219話
エルフの青年が息を整え終えた時、ゆいな隊は周囲の警戒と若干の調査を行っていた。それはエルフの青年に伝わる事はなく、息を整えてから周囲を見渡した彼は魔法を発動する前と同じ位置にいるアレックス達を見て案内を再開する事を告げた。
幻惑の魔法にかからないだけで、その先の森の景色が変わる訳ではない。しかしそれでも、どこか清涼とした雰囲気を感じる程には空気が冷たく、朝露が高くなった日光により気化した後の、なんとも言えない湿度の高さと共に肺に滑り込んでくる。
これぞ森、といった具合に乱立する樹齢数百年は経過していそうな樹木や、それに巻きつく蔓が人の手が入っていない原生林を思い出させた。
「待たせたな。ここまで来れば里まではもう少しだ。あまり魔法の範囲が広いと獲物となる動物すら里に近寄らぬからな。」
青年はそう言うが、里の長が維持する魔法の範囲を広げては魔力も相応に使用するからだろうとアレックスは予想した。そしてその予想は正しく、永い刻を生きるエルフであっても広範囲を常に覆う魔法を維持するのは並大抵の事ではないのだった。
そうして道なき道を行く事数十分。これまで太くて高い樹木に遮られていた視界が急に晴れたかと思えば、そこには森の楽園とでも呼べそうな巨木の群があり、その樹上には家らしき物が複数在った。
所謂ツリーハウスと呼ばれるその建築は、巨木の虚を利用して建てられており。木と木の間には木材で作られた橋が架かっている。絵物語などで見るエルフの里をこれでもかと表したそれは、見れば誰しもがエルフの里であると納得しそうな光景であった。
「こちらだ。まずはこの里の長に挨拶を。それから我らが王の御言葉を賜りに行く。」
青年は里に着くと微かに安堵した表情を浮かべたが、先頭に立つ彼の表情はアレックス達には見えなかった。それでも一瞬で気を引き締め直し厳格な表情を浮かべると、そう言って案内を再開するのだった。
「へぇ、これがエルフの里…ね。大伯母が入りたいと願い、曽祖父が入れたいと願った場所…。人族の俺からすれば大した感動はねぇな。」
このアレックスの小さな呟きは、幸いにもエルフの青年の耳には届かなかった。だが隣を歩いていたゆいなにはしっかり届いており、その言葉だけで大体の事情を察しながらも気になった事があったのか、アレックスの側にスッと近寄って耳打ちをするのだった。
「アレックス。私たちはもう人族とは言えないだろう?竜人族、とでも呼ぶか。」
てっきり大伯母や曽祖父のことについてか、エルフの里を貶したように聞こえる発言を咎める物かと思えば。彼らの種族についての言及だとは思ってもいなかったアレックス。
しかしヴェルムを敬愛する者しかいない団員にとって、それはどこまでも大事な事なのだろう。言われて気付いたアレックスも、確かに、と笑うのだった。
「ようこそおいでくださった。前回この里に我らエルフ以外の民が足を踏み入れたのは、実に二百年以上前になる。」
アレックス達が次に案内されたのは、数あるツリーハウスの中で最も立派な家だった。そこには里の長を名乗る老齢のエルフが木製の椅子に座っており、年齢を理由に立ち上がらぬ事をまず詫びてから話し始めた。
「お主らもよく知る、ヴェルムと名乗る竜だ。彼は当時起こっていた問題を颯爽と現れ解決し、我らがエルフの民と打ち解けてから去った。そんな彼の眷属であるお主達を派遣してくれた事、誠に感謝申し上げる。」
エルフは肉体の年齢が最盛期まで成長すると、生の殆どをその姿で過ごす。そして寿命が近付くと老いていき、最後は人族と変わらぬように老いた姿で死ぬ。
この里の長は寿命が近いのだろう。随分と老いた様子で、日々の生活すら厳しいに違いない。
そうは言っても、老い始めてから人族の一生と同じくらいには時間がある。彼らエルフはその永い刻を己が身によって確かに刻み、その期間に蓄えた叡智を次代へと繋ぐ。
そこにはヒトの営みがあり、どの種族も変わらないという証左があった。
「此度もまた竜に助けられる形となる。我らが王はお主達に最上のもてなしをと仰った。であれば、里の民が集まる時に使用する集会所がある。そこで寝泊まりしてくだされば良いだろう。既に準備させておるでな。」
里の長だけあって長かった話はそう締め括られた。しかしそこにはアレックス達への深い感謝があり、精一杯のもてなしでもって彼らを遇する心持ちである事が伝わってくる。
それに礼を述べたアレックスは案内をして来た青年に向き直ると、彼もアレックスを見てから一度頷いた。
「では王の下へ。慌てずとも本日中に大迷宮が溢れかえることなど無いだろうが、それでも事態は喫緊だ。道程でお疲れかもしれないが、王の御言葉を賜る機会だ。顔には出さぬよう。」
およそ零番隊に向ける言葉ではないが、彼ら零番隊が体力お化けである事を知らない。零番隊が疲れたなどという言葉を本気で言う事など滅多に無いとは、思ってもいない様子だ。
アレックス達はその言葉に苦笑いを浮かべながらも頷き、里の長の家を出て更に里の奥へと足を踏み入れるのだった。
それを見送る長の深く刻まれた皺が、年輪のように数多の刻を過ごして来たのだな、などと考えながら。
里の長の家へと向かう途中では、この里に暮らすエルフ達が興味津々といった様子でアレックス達を覗き見る姿が散見された。
