238話
「何やってんだい!アンタのせいで明日の出立に間に合わなくなるところだったよ!」
「す、すみません…。」
公爵領の小さな町、町長の屋敷。ゆいな隊が作戦を始めると同時刻、公爵家お抱えの錬金術師の怒鳴り声と、それに謝る妖精族の女性の声がここ一ヶ月の日常となったやり取りを聞かせていた。
それが耳に入った使用人たちは、一瞬そちらに意識を向けるも、いつもの事だと気を持ち直した。
怒鳴られる妖精族の女性に対し、何も思わない訳ではない。だが、公爵家お抱えの錬金術師は気難しく、彼女がいない時はいつも、使用人が同じように怒鳴られていたのだ。
つまりは身代わりとなっている妖精族の女性に対し、罪悪感を覚えながらも己の身にそれが降りかからない事に安堵しているのである。
この町に来てすぐに連れてこられた妖精族の女性に、最初のうちは使用人にも優しくする者がいた。だが、その光景を私兵団の兵に見られ、難癖をつけられた。
「コイツに同情でもしてんのかぁ!?お前もコイツと同じ扱いを受けたくなきゃ、さっさと消えな!」
結果的に、その使用人はこの日から屋敷を去った。無理して働いたところで、いつ殺されるか分からないからである。
それがあってから、妖精族の女性は自身に優しくしようとする者すら避け、使用人たちも迂闊に彼女へ話しかけなくなった。
それから一ヶ月。彼女は明日、私兵団が出て行くと聞いて安堵していた。だが先日、公爵家お抱えの錬金術師から絶望の宣告を受け、それにどう対処すれば良いか分からずにいた。
「アンタは見込みがある。この仕事が終わったら、アタシがアンタを育ててやるよ。立派な錬金術師にしてやる。これは名誉な事なんだ。分かるね?アンタが今やるのは、アタシに向かって頭を下げて、よろしくお願いしますって言うことだよ!」
錬金術師は、小さな町から領都に戻っても妖精族の女性を側に置くと言ったのだ。私兵団がこの町にいる間だけ、と考えて耐えてきた彼女の心は、錬金術師の言葉によって崩壊寸前となっていた。
あと少しだから、と心で強く唱えたからこそ、薬品をかけられたり毎日怒鳴られたり、日によっては殴られる事も耐えてきた。だがそれが今後ずっと続くとなれば、耐えられる気がしない。
宣告された日から彼女は次第に顔を絶望に染めていった。そして今日、感情の宿らない瞳で錬金術師の前に立ち、いつも通り怒鳴られていた。
しかし今日は、いつもと違う事が一つだけあった。
「こんにちは。へぇ、ここが研究室?あまり良い道具は置いてないのね。」
一人の使用人がこの屋敷を去ってから、ほとんどの会話を錬金術師としかしてこなかった妖精族の女性。そんな彼女に、話しかける存在がいる事に数秒の間気付かなかったのも仕方ない事かもしれない。
「あら。私とはお話してくれないの?あなた、錬金術師なんでしょう?」
もう一度話しかけられてやっと、彼女は己に声をかけているのだと知る。感情の宿らない瞳でその声の主を見れば、いつの間にかこの部屋に入って来てこちらを優しい微笑みで見つめる女性が立っていた。
見慣れぬ制服に、膝下まで伸びる白衣。鼻の付け根には、メガネでもかけていたのか二つの跡が残っている。
こんな美人見たことない。妖精族の女性がそんな無関係な思考に囚われる程には、目の前に立つ女性は神秘的で美しかった。
「はじめまして。今日はあなたを誘いに来たの。」
「さ、誘い、に…?」
三度話しかけられてやっと己に声をかけられている事を頭が認識した妖精族の女性は、それだけ返すのがやっとといった風に小さな声をあげた。
「そう。あなたをね。あなた、祖母も錬金術師だったでしょう。」
白衣の女性が優しく言えば、何故それを知っているのかと考えているのが手にとって分かる程、驚きで顔を染めた妖精族の女性。彼女にとって祖母が錬金術師であった事は秘密であり、それを知っている者はこの町にいないはずだった。
「ど、どう、して…?」
何故秘密であるその事を知っているのか。そう聞きたかった彼女が口にできるのはそこまでだった。だがそれでも、白衣の女性はその質問の意図が分かっているように微笑み、頷いた。
「私は、あなたの祖母に会ったことがあるの。確か、娘には錬金術の才能が無いから、孫が産まれたら教えるんだ、って張り切ってたわ。あなたの祖母は私の友達なの。」
そう言って昔を懐かしむような表情を浮かべる白衣の女性を、何故か彼女は疑うことが出来なかった。
