214話
「しかしまぁ、なんとも立派な桜よなぁ。枝垂れ桜と言ったか?ここまで立派なものは大陸に二つと無かろうて。」
色鮮やかな食事と美味い酒。そして頭上に広がる見事な桜色の空に上機嫌なフォルティスが、盃から朧酒を口に流して言う。彼は身体も声も大きいが、その動きも大きい。そのため喜びを表現する彼の手振りも大きかった。
「フォル、おめぇは色々とデカいんだからよ。もうちっとコンパクトになれねぇのかぁ?」
そんなフォルティスに苦言を呈すのは料理長だが、彼も彼で動きも言葉も荒っぽい。ヴェルムの脳裏にどんぐりの背比べという諺が浮かぶくらいには似た者同士であった。
なにおぅ!?と憤るフォルティスと、やるかぁ!?と腕を捲る料理長を、ふふ、と笑いながら見るヴェルム。二人の騒がしい遣り取りを愉しんでいるのは明らかで、セトもそれを静かに見ながらヴェルムが飲み切った酒を注ぎ直したりと忙しい。
男四人で始まった彼らの春告祭は、まだまだ始まったばかりだ。
「ところで相棒、この敷物はなんで黒いんじゃ?」
騒がしかったり静かになったりと忙しい中で、不意にフォルティスがヴェルムに問う。フォルティスにしてみれば、春を楽しむための酒の席で、敷物が黒いなどとは見た事も聞いた事もなかった。
そんなフォルティスにヴェルムは盃に浮かぶ花びらから視線を上げる。穏やかな微笑みはそのままにヴェルムが上を見上げれば、春風がヒュウと吹き花びらを舞い上げた。
敷物が黒い理由。それはヴェルムが黒に指定したからだ。
では何故黒なのか。目の前に答えがあると言わんばかりに、ヴェルムは春風の過ぎ去った敷物にフォルティスの視線を誘導した。
「ん?…おぉ、そういう事か!」
敷物を見て納得した様子のフォルティスに、ヴェルムはニコリと笑って盃を傾ける。普段のヴェルムからは想像できない、膝を立てて盃を持った手を乗せた姿勢は、眉目秀麗な容姿と合わさって春の精だと言われても納得出来てしまう神秘性があった。
「この敷物はね、彼女の美しさを最も引き出せるように作ったのさ。よく見れば、重箱の黒とも違うだろう?重箱は漆塗りだけど、敷物はもう少し闇色なんだよ。ほら、彼女の花びらが敷物に落ちて、夜空に浮かぶ星屑のようだろう?」
自慢気に語るヴェルムは上機嫌で、桜の幹に背を預けてどこか懐かしそうな瞳で見上げる。
そんなヴェルムの語りに釣られて敷物に広がる桜色の花びらを見たフォルティスもまた、納得したように深く頷くのだった。
「彼女、か。この木には美人で可愛らしい精霊でもおるのかの?」
そうフォルティスが冗談混じりに言えば、反応したのはセトと料理長だった。二人は驚いた様子でフォルティスを見て、次に枝垂れ桜を見る。
その様子が可笑しかったのか、ヴェルムはクスクスと笑い声を上げるのだった。
「なんじゃ。皆して。何か変な事でも言ったかの?」
一人状況を理解出来ていない様子のフォルティスが困惑した声を上げているが、セトと料理長はその声にハッとするものの声を出す事はなかった。
「フォルティス。君は中々鋭いじゃないか。君の言う通り、この桜の木には精霊がいる。君の想像する若くて可愛らしい女性ではないけどね。…おっと、怒らないでおくれ。君の悪口を言っている訳じゃないのだから。」
ヴェルムが言葉にすれば、幹の近くにあった枝がヴェルムの頭を何度か往復するように叩く。偶然風が吹いたせいにしか見えないそれは、ヴェルムに異議を申し立てているようにも感じられる。
事実、ヴェルムが揺れる枝を捕まえて花に口付けを贈れば、初心な女性が顔を朱に染めしおらしくなるように、枝垂れ桜の風に乗せた攻撃もピタリと止むのだった。
「ほぉ…。相棒が言うならそうなんじゃろうな。相棒から見て、その精霊はどんな女性なんじゃ?」
フォルティスの幼き頃よりヴェルムとは友人関係であったが、フォルティスはヴェルムの女性関係の話を聞いた事がなかった。
ドラグ騎士団に入ってからは団員が三番隊隊長のリクと四番隊隊長のサイサリスをヴェルムと並べたがっているのにはすぐ気付いたが、ヴェルムには二人とも家族という認識が強いようで、他の女性団員と変わらない扱いをしているように見えた。
