212話
春は天気も安定しない日が多く、春告祭の期間中も雨が降るなど毎年恒例である。だがそんな雨も、真冬の降雪に比べれば大した事はない。寧ろ、恵みの雨だと喜ぶ民が多いのも事実だった。
大きな街くらいになれば、街全体を覆う結界魔法が作動しているため、雨や雪が街中に降る事は無い。だが、そういった天候に対する結界魔法を維持するのにはかなりの魔力が必要で、それを補うのが魔石であるため節約の必要があった。
首都アルカンタや裕福な高位貴族の治める領都などは常に結界を維持しているが、そうではない街では悪天候の時だけ結界を張る所が多い。
これらの結界は魔道具によって発動、維持されるが、起動時に多くの魔力を使用する事が分かったため、年二回雨季と冬のみ結界を起動し続け春と秋は結界を発動すらしないという街もある。
夏の間に何度か来る台風は、グラナルド東部の海沿いにしか来ないため、そちらでは夏も結界の魔道具を使用する事もあった。
そんな結界によって護られた首都アルカンタは、春告祭の期間中に雨が降っても地面を濡らす事はない。結界によって弾かれた雨水はそのまま結界を伝い、アルカンタの周囲に巡らされた水路に流れ込む。その水路はアルカンタ近くの河川に繋がっており、増えた水位はそちらに流れて行く。
グラナルド建国よりも先にある程度形となっていたアルカンタだが、その設計にはヴェルムが大きく関わっている。
とは言っても、ヴェルム自身は何かを変えたり手伝った記憶など殆どない。気になった事を聞いていたら勝手に皆が解決していた、という感覚である。
当時、グラナルド王国を建国するにあたって問題となったのが、首都をどこに定めるか、という事であった。当然、街の長である建国王がいる場所を首都にすべきという意見が多く、ほとんどの部族がそれを支持した。
しかし、街の機能としては候補の三つの街では二番目で、一番良い条件なのは西にある街だった。
そこで持ち上がったのが、建国王のいる街を最大の街にしてしまおうという無茶な企画。だが部族長や街の民はそれに両手を挙げて賛成し、困り顔の建国王夫妻を置き去りにその話は盛り上がってしまう。
そこに現れたのが、当時魔法隊の指導者として長の屋敷に居候していたヴェルムである。
彼は言った。面白そうな事をしているな、手伝おう。と。
だが天竜として生きてきた彼は、建築や治水に関しての知識が足りていなかった。そこで彼は建国王から許可を取って大陸を巡ったのである。
現在の中央の国領地は、当時複数の部族の集落や街程度の規模の小国が数多存在していた。しかし、現在の北の国や旧東の国は既に複数の街を抱える国として在ったのである。
ヴェルムはそういった国を渡り歩き、建築や治水に関する知識を身につけて帰ってきた。それだけすると満足したのか、聞かれれば答えるものの自分から街の改良に乗り出す事はなかった。
それでも民は喜んだ。何せ、聞けば分かるのだ。ここはどうすれば良いかと尋ねれば、例を挙げて複数回答を用意してくれるヴェルムに、己で考える事の大切さと間違いに向かわない慎重さを学んだ。
時に民が誤った行動をしていれば、いつの間にかヴェルムがいて理由を問うてくる。何故、と。それによってもう一度根本から考え直す機会を得た民は、試行錯誤の中から最適解を導き出す喜びを覚えた。
気付けば立派な街となった時には、もうグラナルド王国は誕生していた。アルカンタと名付けられた街は首都として認定され、発展を競い合った北の街と西の街も大きくなっていた。しかしそれらは完成したアルカンタに遠く及ばず、発展した街を基盤に反乱を起こす気にもなれなかった。
圧倒的なまでにその威容を見せつけた形になったが、何故かアルカンタの北西部だけは工事が未着手であった。
