242話
深夜。賑わっていた通りも夜闇に閉ざされ、月明かりを頼りに歩く事も難しくなった時間。
西の国で力を持つ公爵家が治める公爵領、その領都では。目撃者のいない、とある事件が起こっていた。
否、目撃者がいないというのは語弊だっただろうか。大陸を見守るように淡く輝く、月のみがそれを見ていた。
「公爵家当主だな?数点聞きたい事がある。」
領都に建つ立派な邸には、この領地を治める公爵家が住んでいる。爵位の中で最も高い位を持つ公爵家の邸は、最早城と呼んでも差し支えない程の規模と堅牢さ、そして威容を含んでいた。
応じて、毎晩の警備の数は百を超える。しかしその警備が誰一人騒ぐ事なく、この邸の主人たる公爵家当主の寝室には、確かに侵入者が入り込んでいた。
「…んがっ、ん?…だ、誰だっ!」
殺気を浴びかけられてもナイフを首に突きつけても起きないほど熟睡していた当主を、侵入者は魔法によって顔を濡らす事で強制的に起こしたようだ。
それに驚いた当主は、何が起こったのか分かっていない様子ながらも侵入者に気付き、ハッと目を開いて誰何を問う。だが返ってきたのは、フン、と鼻で笑う嘲笑のみだった。
「け、警備は何をしておるっ!曲者だ!捕えろっ!」
当主は懸命に叫ぶが、扉の外にいるはずの警備には声が届かなかった。彼はすぐに思考を回転させ、そして枕元のベルの存在を思い出す。それは夜中であろうと使用人を呼び出すためのもので、隣室に待機している侍女に聞こえるよう、小さいながらも大きな音が出る、貴族家ではどの家も所持している物だった。
だが、そこで初めて彼は己の首に刃物が突きつけられている事を知る。未だ暗闇に目が慣れてはいないが、寝惚けている場合ではないと身体がそれを察知し、普段よりも随分速い鼓動が脳の働きを助けていた。
「な、何が目的だ…。儂の命か?誰に頼まれた。」
まずは己の命を守るための時間を稼ぐ必要がある。そう感じた当主は、扉の向こうから警備が駆けつける可能性に賭けた。百人以上の体制で警備を務める彼らなら、この異変に気付いて突入してくると考えたからだ。
そんな当主の思考は、侵入者からすれば手に取るように分かる事だった。しかしそれを教える訳もなく、当主にとって無駄な時間稼ぎが始まる。
「儂を殺して喜ぶのは…。いや、まさか息子かっ!?おのれ、育ててやった恩を忘れて親を殺そうとは!幾らで雇われた!倍、いや十倍の金を出す!代わりに息子を殺してこい!」
侵入者が何も答えない事に恐怖心が溢れたのか、当主は侵入者の事を依頼を受けてここまで来た暗殺者だと思っている。更にはその依頼者が自分の息子だと予想し、金で雇えるなら金を出す事で上書き出来ると考えた。
だが、侵入者の反応は酷く冷たいものだった。
「質問にだけ答えろ。お前、何故家督を譲らない?」
やっと返ってきた反応は、当主にとって疑問の答えと同然だった。家督を譲る約束でもすれば命は助かるのか。そう考えてもおかしくない。現に当主は、依頼者が実の息子である小公爵であると確信していた。
「そんなもの、息子がまだ未熟だからに決まっておるだろう!甘やかして育てたからか知らんが、領の事すらまともに任せられん。もう五年経っても仕事が出来ぬようなら、次期公爵の座を孫に譲る事まで考えておる。儂だって老体に鞭打って働いておるのだ。領民のためにな。それを安心して任せられる器にならねば、家督を譲る事など出来んではないか!」
酷く尤もな理由を並べて言う当主に、侵入者は一度頷いてからナイフを当主の首に突きつける。質問に答えたのに何故、といった様子の当主に、侵入者は更なる質問を投げかけた。
「孫の病気のために炎帝を雇って薬の素材を集めているというのは本当か。」
当主は先ほどの答えに対する意見が返ってくると考えていただけに、侵入者のその質問は予想の範囲外であった。
息子が当主を殺すのに、その質問は必要なのか。しかしそんな事を考える暇もなく、首に食い込むように押し当てられたナイフが首の薄皮を斬る感覚が脳に伝わり、当主は慌てて侵入者の質問に答え始めた。
「ほ、本当だ!成人まで育たんと言われた孫がおる!それを憐れに思っていたのだ。最近になって錬金術師から、素材さえあれば薬が作れると聞いたばかりだった!そんな時に炎帝が我が領内に来ていると知らせを受けたのだ。炎帝は帝の中でも最強との呼び声高い冒険者ではないか。ならば藁にも縋る思いで依頼するのはおかしい事ではないだろう!」