この町で一人暮らしを始めて数年。町人たちは彼女をいない者として扱い、一人で細々と錬金術によって生み出したポーションを冒険者ギルドの支部に売る事で日銭を稼いできた。
町の住人は皆、自分を避けた。理由など知った事ではなかったが、それでも祖母の遺言を信じて歩んできた事に変わりはない。
そんな中での私兵団への徴集。町には他に錬金術師がいたというのに、私兵団が最初に目をつけたのは彼女だった。
無理矢理連れてこられ、毎日罵声を浴びながら働く。段々と心が摩耗していく感覚はあったが、祖母の事を思い出せば頑張れた。
彼女の心の拠り所である祖母。その祖母と目の前の女性は友人であったと言う。
だがそれはあり得ない。何故なら、どう見ても人族の女性で、見た目も自分とそう変わらない歳である事からだ。
そう判断した彼女の行動は、祖母の遺産を狙ってあの手この手を使った町人にするのと同じ、冷たい態度に変わった。
「し、知りません…。名前も知らない、人から祖母、の話を、聞きたく、ありません。仕事の邪魔に、なるので。か、帰ってもらっても、良いですか。」
詰まりながらも毅然と言った彼女に、白衣の女性は変わらず微笑みを向けていた。だが彼女の言葉に一理あると考えたのか、白衣の胸ポケットに入っていた分厚い瓶底メガネを取り出して装着した。
「名乗りもせずにごめんなさいね。私は天竜に仕える者。名をキミアと言うの。よろしくね。」
キミアと名乗った所長。この所長こそ、大陸の錬金術を一般化し定義付け、学問として成立させた第一人者である。
そしてその名は、妖精族の女性にとっても覚えのある名だった。
「お婆ちゃん、死なないで…!」
「いいかい?アタシが死んでも錬金術はやめないでおくれ。それと…、キミアを名乗る分厚いメガネをかけた若い女が来たらこう言ってくれ。孫を頼む、って。あいつはデタラメなやつだが、アンタにとってもアタシにとっても、道標になってくれるからね…。ほら、調合の時間だ…。はやく、お行き。」
彼女と祖母が会話を交わしたのは、これが最後となった。この遺言とも取れる最後の会話を胸に、これまで錬金術を続けてきたのだ。
その時の会話を鮮明に思い出した彼女は、目の前の女性こそが祖母の言ったキミアなのだと唐突に理解した。
「あなたの祖母から聞いているみたいね。」
安心したように言う所長の微笑みは、彼女の警戒心と壊れそうな心を温め解すような不思議な力があった。
「あ、あの…。お婆ちゃんから、聞いてます。キミアさん、が書いた、本も貰い、ました。」
段々と瞳に感情が戻り始めた妖精族の女性。辿々しいながらも記憶を探り、仄かに嬉しそうに言う彼女は、それから思いついたように腰に提げた小さな巾着を外す。
そしてそれを開けば、明らかにサイズの合わない分厚い本を中から取り出す。その本の裏には、キミア、と手書きのサインがあった。
「あら、懐かしいわ。これは私があなたの祖母に贈ったの。あなたが受け取っていたのね。」
懐かしむような目で本を見る所長に、彼女は確信を持って理解した。目の前の女性こそ、この本の著者であり、祖母が話してくれた唯一の友人であった事を。
言葉が詰まらないように、所長を見ながら慎重に口を開いて息を吸う彼女。所長はそれを優しく見守った。
「お婆ちゃんが、遺言に…。キミアさん、の名前を、言っていました。お婆ちゃんの、友達、の、事は、何度か聞いた、事がありました、けど。お名前を聞いた、のは、初めてでした。」
言いたい事を確認しながら言うようにゆっくりと話す彼女に、所長は穏やかな目を向けながらも、一つ思いついたように宙を見る。そして彼女に視線を戻すと、突拍子もない事を提案した。
「あなたのその記憶、見せてもらってもいいかしら。私もあなたの祖母に会いたいわ。」
「記憶を、見る、ですか?」
何を言っているのか理解出来ないといった様子の妖精族の女性に、所長は頷きながらももう一度催促した。おずおずと頷く彼女を満足そうに見た所長は、人差し指を彼女の額に当てて小さく呟く。
すると、彼女の頭にも、祖母と交わした最後の場面が目の前で起こっているかのように鮮明に再現される。
これは闇属性魔法である、思い出の欠片、と呼ばれる魔法だ。精鋭の一人が生み出した魔法で、名付けも精鋭。
残念な事に使用難度が高い事と、被術者から術者に対する好意、つまり被術者の心からの同意が無いと成功しない事から、諜報部隊の任務での使用は難しいとされた。
