。
これならば留学の名目で領地を離れても大丈夫であろう。そこに関しては優秀な部下がいる証左だ。
「なに難しい事言ってるの?折角だから楽しまないと。私はともかく、公爵家のご令嬢がまた来れるかは分からないよ?」
カリンは少し呆れたような顔で令嬢を見て言った。何時如何なる時も学ぶ姿勢は大事だが、楽しむという気持ちを忘れるな。そんな意味を込めた言葉だったが、それは正確に彼女へと伝わったらしい。
少しだけ呆気にとられたようにカリンを見た後、それもそうですわね、と苦笑した。
「さて、もう少しで目的地ですわ。カリンさん、今度は何処へも行かないでくださいまし。」
「えぇ?約束は出来ないかも…」
「何処へも、行かないで、くださいまし。」
「あ、うん…。はぁい。」
「よろしい。」
圧が強いのは公爵家で育った強みだろうか。振り回されているように見えてもきちんと己を持っている彼女に、カリンは楽しそうに笑ってみせた。
目的地とは勿論、着物屋のことである。カリンが寄り道ばかりするため、予定の時刻より少し遅れている。これ以上振り回したら本当に怒られるかな、と思いながらもやめられないカリン。だって楽しいから。
リクみたいな事をするなと師父から怒られるだろうか。いや、師父もアイルも優しいから怒らないはず。
そんな事が浮かんでは消えてを繰り返す内に、何時の間にか目的地はすぐそこまで来ていた。




