249話
ある日。冬の名残が微塵も見えなくなり、春真っ只中も過ぎた晩春とも初夏とも言えぬ日。暦の上では春だとはいえ、暖かいという程は暖かくない日が続いていた。
朝晩はある程度冷え込み、昼間は汗をかくほどではないが暑くなる。そんな季節。
「ふんふんふふ〜ん」
アルカンタの中央通り、通称大通りを楽しげに歩く少女がいた。
「おや、リク様じゃないか。いい天気ですねぇ。」
「八百屋のおばちゃんだ!うん、今日もいい天気だからお散歩してるのっ!」
語尾に音符でも付きそうな様子で鼻歌など歌いながら歩いていた三番隊隊長のリク。彼女が即興で生み出した音楽は数小節も奏でられる事なく挨拶によって止められたが、それに気分を害す事なくいつもの屈託のない笑顔を向けて挨拶を返した。
首都アルカンタではリクの顔を知らない者は多くない。それはこのようにして頻繁に彼女が街歩きをしているからという理由もあるが、それに加えて目を惹く程の美貌も理由の一つになっているだろう。更に、人懐こい明るい性格と、護国騎士団として頼られ敬われるドラグ騎士団の隊長の一人であるという事。
それら全てが彼女を表す事実であり、騎士でありながら街のアイドルのような扱いを受けるのは彼女の人柄からか。
「そうだ、スターク様とまたいらしてくださいな。主人が幾つか新種の苗を手に入れてましたからね。」
今彼女に話しかけている八百屋のおばさんも、リクを日頃から目にする一人。以前、五番隊隊長のスタークと共に菜園で採れた野菜を売りに行った際に顔を合わせたのが最初だ。
リクがその現場にいたのは偶然だが、おばさんは街歩きをするリクを何度も見かけていた。街のアイドルが自分たち夫婦の店に来たのだから、普段の何割も増した営業用の笑顔で出迎えた事は当然だろう。
「ほんとっ!?じゃあスタークに伝えておくね!ありがとー!」
薄緑の癖っ毛を高い位置で纏めたリクが、笑顔を振り撒きながら元気に礼を言う。風と彼女の動きで揺れる尻尾のようなそれが不規則な動きをするのを、店の間の影で休む猫がジッと目で追っていた。
それからもリクの街歩きは続く。スープを出す露店の店主から話しかけられ、元気に挨拶を返すリク。他にも花屋、カフェ、宝飾店など、実に様々な店の者たちがリクに声をかけた。
当然、声をかけるのは商人だけではない。偶々大通りを歩いていた一般市民や、貴族の遣いに出てきていた丁稚。職人や主婦など、職種は関係ないとばかりにリクへと気軽な挨拶をしていた。
そのどれにも元気よく返事を返すリクは常に笑顔で、身長は低いというのに人通りの多い大通りですぐに見つかり囲まれた。
彼女の容姿が大変な美少女である事は、アルカンタでは有名な話である。何といっても、派手な容姿ではないが常に浮かべられた笑顔と、高いながらも耳に痛くない音程の声。人を惹きつけるカリスマとでも言えばいいのか、彼女が街を歩くとこうしてすぐに囲まれるのだった。
そして何よりも、彼女の人気を決定付ける理由。それは暴力沙汰とは無縁そうな害のない見た目からは予想できない、騎士として隊長としての姿を拝む瞬間である。
「ひったくりよ!その男を捕まえて!」
ドラグ騎士団が守護するアルカンタで窃盗が起こるなど滅多に無いが、完全に無くなる訳ではない。それは他所から来た者であったり、巡回する準騎士を舐めていた者であったりと様々な悪人が存在するからだ。
だが、今日それを行った若い男は運がない。準騎士に捕まればそのまま衛兵に突き出されるだけで済むが、この場にはリクがいる。
老婆が叫ぶ声が聞こえ、通りを行く国民がそちらに視線を向けた時。既に件の若い男は地に伏していた。
「いてぇ!なんだってんだ!」
身なりの良さそうな老婆から、その手に持たれたポシェットを掴み走り出すまでは良かった。だが、老婆が叫んでそれを嘲笑うように視線を向けた後、既に走り出していたはずの彼は突如、得体の知れない力によって地に叩き伏せられた。
一体何があったのか。突然の出来事に彼は記憶を辿るも、視界が急に下を向いた事以外は覚えていない。誰かにぶつかった訳でも押さえつけられた訳でもなかった。
混乱する頭を懸命に振り、まずは再度走り出すために身体を起こす。しかしそれは叶わなかった。
「ダメだよ。他人の物盗んじゃ。」
何かに身体を押さえつけられる感覚があったかと思えば、石畳の地面しか見えない視界にブーツが映り込み上から声が降ってくる。
何事かと顔を上げれば、そこには少女が立っており腰に手を当てて如何にもご立腹ですと言わんばかりの表情をしていた。
