260話
人を無視してはいけない。それはそうだ。ヒトとは社会を築く生き物であり、円満な関係性を構築する上で守らねばならぬ最低限の礼儀であろう。
当たり前の事を説く伯爵令嬢は、自分の言い分が絶対的正義だと疑っていない様子だった。可愛らしく少し幼さの残る顔で頬を僅かに膨らせており、如何にも怒っていますよ、と全身でアピールしている。手首を腰に当てて自分よりも大きな竜司相手に胸を張るその姿を、彼女を取り巻く男四人は惚けたように顔を赤くして見ていた。
「あぁ。これは失礼。ではまたどこかで。」
無視してはいけない。そう言われたから声だけ出しました、と言わんばかりのおざなりな返事をした竜司は、スピア公爵令嬢の案内に従って移動を始める。カリンはそれに黙って着いていくだけだ。
だが、それで黙っているなら伯爵令嬢は最初から人を無視するなとは言わない。自分の事が目に入っていないかのように動く竜司に"あれっ"となっていたが、すぐに気を取り直して離れ行く竜司の裾を掴もうと手を伸ばした。
パシンッ
やけに軽快な音が鳴り響く。それは痛みを伴わないが音だけはやけに大きく、それが己の手を叩かれた音だと気付くまで、伯爵令嬢は呆気にとられたように呆然としていた。
「きゃっ!」
そして遅れて気付いて叫び声をあげるも、あまりに遅すぎて当事者達を遠くから見る野次馬ですらそれはないだろと若干引いた。
「なんだ貴様!暴力を振るうとは!」
伯爵令嬢を叩かれたと気付いた取り巻きの反応は、叩かれた彼女よりも遅い。だが痛みで悲鳴をあげたと思った彼らは、その原因を取り除くべく動き出す。
目標は加害者である竜司の後ろに立つ女子生徒。つまりカリンである。
カリンとしては、竜司の護衛中なのだ。当然、彼に万が一でも危険が及ぶのであればそれを排除する事になんの抵抗も無い。意識の外から裾を引っ張られ、それが原因で転んだりしたら護衛としては不合格だろう。
折角ヴェルムから任されたのだ。完璧に護衛をしてみせると毎日意気込んで登校している。今回も彼女なりに完璧な護衛だった。何せ、痛くもしてないし払われた事に気付けるように音だけは大きくした。何なら赤くなってもいないはずだし痺れてもいないはずだ。
だが、寧ろその大きな音から相当な痛みを伴っているのではと勘違いした取り巻きが騒いでいる。そこまでは知らん、とばかりにフンと鼻を鳴らしたカリンは、驚いてこちらを見ている竜司に笑みを向けて言った。
「さ、行こうか。」
ここでの話は終わった、そう言わんばかりのカリンの様子に、少しだけ呆れた様子を見せた竜司。だがすぐに頷いてから、同じく呆れた様子のスピア公爵令嬢と共に歩き出した。
三人が歩き出したことで、野次馬たちもこれで終わりかと話の終わりを悟る。そのほとんどは女子生徒だったが、学院でも人気のある四人の男を侍らせている伯爵令嬢を妬む者ばかりだ。そしてその妬む相手が大きな音をたてて叩かれたのだから、その気分は最高潮だ。それでも一部の者は、手じゃなくて頬なら良かったのに、などと考えている辺り、その妬みは根深いのだろう。
このまま誰もが事態の終わりを悟っていたはずだった。未だ叩かれた衝撃から立ち直れない伯爵令嬢が動けないお陰で、その側を離れられない取り巻きとは距離が開いていく。
だが、これ以上離れれば会話は難しくなるといった距離に差し掛かった時にその声は届いた。
「やはり皇子といっても蛮族の国の皇族か。平民を使って我が国の貴族令嬢を傷付け、平気な顔をして立ち去れるのだからなぁっ!素晴らしい事だ!東の国で皇族は何をやっても赦されるらしい!」
この世の悪意をここに詰め込んだとばかりに醜悪な顔で口汚く罵ったのは、侯爵家子息だった。彼は己が大事にしている女子を傷つけられた挙句に先ほどやり込められた事もあって、それはもう竜司を憎んでいる。
カリンにやられたとか関係ない。だって平民だから。
そんな意識が彼にはある。貴族として当たり前の感覚だと思っている彼は、実はグラナルドでそのような考え方をするのは比較的少数派だという事を知らない。
東の国を蛮族と呼ぶのは極限られた一部である。だがグラナルド王国自体が中央の国と呼ばれるまでに侵略を繰り返してきたのだから、滅ぼされた国からすればグラナルドも十分に蛮族である。