だが奥へと進むにつれそういった姿は感じられなくなり、気配を感じることに優れたゆいな隊はエルフの民が周辺の建物の中にいる事は分かっても、顔を出さない理由までは分からなかった。
やがて、王が住むという巨木へと差し掛かる。だがアレックス達が気になったのはそちらではなく、その隣の巨木であった。
「アレックスさん!」
思わず、といった風に声をあげた部隊員に、アレックスは困ったように視線を向ける。部隊員が声をあげた理由など、この場の全員が分かっていた。
声をあげたのは、ゆいな隊でも治療を担当する妖精族の部隊員。小さな身体であちこちを走り回り、仲間を治療して回る姿は彼女が準騎士であった頃から名物だった。
「アレックスさん!」
焦るようにもう一度彼女が言えば、アレックスは瞳から迷いを消してエルフの青年へと言葉を投げかける。それは集団の後方から適切な音量で先頭を歩いていた彼にしっかりと届き、その身を振り返らせる事に成功した。
「なぁ、王への挨拶とやらだが…、俺と数人だけでもいいか?この部隊は殆どの奴が回復魔法を使える。そこの施設…、怪我人が集まってんだろ?」
アレックスの言葉に青年は驚いた様子だったが、しかし数秒顎に手を当て悩み首を振った。
「大変有り難い申し出だが、我らが王に御言葉を賜る機会だぞ?例外中の例外でエルフの民以外を招き入れたが、お前達の指揮官はその栄誉を己と数人だけで受ける狭量な者だったのか。実に残念だ。…このような者どもに助けを乞わねばならぬとはな。」
心底残念そうに言う青年だが、その言葉を皮切りに彼を数多の殺気が襲う。突然の事で何が何やら分からない様子の彼は、そのあまりに恐ろしい殺気で腰を抜かして地に腰を着けるのだった。
「やめろ。一般人に向けていい殺気じゃない。」
アレックスの言葉でその殺気は方向性を散らし、彼は直ぐそこまで迫っていた死神の鎌が離れた事を知る。これまで死を錯覚する程の殺気に襲われた事などない彼にとって、この時間は己の生より長い時間だったかもしれない。
「いいか?お前らエルフにとっては王とやらの言葉は民の命よりも重いのかもしれん。だがな、俺たちがここに来た目的は王の言葉を貰いに来た訳じゃねぇんだよ。生命を救いに来てんだ!里に入ってから生命反応の弱い奴が居ないか探ってたが見つからねぇもんだから、てっきり助かったか全滅したかのどっちかだと思ってた…。だがそこにいるじゃねぇか!俺たちは王の言葉なんぞよりも助けられる生命を選ぶ!言葉を返すようだが、お前達の王は民の生命を何とも思ってないカスのようだなぁ!心底残念だよ!」
アレックスはそこで一度言葉を切り、睨みつけていた青年から視線を外す。そしてアレックスを見ている家族に向かってハッキリと言葉を紡ぐのだった。
「…ゆいな!お前は何小隊か連れてアイツら助けてこい!それからお前!お前も何小隊か連れて他に負傷者がいねぇか聞き込みと治療!残りは俺について来い。王とやらの言葉を聞いて文句でも言いに行くぞ!」
鋭く言い放ったアレックスに、ゆいな隊は見事な敬礼で返した。そして指示の通り三班に分かれる。アレックスの側に残った者の一人がエルフの青年に手を伸ばして立ち上がらせると、彼は震えるあしで何とか立ち上がりアレックスを睨むのだった。
「許されぬぞ…!我らが王を侮辱するその言葉!やはり他種族なぞ招き入れるのではなかった!」
その怒りは尋常ではなく、戦う力などなくとも全身全霊をもってアレックスを恨もうとしていた。だがここで王についての問答など無意味でしかなく、アレックスはもう一度青年をひと睨みする。
すると彼は、ヒッ、と短い悲鳴をあげて半歩後退り、スタスタと歩いて行くアレックス達の背中を呆然と眺めるのだった。
「アレックスさん、良いのかい?団長と仲良い奴らなんだろう?」
立ち尽くす青年を放置して目の前の巨木へ歩くアレックスに、部隊員の一人が話しかけた。その疑問は他の者も同じように持っていた様子で、視線を前に向けながらも聞き耳を立てている事が分かる。
そんな彼らに眉尻を下げたアレックスは、ハッ、と短く笑ってから答えるのだった。
「良いんだよ。ヴェルムから言われてるしな。好きなようにしろ、って。それに、王の言葉より生命を優先出来ねぇなら、いつか滅びる運命だろ。王がいるから国があるんじゃねぇ。民がいるから王が生きられるんだ。曲がりなりにも国を名乗るなら、そのくらい勉強しとけってんだ。」
アレックスの言葉は極端で、その裏表ない性格は多くの者に慕われる。だがそれだけではないのは確かで、彼の王族という生まれが彼を彼として成立させていた。
幼い頃より座学をサボっていた彼だが、まだ王子であった時分に民との交流を最も行い王族への尊敬を集めたのはアレックスだ。
その言葉には、エルフの王に対する王としての心構えの違いに憤慨する様子が見てとれた。
「団長に迷惑がかからないなら良いですね。流石にあの発言は俺も引きましたよ。」
部隊員がその様に同意すれば、アレックスは今度こそいつもの爽やかな笑顔を見せた。
「ま、あれが王の真意かどうかはこれから確かめるんだけどな。てことで、一度気持ちをリセットしとけよ?変な先入観持って会うと碌な事にならねぇからな。」
そしてこれは精鋭として生きた経験からだろうか。王子の内に身につけた事かもしれないが、どちらにせよアレックスのその言葉に、部隊員達が納得して気持ちを切り替えたのは確かだった。