「レクス。何故あそこだけ何も手をつけていないのだ。街は全て囲わねば護り辛かろう。」
まだ口調が堅かったヴェルムが建国王へ問えば、彼は苦笑いを浮かべながらなんと言おうか考えているようだった。その視線は彷徨い、そして偶々通りかかった妻を見つけてパァと輝く。まるで救世主でも見たかのようだった。
「あぁ、あれは魔法隊が好きにして良い場所なんです。将来魔法隊の隊員が増えても良いように、立派な屋敷を建てますからね。」
夫から助けを求められた妻はこう答えた。穏やかに微笑んでいるが、これ以上聞いてくれるなと強い意志も感じた気がしたヴェルムは、そうか、と一言返すだけに留まったのである。
それが現在のドラグ騎士団本部であり、彼女たち魔法隊が威信を賭けて建てたのが現在の本館である。魔法隊からの贈り物に、ヴェルムは殊の外喜び感謝した。今まで居候であるのを気にした事など無いが、それでも己の家が手に入った事にヒトらしさを感じて喜んだのだった。
「そう言えば、そんな事もあったね。確かあれは、グラナルドとしての最初の春告祭の時だったかな。」
漆黒の瞳を閉じて微かに上を見上げ、懐かしさと戯れるように微笑むヴェルム。本館を受け取った時を思い出しているのだろうか、日差しを浴びて考え込む姿は一枚の絵画のようにも見える。
そんなヴェルムに豪快な笑い声を上げたのは、対面に座るカサンドラだった。彼女は今日も隊服を着こなし、燃えるような紅を数箇所で留め一つにし背中に流している。
彼女の隣には側近の爺が座っており、厳しい顔つきのまま紅茶を静かに飲んでいた。
彼らがいるのは本部横のスタークが管理する菜園。その側にあるガゼボの一つである。お茶会の形を取るその集まりは、任務から帰ったカサンドラと爺、それからヴェルムとセトとその弟子である双子で構成されていた。
「あの時のヴェルムは傑作だったな!そりゃあ、貰うにしても立派すぎる家なのは間違いないが、あそこまで喜ばれたらこっちも作った甲斐があるってもんでよぉ!」
当時、カサンドラも部族長である爺と共に魔法隊の一人として本館建設を手伝っていた。地属性が得意な者が地を均し、カサンドラたち力自慢が建材を運ぶ。そうして出来た本館は、魔法隊としては感謝の表れであったのだ。
それを大いに喜んだヴェルムを見た隊員たちは、涙を流して喜んだ者もいたくらいに喜んだ。カサンドラもその一人で、涙こそ流さなかったものの大喜びし、そばに居た同じ部族の若者を抱きしめて骨を折った罪がある。
因みに骨を折られた若者は現在カサンドラ隊の一員で、今も偶にその件を持ち出してカサンドラを揶揄い、今度は骨が折れる程度で済まない仕返しをされている。それでも懲りずに何度もその件を揶揄うものだから、現在はその件を話す事が突発的な訓練の開始合図となっていた。
「へぇ、この本館って皆さんが建てたんですね!師父のお家だったんだぁ…。そこに住まわせてもらってる私たちは、やっぱり幸せですね!」
カサンドラの笑い声に呼応するように、ヴェルムの隣から少女特有の高い声が届く。ヴェルムの隣に座るとどうしても視線を下げねば目に入らない程小さな彼女は、ヴェルムの弟子であるカリンだった。
カリンの言葉に、カサンドラは片眉を上げて疑問顔だ。それはその隣の爺も同じようで、血縁関係にある二人が同じ表情をすると、なるほど確かによく似ていた。
「カリン。どういう事だ?確かに団長と同じ屋根の下で過ごせるのは幸せというのは間違っていないが…。」
爺がそう聞けば、カサンドラも同じ疑問を持ったようで頷いている。二人からの疑問に、カリンはえへへと笑うだけで何も返さなかった。そして給仕に徹している双子の弟を見れば、それに釣られるように二人の視線もアイルを捉えるのだった。