それもあって興味津々で精霊について問うたのだが、ヴェルムは優しい笑みを浮かべるばかりで彼女との関係は口にしない事は容易に想像が出来た。そのため少し切り口を変える事にした。
「いや、そうじゃなぁ。ヴェルムと精霊殿の出会いでも聞こうか。うむ。それが良い。」
既に興味津々なのはバレているが、それでも強引に方向性を変えるフォルティス。何やら横から呆れた視線を二つ感じる気はするが、それでも元英雄は退かなかった。
「うーん、彼女との出会いかい?簡単だよ。元々、私は彼女の母君の下へ春になる度に通っていたのさ。まだヒトと関わる前だね。そんな折に…」
そんな折に、例年通り枝垂れ桜が咲く丘に訪れたヴェルムは、枝垂れ桜の精霊から頼まれる事になる。
己の生命はもう永くない。まだ元気があるうちに、己の身体を一部移動し植えられる場所を探してほしい、と。
ヴェルムはそれに難色を示したが、枝垂れ桜たっての願いともなれば断る事は出来なかった。
幸いにも、枝垂れ桜の生命はまだ数十年は保つ。その間にゆっくり探してくれれば良いという約束で、ヴェルムは枝垂れ桜の新たな安寧の地を探す事になったのだ。
それから数十年。枝垂れ桜の故郷である島国から遠く離れた大陸中央に、グラナルドという国が興る。その首都はアルカンタと定められ、アルカンタ北西部にはヴェルムが育てたヒトの部隊、魔法隊の本部が出来た。
本部にヴェルムの家である本館を貰ったため、ここに連れてこようと考えたヴェルムの行動は早かった。春になるのを待たず、枝垂れ桜がいる丘へと向かったヴェルムは、そこで信じられない場面を見る。
枝垂れ桜が咲く丘の麓に、ヒトの集落がある事は知っていた。しかしその丘は野生の動物であったり、偶に魔物も徘徊している危険な場所である。そのためヒトは入ってこないと思っていたのだ。
だが、枝垂れ桜にとっての安寧の地は、たった数十年で安寧の地ではなくなっていた。
ヒトが住むための場所を増やすために枝垂れ桜を切り倒そうとしており、ヴェルムが着いた時には、枝垂れ桜は地に横たわっていたのだ。
枝垂れ桜の精霊は言った。
切られずとも今年が最後だったのに、と。
毎年春に来るヴェルムのために、近年は無理をして咲いているのには気が付いていた。今年が最後になるだろうという事も。
だがそれにヴェルムは口を出さなかった。精霊が信じ託してくれたのだから、今年の春を最後に新たな場所で共に過ごそうと、そう考えていた。
しかしそれは叶わない。切られて地に伏した枝垂れ桜は、蕾がついたままの枝を地に垂らして生命を終えようとしていた。
ヴェルムは精霊に言った。
最後の力を一枝に集めなさい。これからは私が共に在る。新たな場所で、新たな生命として芽吹くのを待ちなさい。と。
精霊は言われた通りにまだ元気な一枝に力を集めた。それきり何も言わなくなった枝垂れ桜を悲しそうに見たヴェルムは、力が集まった枝を切り大陸へ戻ったのだった。
「そんな訳でね。彼女は確かにここにいるけど、あの地にいた精霊とは違う、新たな精霊として生まれたのさ。彼女の親とは違って悪戯もするしそれを誤魔化したりもするけど、母娘揃って健気で良い女だよ。」
そう語るヴェルムの瞳は優しさで満ち溢れていた。ヴェルムの話の通りなら、この枝垂れ桜は三百五十年ここに立っている事になる。その時間の長さに驚いたフォルティスは、納得したように空を覆う枝と花を見上げるのだぅた。
「なるほどのぉ。世界一の良い男から良い女と呼ばれる精霊か。なればヴェルムの相棒として、儂も挨拶しておかねばな。儂はフォルティス。精霊殿よ、これからよろしく頼む。」
フォルティスが始めた急な自己紹介を、セトと料理長は驚いたものの黙って見ていた。ヴェルムはフォルティスの気持ちが嬉しいようで、チラリと視線を向けた後は盃を傾けている。
フォルティスが言葉を切り頭を下げると、静かな空間が帰ってきた。頭を数秒下げていると、ヴェルムの、ふふ、という微かな笑い声が耳に入る。それを疑問に思ったフォルティスが顔を上げれば、そこには可笑しそうに笑うヴェルムと、その隣でヴェルムにしなだれ掛かる着物姿の女性がいた。