想定外の質問だったにも関わらず、当主の口は油を差した歯車のようによく回る。しかし重要な情報は大して含まれていなかった。
これが大貴族としての能力ならば流石の一言であったが、侵入者はそれが理由でない事を既に知っていた。
「ならば、大森林横の町に私兵団を送ったのも同じ理由か?」
孫を心配する祖父を演じて興が乗ってきた当主だったが、またも想定外の質問を投げられて思考を止める。しかし長年大貴族として歩んできた経験が、彼の思考をまた無理矢理働かせるのだった。
「な、何故あの小さな町について聞く?息子はそんな事まで聞いてこいと言ったのか?」
上手い言い訳が思いつかなかったのか、当主は侵入者に質問をしてしまった。その瞬間、得体の知れない恐怖感が当主を襲う。背筋が凍りつくような感覚と、死がそこまで迫っているという感覚。まるで大型魔物の前に一人で取り残されたかのような恐怖に、思わずヒュッと喉が鳴る。
「いつお前の質問を許したんだ…?そんなに早く死にたいのか?」
当主はその寒気の正体が殺気だという事を知らなかった。未だに自身に襲いかかるその感覚は、ベッドに背をつけているにも関わらず、酷く背中が寒い気がした。身体中の血はこうして移動しているのだ、と強く感じられるほど身体が冷えていく感覚が彼を襲い、開きたくとも口を開けない状態へと変えていた。
それに気付いた侵入者が、チッ、と舌打ちを鳴らす。同時に当主を襲っていた恐怖感は、何事もなかったように周囲から消え失せた。
はぁはぁ、と荒い息を吐く当主に、侵入者はため息を零す。だが、しばらくは息を整えるフリで時間を稼げると考えた当主の思考を読んだかのように、ナイフの冷たい感触が首に伝わってくるのだった。
「さっさと答えろ。私兵団に加えて錬金術師や魔道具師まで連れて行った理由を。」
侵入者の冷淡な声に、当主は先ほどの殺気を思い出して身を縮こまらせる。だが答えねばという恐怖心と生きるためにもがく生存本能とが、彼の口を震えながらも開けさせた。
「あ、あれも…ま、孫。孫のためにやったのだ!領内に魔素の濃い泉があるという。それが薬の材料となると錬金術師から聞いて!」
彼は内心、これだけ必死なら侵入者も信じると、そう考えていた。瞬きの間が過ぎた後に、その回答をした己を悔やむとも知らずに。
それは一瞬だった。ゴキッと音がしたかと思えば、首に添えられたナイフはそのままに、侵入者のナイフを持たぬ手が動いたのが見えた気がした。
次いで当主を襲う激痛。左腕から伝わるその痛みに驚き身を跳ねさせれば、首に添えられたナイフに己の首が食い込んだ事を痛みによって知る。腕の状態を確認しようと持ち上げてみるも、腕と首から伝わる痛みにそれは叶わなかった。
「お前は息を吐くように嘘を並べるのか。俺が何も知らずに尋ねているとでも…?」
侵入者の声はどこまでも冷淡で、人の腕を折り首にナイフが刺さっても気にした様子はなかった。それどころか、もし腕の痛みで大きく当主が動いて首が斬れ、その結果死んでいたとしても何も思わなかったのではないかと考えられる程、侵入者の声には感情が乗っていなかった。
「グッ…。ま、待て。悪かった。だが本当だ。儂も錬金術師にそう聞いたに過ぎん。あの魔素水とも言える泉の水は、秘薬の材料になるのだと。」
今度は彼も本当の事を言った。だが、それは侵入者を満足させる答えではなかった。その証拠に、今度は左足から激痛がする。
「ぐあぁぁぁあ!!」
当主の悲痛な叫びも虚しく、彼の待つ警備はいつまで経っても部屋に突入して来ない。このままでは殺されると痛感した当主は、枕元にあるベルを必死に探すも見つからなかった。
「お前、学習能力がないのか。では問うてやる。あの小さな町からその泉までは距離がある。泉が目的なら他の町でも村でも良かったはずだ。だがお前は私兵団をあの町へ送った。それはあの町ではないといけない理由があるからだ。違うか?」
当主は、一歩ずつ己の足場が崩れていくような感覚に襲われていた。既に身体中の至る所から痛みが伝わっており、まともに思考を巡らせる余裕など無くなっている。