「なっ!ガキが偉そうな事言ってんじゃねぇ!」
どう見ても十代半ばの子どもにしか見えない相手に怒鳴る若い男。至極尤もな正論をぶつけられた事に対する怒りなのか、顔を真っ赤にしながら唾を飛ばし威嚇している。
だが身体が起こせないために何の威厳も無く、這いつくばったまま虚勢を張る姿は小型犬が威嚇しているのと大差なかった。
彼が身体を起こせないのは、単に目の前の少女リクが魔法を使っているからである。風属性魔法と地属性魔法の混合魔法である、重力魔法。極一部の限られた者しか使用できぬその魔法は、グラナルド王国に仕える宮廷魔法師でも使える者は少ない。それを無詠唱かつ話しながら使用できるというのは、リクの魔法適正能力の高さを証明していた。
「キャンキャン吠えてもダメ。おばあちゃんにごめんなさいして、その後衛兵さんにもごめんなさいしてね。」
彼からはリクの姿が日光によって黒く見えていた。リクの背に太陽があるせいで、その姿はハッキリと見えていなかったのである。だが太陽が雲に隠れ、強い光が空から降り注がなくなった今、彼にもそのシルエットがハッキリと見えてきた。
「な…、ドラグ…騎士団…!」
若い男はそう言ったきり一切の抵抗を辞めた。リクは三番隊を示す緑の差し色が入った隊服を着ており、隊長を示す腕章も着けている。かれがそこまで目にしたかは分からないが、ドラグ騎士団の制服はアルカンタに住む者なら誰でも知っている。
準騎士が着る団服と、五隊が着る隊服。そのどちらもが民の憧れであり、信頼の証なのだ。
昔、団服に似たデザインがアルカンタで流行した事がある。だがそれを着た犯罪者が起こした事件があり、それ以来似ている服ですら使用されなくなったのだ。
今では黒い隊服に近いデザインの物は出回らず、それによって尚更騎士団への憧憬が膨れ上がっている。
「隊長。遅れてすみません。」
そこにリクの部下が声をかけてきた。隊員はその場にいなかったのではなく、リクが窃盗犯を魔法で捕まえた時点で衛兵を呼びに行っていたのだ。
それを知っているリクは隊員を責めるなどせず、ニッコリ笑って首を振った。一瞬の鮮やかな逮捕劇に、周囲の民は喝采を贈り件の老婆はポシェットが返ってきた事に涙を流して喜んでいる。
人混みを掻き分けるようにして駆けつけた衛兵に、周囲の民は自ら状況を説明する者まで現れた。これはリクの手間を少しでも減らすためだが、そんな気遣いが嬉しいのかリクも笑っていた。
「ちゃんと働いて、そのお金で食べるご飯は美味しいよ。君も、知ってるでしょう?」
足元に転がる窃盗犯にポツリと呟いたリクの声は、野次馬と化した民達には届かなかった。抵抗の一切を辞めた彼はその言葉に一粒の涙を溢したが、それは後悔からくる物だろうか。
少なくとも、二度と同じ真似はしないだろう。そう考えたリクは酷く満足そうに笑みを深めるのだった。
夕方。リクの街歩きはまだまだ続いていた。
夕方と言えどこの季節は日没がまだ早いため、時間としてはそこまでではない。昼間よりは太陽の光が濃くなり、然りとて夕暮れとまではいかない時間帯。
そんな時間にリクはとある喫茶店に来ていた。
「おやリクさまじゃないかい。いつもので良いのかい?」
喫茶店の店員は恰幅の良い中年の女性だった。エプロンをしていても出ていると分かる腹は、特別妊娠しているなどの理由は無い。単純に脂肪の塊だ。
頬も少し弛むくらいには肉があり、笑顔を浮かべる事でクイッと上がるその頬肉は話す度に揺れる。
「うん!あとオススメはある?」
カランカランというドアベルに反応した店員が、すぐにリクだと把握してかけた声に、リクも笑顔でいつも通りの言葉を返す。いつもの、という言葉が出る辺り、そこそこの頻度で通っているのだろう。
オススメを聞いた理由は特に無い。リク自身、好きな食べ物飲み物はあるがそれだけで完結する訳では無い事を知っている。そこに新たに加わる物があるかもしれないと考えれば、オススメを聞いて試してみたいというのも悪くなかった。
「今が旬のメロンが入ってるけど、リクさまはメロン大丈夫かい?」
春はイチゴやメロン、グレープフルーツにキウイなど様々な果物が旬を迎える。イチゴやメロンを果物と言うべきかは意見が分かれる所だが、リクとしては果物屋に売っているのだから果物だ、という認識である。
この意見を聞いたスタークが、果樹に出来るのが果物であり木にならないものは野菜だと言った事があるが、野菜はデザートにならない、と一言でぶった斬られていた。