驚いたフォルティスが目を瞬かせれば、まるで気のせいだったのかと思えるくらいには変わらぬ姿のヴェルムがいて、先ほど見えた筈の女性はもう見えなかった。
「どうしたんだい?狐に摘まれたような顔をして。」
「狐…?がどうしたって?」
東の国の諺に馴染みのないフォルティスが首を傾げる。
何でもない、と笑うヴェルムに、フォルティスはまぁいいかと一人で納得した。
男たちの春告祭も終盤。料理長が最後にと言って別にしていた重箱には、三色団子が入っていた。
「三色団子の色には何か意味があるのかの?」
フォルティスが問えば、料理長が胸を張って息を吸う間にセトが答えを返す。
「東の国ではどの地方でもこの色の組み合わせでしてな。緑は新芽、白は雪、ピンクは花を表していると言いますな。」
説明を盗られた料理長が吸った息を盛大に吐く。その時にセトを軽く睨むのも忘れない。
「ほぉ、なるほどのぉ。では、雪の下では新芽があり、雪の上では花が咲くのが春だ、ということかの。」
フォルティスとて大貴族の当主であったため、詩を読んだりする事も教養の一つとして教育されて育った。そのため風情に関しては一定の理解があり、このように説明されればその心を察するくらいには賢かった。
「まぁ他にもあるけどな?ピンクは桃、白は白酒、緑はヨモギだって説もな。」
「それは風情のない…。腹が満ちれば良いという安直な考えですなぁ。」
「おーおー。セトは好き勝手言いなさる。風情で腹が膨れるか!って奴は多いんだぜ?」
そして始まるセトと料理長の口論に、フォルティスはこっそりもう一本の団子を重箱から取る。バレていないはずのそれだったが、視線を感じて目を向ければそこに、静かに笑うヴェルムがいた。
何処となく気まずくなったフォルティスは、人差し指を立てて己の唇に当てる。すると深くなったヴェルムの笑みは、普段の揶揄うような笑みではなく心底満たされた幸せそうな笑みだった。
口論が終わってからまた団子を食べ始めた二人に合わせ、フォルティスはもう一本団子を手に取る。だがそれは料理長によって阻止された。
「おい、フォルはさっき一本食ってただろうが!俺が気付いてねぇと思ってんのかぁ!?」
バレていた。大柄な老人がシュンと小さくなって団子を重箱へ戻すのを、ヴェルムは笑って見ていた。セトはそんな小さなことで怒るとは、などと料理長を煽っているし、料理長はそれになにおぅ!?と返してまた口論を勃発させている。
流石に呆れたフォルティスが名残惜しそうに団子の重箱から視線を逸らすと、見知らぬ湯呑みが己の前に置いてあった。
湯呑みを取り首を傾げるフォルティス。先ほどまでしょぼくれていた老人が今度は子どもよろしく首を傾げている。その様子が可笑しかったのか、ヴェルムはクスリと笑ってから湯呑みの中身について教えてくれるのだった。
「それは桜茶だよ。桜の花と塩、それから梅酢で作られているんだけどね。東の国では祝い事で飲むのさ。折角淹れてくれたんだから、ぜひ楽しんでみて。」
ヴェルムの説明に一応の納得をしながらも、フォルティスは桜茶を口に入れる。茶、と聞いていたが原料を聞く限り茶ではない。一体どんな味がするのかと思えば、口に広がるのは咽せ返るほど濃い桜の香りと、塩の辛みと甘み。湯呑みの中で揺蕩う花びらは色鮮やかで、まるで桜そのものを湯にして飲んでいるような感覚に包まれる。
美味しいものではない事は一口で分かったが、しかし特別な日に飲むにはこれ以上ないとも思うフォルティス。
一口で気に入ったフォルティスは、それからススっと湯呑みの中身を飲み干してしまうのだった。
「あ、フォルも桜茶淹れて貰ったのか!良かったなぁ!」
料理長がセトとの口論をやめてフォルティスに言う。どうやら、セトも料理長も桜茶を淹れた訳ではないようだ。
ならば誰なのか。フォルティス疑問に思えば、フォルティスの肩を枝垂れ桜の枝が撫でた。そして一枚落ちた花びらが持ったままの湯呑みに落ちる。すると飲み切ったはずの桜茶が湯気を立ててまた湯呑みを温めていた。
「なんと!…この特別な茶は精霊殿からのご厚意であったか。それは勿体無い事をしたのぉ。お代わりはもっと大事に味わって飲むかの。」
そう言って笑ったフォルティスに応えるように、枝垂れ桜が風に揺れた。