しかしこういった場面では遺憾無くその力を発揮する、便利な魔法であるのは確かだ。
「お婆ちゃん…。」
二人で記憶を共有した事で、祖母が亡くなった日のことを思い出した妖精族の女性。思わず呟いた祖母を呼ぶ声に、所長は謝った後に感謝を述べた。
「ありがとう。私の友人は、穏やかに逝けたのね。遺言通り、私があなたに錬金術を教えたいと思うの。どう?私と私の仲間たちと、一緒に行かない?」
「仲間…?」
所長からの突然の誘いに困惑する妖精族の女性。だが、昔の記憶を見た事で、別の記憶も甦っていた。それは、祖母の遺言にあったキミアという女性を待つ日々。
祖母から譲り受けた錬金術の教本にあったキミアという名。祖母はそんな素晴らしい人物と友人であったのかと誇らしい気持ちになりながらも、それから商業ギルドへ出向く度にキミアが書いた本を探した。
キミアの本を読む度、新たな見識と技術、そして己との圧倒的な違いに向上心を焚き付けられてきた。彼女にとってキミアとは、己の道標だったのだ。
「そう、仲間。私とあなたがゆっくりお話出来るのも、あの煩い錬金術師を黙らせてくれている仲間がいるからよ。」
所長にそう言われて、初めてここが錬金術師の研究室であった事を思い出した妖精族の女性。言われるまで疑問すら抱かなかったが、周囲を見渡せば自分を怒鳴る錬金術師の姿は無い。そのでやっとその事に違和感を抱いた。
「そ、そういえば…。屋敷の人、と兵隊、さんの、声も聞こえない、です。」
「えぇ。もう皆んな確保されてると思うわ。改めて名乗るわね。私は、ドラグ騎士団本部、錬金術研究所所長。ここに来ている仲間は、ドラグ騎士団零番隊よ。」
ドラグ騎士団。その名は西の国に住む彼女もよく知っている。大陸中央の覇者、グラナルド王国。これの繁栄に何よりも起因したのがこの騎士団だという。大陸最強の騎士団という呼び声は高く、侵略戦争には出陣しないという一点のみが他国を安心させると。そして、ドラグ騎士団が侵略戦争に手を貸していれば、今頃大陸はグラナルド大陸と呼ばれていたであろう事を。
この程度は地方の町娘ですら知っている事だった。錬金術の祖と呼ばれるキミアなら、そんな凄い騎士団にいてもおかしく無いと、彼女は思った。
初対面でも、そんな気がしない。それは祖母の友人という理由もあったが、何よりキミアの著書を教科書として長年錬金術を学んできたのだ。
そして今日初めて顔を合わせ、想像していたよりも遥かに美しく、遥かに優しい人であったと知った。
そこに、怒鳴られる生活が続くと絶望した女性はいない。まるで救いの手のように伸ばされた手を、躊躇いなく握る決意を見せた女性がいた。
「ありがとう。これからよろしくね。まずはここを出てから仲間に紹介するから、あなたは持っていく物だけ準備して。あ、でも。洋服なんかはいらないわ。道具もあるから、思い入れのある物や持っておきたいものだけ持って来たらいいの。」
所長の言葉を全て覚えようと真剣な表情で頷きながら聞く女性に、所長は、ふふ、と笑う。すぐに準備へ向かった彼女を見送ると、優しい表情のまま背後を振り返った。
「という事になりました。悪いのだけど、彼女の護衛と荷造りの手伝いを頼んでもいいですか?」
「承知しました。私が行きますね。」
振り返った先には誰もいなかったが、所長が声をかけるとそこからゆいな隊の部隊員が姿を現した。それは二人組で、片方は妖精族、もう一方は鳥人族だ。そしてその隣には、気を失ったまま縛られている錬金術師の姿があった。
「所長!屋敷内制圧完了しました!必要な資料も集めてあります!いつでも撤収出来る状態ですので、部隊長の指示が出ればすぐ撤収出来るようにお願いします!」
妖精族の部隊員が研究室を出て行くのと入れ替わりに、獣人族の部隊員が駆け込んでくる。それに笑顔で頷いた所長は、研究室を見回した後、一つため息を吐いた。
「この程度の研究で苛つくのなら、辞めてしまえばいいのに…。」
それはこの研究室での研究か、それとも錬金術師に対してだったのか。どちらもである事は予想に難くないが、基本的に誰に対しても優しい彼女がこのような言葉を吐くのは珍しかった。
友人の孫を虐めたという一点で、彼女にとっては怒りの矛先として十分な理由だったのだろう。
最後に、意識を失ったまま倒れている老婆の錬金術師を睨み、それから己の仕事をするため研究室を見て回るのだった。