痛みに耐えながらも侵入者を睨み、瞳に溢れてくる涙が頬に伝わる感触を無視して気丈に振る舞ってみせた。
だがそれは虚栄でしかなく、今にも殺されそうな己を憐れんでみせても無意味だった。
「そういえば、こんな伝説がある。妖精族の錬金術師が、永遠の生命を得る研究をしていた、という話だ。あの小さな町にも、妖精族の錬金術師がいたな。」
侵入者の言葉を理解した当主は、ピクリと身体を震わせた。そこまで知っていて質問をしていたのかと怒りの感情が彼を支配するも、思考を巡らせ続けた頭が冷静に一つの可能性を導き出す。
「お前…、息子が雇った暗殺者ではないな…?誰の差し金だ…。」
腕と足の痛みよりも、首についた傷とそこに押し当てられたままのナイフによる自傷を防ぐため、声帯を締めて掠れた声を出す当主。その声は老いた見た目よりも更に歳老いた老人のようで、急速に彼の生命の灯が薄れゆくのを感じた。出血から薄れゆく意識の中、これが死ぬという事か、と考える当主に、侵入者は静かに答える。
「天竜がお怒りだ。つまらん事をしたな。」
天竜と聞き、当主は天竜教を思い浮かべた。だが彼とて西の国の大貴族。天竜教が既に形骸化したものである事は知っている。
これまで、天竜教の教えを背に民を脅かした事など数知れないが、遂に本物の天竜が罰を下す時が来たのか、とそんな事を考えるくらいには、彼は己の死を受け入れる覚悟が出来ていた。
痛みに耐えられなくなっていた事もあるが、正直なところ、暗殺者を差し向けたのが息子でなかった事に安堵したのが大きかった。悔やむべきは、息子に家督を譲らなかった事。息子の努力を認めてやれなかった事。
これまで避けてきたはずの息子の事を、死を目前にしてあれこれと考えてしまう己に、当主は嘲笑いたい気持ちで一杯だった。だが今はその体力すら残っていない。心の中で詫びる事だけが、彼に出来る最後の事だった。
「お前は雇う錬金術師と魔道具師を間違えたな。あの二人は結託し、泉の源に細工をした。それは地を伝い大森林に異変を齎した。森の民はそれにより被害を被っている。この領地の半分が森で覆われるのも、時間の問題だろう。」
当主は侵入者の言葉を驚きを持って聞いた。だがそれに反応する気力は既に無い。辛うじて搾り出した声は、当主ではなく一人の親としての慈愛に溢れていた。
「息子に…、後を、頼むと。伝えて…くれ…。」
この言葉が遺言になると考えているのか、当主の言葉は詰まりながらもハッキリしていた。そして口を閉じた直後、全身から力が抜けていく。
沈み行く意識の中、当主の耳に侵入者の声が聞こえた気がした。
「断る。俺は伝令ではない。どうしても伝えたいなら自分で伝えろ。」
その言葉の後、瞼の向こうから淡い光が見えた気がした。柔らかな魔力に包まれる感覚に、死とはこうまで安らかであったか、と感じる当主。
こうまで死が穏やかな物ならば、不老不死の秘薬など求める価値はなかったと考えた。それほどまでに、これまで感じたことの無い安らぎと平穏が彼を包み、天竜を怒らせた己も救われるのかと自問する。
それもすぐに分かるのだと思えば、死への恐怖は一つも湧いて来ないのだった。
翌日、公爵領では驚きの情報が飛び交った。当主の交代である。
小公爵は領民に姿を見せ、前当主である父から爵位を譲り受けたと発表。正式な叙爵は国王と教皇にしてもらうことになるが、今後領地の運営は前当主の息子である彼が引き継ぐ事を宣言した。
では公爵が死んだのかと噂する民だったが、後日先代が民の前に姿を現した事で霧散する。彼は生きていた。一晩で人が変わったかのように、国教である天竜教の教えとは別に天竜を崇め始めたのだ。
混乱するかに思えた公爵領だったが、良い噂も悪い噂もなかった新公爵は、高い税率を撤廃。更に商人の誘致や冒険者による魔の領域の開拓を推し進める方針を発表し、瞬く間に領民の心を取り戻した。
邸では、彼が父親に政務について相談する様子も見られるようになった。そしてそれに穏やかな笑顔で応える父親もまた、憑き物が取れたかのように晴れ渡った笑顔だったという。父親が変わった夜、何があったかは死ぬまで語らない。だが、その一晩で公爵領の運命が変わったと言っても過言ではなかった。