リクにとっては美味しければ何でも良いのであり、それ自体の分類に何の価値も見出していない。ちなみにその後、スタークは細かいから嫌い、という容赦の欠片も無い一言で彼を撃退している。
「メロン?うん!食べる!」
どうやらメロンはリクの好みであるらしい。いつも座る席まで案内などいらんとばかりに進みながら、店員に笑顔で振り返って注文を決めた。
「よっしゃ、美味しいメロンを出してやるからね。待ってておくれ。」
そう言って注文を伝えに厨房へ入って行く店員を見る事なく、リクはお決まりの席へと座る。そこは窓側の席で、大通りに面したこの店の、中から通りを眺められるリクのお気に入りの席だ。
ここでゆっくりと大好きなココアを飲みながら、大通りを歩く民を眺めるのである。この店に来るのは街歩きの最後で、大抵はリクがゆっくりした後に隊員が迎えに来る。今日も隊員と帰るつもりなのか、窓の外を眺めながらニコニコと景色を楽しんでいた。
「隊長。お迎えに上がりました。」
隊員が来たのは、リクがメロンとココアを存分に堪能してから十分ほどしてからだった。これは偶然などではなく、隊員が店の外で待っていたからである。
リクが帰ろうかと考えたタイミングで店に入ってきた隊員は、外でその瞬間を探していたという訳だ。
街歩きの度に最後は喫茶店に入るリクだが、この店に入る時はいつも一人で過ごす。他の店に行く事もあるが、その時は隊員も同席させるのだ。
しかし、この店でリクは隊員を同席させない。その理由を隊員は知らないが、何か自分達には理解できない重大な理由があるのだと勝手に思っている。
リクが出歩く際は必ず、見守り隊とばかりに三番隊で非番の隊員が側につく。そのためリクが食べた物の支払いや先ほどの事件での遣いのように走り回るのが彼らの役目だ。
特に頼んだ訳でもないのだが、自然とリクが動く時はそういうローテーションが組まれるようになっており、楽にこした事はないリクもそれを甘受している。
今日は一人でのんびりしたい気分だったのか、この店に入る事を確認した隊員は外で待っていた。とは言っても、見守り隊は一人ではないため交代で用事を済ませたり近くの店で茶を飲んだりと思い思いに過ごしている。
実のところ、必要ないと言えば絶望したような表情を浮かべる隊員たちに困ったリクが考えた最終手段なのだが、それに気付いていないのは隊員だけである。
正直に、この店にいるから好きにしてていいよ、などと言えば断られる上に、隊員が隊長に気遣わせるなど、と他の隊員から怒られるためにそんな事は言えない。
ならば態度で、この店にいるから入ってくるなよ、とすればその間は自由時間になるのだから良いだろうとリクがアズに相談して決めた結果である。
結果的にこの方法は有効で、大体一時間程度この店で過ごすようになってから、その間に隊員は買い物などを済ませるようになった。
北方の商業国の姫として生まれたリクは、臣下を労う方法を地位や名誉、金銭でしか知らなかった。そこで平民出身のアズに相談したのだが、どうやら正解だったようだ。
貴族出身のサイサリスなどでは、好きでしているのだから放っておけば良いと返ってくるのは分かっていたし、同じく魔法の大家出身であるガイアに聞いても同じだっただろう。
リクと同じ諜報部隊の隊長であるスタークはきっと、潜む訓練になるのだから良いのでは、と言いそうだ。
この様な些事でヴェルムの手を煩わせるのも申し訳が立たないため、相談した相手がアズだったのは必然だったのかもしれない。
「じゃあ帰ろっか。」
リクが満足そうに笑うだけで喜ぶ目の前の隊員は、そんなリクの心を知らない。だが何となく、この自由時間は与えられた物なのだろうという予感はあった。
気付かれないようにリクが動いたなら、気付かぬ振りをするのもまた隊員の役目である。こうして互いに気遣い合う三番隊は、ある意味五隊で一番結束が強いと言っても過言ではなかった。
「あ、そうだ。最後にお菓子屋さんに寄っていい?後で隊の皆んなで食べようよ。」
会計を隊員が済ませ、またおいで!と元気な店員の声に見送られてから歩くリクが言う。隣を歩く隊員はそれを聞いて微笑み、良いですね、と一言返した。
帰りの道でも民に話しかけられるリクを見て、どうだうちの隊長は凄いだろう、と自慢げな隊員に苦笑しながらも愛想良く民に言葉を返すリクだったが、その表情は昼間よりも明るく楽しげだった。
「皆んな、私の大事な家族だもんね。」
仕事終わりの民が多く出歩く大通りに、ポツリとリクの呟きが混じる。隣を歩く隊員にすら届かないその声は、夕焼けの眩しさに手を翳すリクの口の中で溶けた。