三人の目が己を捉えて離さない事に、若干引いた目をしながら狼狽えるアイル。それをいつも通りの無表情でやってのける辺り、心から動揺してのものでは無さそうだ。
そんな小芝居が通じなかったためか、双子の姉を軽く睨んでから音もなくため息を吐き出すアイル。そうやって一度伏せた目は、もう一度上げた時にはいつも通りの無感情な瞳に戻っていた。
「ヴェルム様のお住まいである本館に居を分けられたという事自体が、ヴェルム様にとって家族であるという事の裏付けになるのではないかとカリンは思っているようです。」
アイルの説明は少し難しかった。何故なら、ヴェルムが団員の皆を家族だと言うのはいつもの事だからである。今更それがなんだというのか、と言いたげなカサンドラと爺に、今度はカリンが補足を加えるのだった。
「つまり、家族だよって言葉だけじゃなくてですね…。なんていうか、そのぉ、うーん。…師父が行動で私たちを家族だって迎え入れてくれてるみたいで嬉しいな、って!」
カリンの説明は感情が言葉に乗る分、二人には分かりやすかったようだった。言ってから照れたように頬を朱に染めるカリンに、カサンドラと爺は穏やかな笑みを向ける。
二人は四百年近くヴェルムと共にいる。そのため当たり前の感覚になってしまっていたヴェルムの家族という言葉が、目の前の幼子にとっては何より大切で己を暖める言葉だったのだと痛感したようだった。
カサンドラには両親も両祖父母もいる。記憶もあるし祖父など現在の部下だ。だが双子にとっては親族というものに縁がないのだ。
物心つく前に魔物の襲撃によって両親と死別し、己の半身である片割れと共にドラグ騎士団に拾われた。二人にしてみればドラグ騎士団は第二の故郷などではなく、本物の家族なのだ。その点に関しては、カサンドラと爺は共感する事が出来ない。どんな言葉を並べても、二人にとってドラグ騎士団は新たな家族でしかないからだ。
「カリン。恥ずかしいからって人に説明を押し付けて、結局自分で言って恥ずかしがるのはやめなよ。」
カリンとアイルの二人にどんな言葉を投げるか迷っていたカサンドラと爺は、唐突にアイルからカリンに投げられた容赦のない言葉に驚いてそちらを見る。そこにはいつも通りの無表情を完全装備したアイルが冷たい目でカリンを見ており、どうやら自分に説明を押し付けた上で勝手に話して恥ずかしくなったカリンを責めているらしい。
アイル単体と話していればほとんど見る事のないアイルの子どもらしい一面は、カリンと共にいるからこそ表面に出てきてしまうのだろう。
普段の場面でこのような態度を出せば、執事が感情を表に出すなと怒りそうなセトも今は黙っている。アイルの情操教育に失敗したかもしれないと考えているヴェルムとセトが、カリンの前でのみ出せる子どもらしさを叱る理由はないのだった。
「そ、そんな風に言わなくたっていいじゃない。アイルの説明が分かりにくいからでしょ!」
今度はカリンの発言に驚く番だった。日頃から明るく素直なカリンが、片割れとはいえ他の人の前でアイルに文句を返すなど想像もつかなかったからだ。
そのくらい二人は周囲の目を気にしている。だからこそ見た事もないその光景に、カサンドラや爺、そしてセトも驚くのだった。
そんな中、一人穏やかな笑みを崩さないヴェルム。驚く三人からの何か知っているのかと問う視線に微笑みを返して、こちらもカリンと同じくアイルに説明を求めて視線を送る。それに釣られた三人もアイルを見れば、先ほどとは違って主人の命を嬉々として受ける姿があった。
「皆様すみません。カリンは最近、ツンデレなる物に感化されてしまっておりまして。どうも西の国の国王の影響のようですが…。」