その事が分かっているからこそ、ほとんどの貴族は東の国の事をとやかく言わない。更に言えば、今年から友好関係を結んだばかりである。そんな相手に蛮族などと口が裂けても言わないものだろう。
「蛮族…?アンタ、東の国の事大して知りもせずにそんな事言ってるの…?」
言葉を返したのはカリンだった。竜司は怒りに震わせた拳を握って今にも反論しそうだったが、カリンが先に声を上げた事でその矛先を見失う。しかしそんな竜司に、緩く首を振って抑えろと訴えるスピア公爵令嬢が目に入れば、クッと悔しそうな声を小さくあげてから握り込んだ拳を開くのだった。今はカリンに任せる。そういう意味を込めてカリンを見れば、彼女は真っ直ぐ侯爵家子息を射抜くように見つめている。
だが竜司の視線には気付いているのだろう。カリンは己の背中に手を回し、親指をグッと立てた。
「なっ…。平民が偉そうに!彼女がここの貴族に則って、普段やりたい放題の皇族に向かって懸命に注意したのだぞ?それを己の権力で侍らせた子どもに払わせたのは奴だろう!」
彼は既に己の論理が破綻しまくっている事に気が付いていない。カリンは考えるよりも先に手が出るタイプだが、何よりもドラグ騎士団の悪評となる事を自分がしでかす訳にはいかないと常々思っている。そのため殴りたくてしょうがない衝動を今も懸命に堪えて頭を働かせていた。
そして思い出す。いつだって頭を使う時はアイルならどう考えるか、ヴェルムならどう考えるかを想像するではないか、と。
冷静になればカリンとて育て方を間違えた大きな子どもをやり込めるなど片手間で出来る。それを実行するだけだ。
「あのさぁ。規則っていうけどアレでしょ?学院では身分問わず、ってやつ。なら、アンタが今私に言った、平民が偉そうにってやつも規則違反だって気づいてる?それに、私は竜司くんとはお友達だから一緒にいるのであって、それはそこのスピアさんも一緒。それにさ、身分問わずってだけで、無礼講って訳じゃないの分かってる?皇子に向かって説教はまだ良いよ。無視した竜司くんも悪いし。けど、その裾を引っ張ってまで止めるのはさ、度が過ぎてるんじゃない?…アンタ殺されたいの?」
言葉の最後は子息ではなく令嬢に向かっていた。最後の方はほとんど殺気すら込められているような気がするほど、周囲の温度がグッと下がった気さえした。
「…いいの。私が悪いの。怪我はないか確認しようとしたのに無視されたからって注意して、それでもまだ怪我の確認が終わってないからって手を伸ばした私が悪いの。だから、ね?私のために喧嘩しないで…?」
竜司とカリン、そしてスピア公爵令嬢だけではない。それを聞いていた野次馬たちですら鳥肌が立った。
そうでないのは彼女の取り巻き四人のみ。
突然聞こえたその声は、伯爵令嬢が上げたもの。
誰がお前のために喧嘩してるだコラ、と思ったが口に出さなかったカリンは褒められて然るべきだろう。だがその声が聞こえたおかげでカリンから発されている殺気にも似た恐ろしい雰囲気は霧散した。
呆れて散ったようにも感じられるそれは、まさしくその通りである。
「なにあの茶番。まぁいっか。行こうよ。」
カリンは小さく呟いて踵を返すと、未だ引いた目で令嬢を見る竜司の肩を叩く。やっと我に返った竜司が歩き出すと、スピア公爵令嬢もそれに着いてくる。彼女は何故か、満足そうにカリンを見て微笑んでいた。
「なに?気持ち悪い笑い方してるよ。」
カリンがそれを指摘すれば、微笑みは一転して怒りの表情に変わる。
「誰が気持ち悪い笑い方ですって!?折角貴女の事を認めて差し上げたのに、これでは台無しですわ!」
今の流れで何を認めたというのか。やり込めるというほどやり込めてないはずだ。きっとアイルなら、今頃相手の精神は崩壊寸前までいっている。もっと上手く出来たはずだ。
ならば何を認められたのだろう。そんな事を思って彼女を見れば、その整った顔を少しだけ困らせてこちらを見る令嬢の姿があった。
「貴女、私の家門をやっと覚えましたのね?それなら名で呼ばせて差し上げても…」
「ん?スペア公爵令嬢?」
「…だから!誰が!予備ですか!」
クスクス笑うカリンと関係ありませんと真顔で歩く竜司。声を荒げてから、はしたないと気付いて咳払いする令嬢。三人は結構仲良しになっていた。