語尾が薄れゆく話し方など滅多にしないアイルが、最後は言葉を濁すように話した。それはカサンドラと爺の反応が予想できたからであり、案の定二人はその髪色と同じく烈火の如く怒りだすのだった。
「なんだってぇ!?西の国の国王って言やぁ、あの若造だろう?うちのカリンになんてもん植え付けてんだい!」
カリンはカサンドラの任務を手伝う際に西の国へ赴き、そこで当時皇太子だった現国王から一目惚れされている。それ以来顔を合わせぬようにしていたはずなのだが、これは一体どうした事か。カサンドラと爺がそう思うのも無理はなかった。
しかし、カリンはつい最近西の国の国王に会っているのである。それは任務で西の国に向かい、鉄斎隊の手伝いをしていた時の事だった。
義賊を名乗る怪盗が出没するという噂の調査をしていたカリンは、そこでお忍びとして同じ噂を調査していた国王と出会ってしまった。
国王は一目惚れした女性だとすぐに気が付き、反対にカリンはお忍びの彼に気付かなかった。話していると気付いたのだが、その時には国王はカリンを連れ帰るつもりだった。
その際に交わした会話が、今も彼女をツンデレにしている。
「其方、我が妃にならぬか?其方のような素直で明るく美しい女性こそ、我が妃に相応しい。その淑やかな姿は我がためにあるのだろう。」
「はぁ?別にあなたのために素直でいる訳じゃないんだけど!」
「む…?そうキツく当たらずとも其方を想う気持ちに偽りなどないぞ。今すぐに連れ帰ってやりたいところだが、其方にも準備があるだろう?此方も其方の部屋を準備してからまた迎えに来る。それまでにいつもの素直で純粋な其方に戻っているのだ。良いな?そうすれば後は贅沢な暮らしをさせてやれる。良い子にして待っているのだぞ。」
このような会話があってから、すぐに鉄斎に報告したカリンは鉄斎によって即帰還を命じられた。立場上、部隊長でしかない鉄斎は特務部隊であるカリンに命令など出来ないのだが、非常時や緊急事態における特例がある。
鉄斎はその特例を持ち出してまでカリンを帰還させ、カリンの上司であるセトも後からそれを追認した。
結果、本部に帰ってきてからも西の国の国王に連れ去られるかもしれないとツンデレを辞められずにいる。それを聞いたアイルは盛大なため息を吐き出し彼女を宥めたが、今でもそれは治っていない。
ドラグ騎士団にいる限り一国の王など相手にもならないのだが、カリンはそれを分かっていても尚自己防衛本能に従って棘のある態度を崩せずにいたのだった。
説明を聞いて怒るカサンドラ隊の二人とは対照的に、カリンのこの言動を初めて見たセトはもう落ち着いていた。事の経緯は知っていたが、まさかカリンがツンデレになっているとは思わなかったのである。
ヴェルムはアイルから報告を受けて知っていたが、見たのは初めてだった。それはカリンがアイルの前でのみそうしていたというのもあるが、他にも理由があるのだと感じているのは確かだった。
「あの若造がぁ…!ヴェルム!いますぐアイツを殺してくるから許可を出しな!」
普段はヴェルムの言う事を聞くカサンドラも、暴れるカサンドラを宥める爺も。二人ともが憤っておりヴェルムに掴みかからんばかりに鼻息荒く立ち上がる。
だがヴェルムは穏やかな笑みを崩さないまま、却下、と一言だけ返すのだった。
「なんでだい!?ヴェルムの弟子がこんなに怖がってるじゃないか!」
尚も憤るカサンドラに、ヴェルムは端正な顔を向けてもう一度却下と告げた。こうなればカサンドラがどれだけ喚こうが動かないことを知っているため、カサンドラは盛大にため息を吐いてドカッと椅子に座る。
菜園そばのガゼボの椅子は丈夫に出来ている。その程度ではピクリともしなかった。
ヴェルムはそんなカサンドラと爺を見てから笑うと、徐にカリンを見つめた。カリンは己の言動でここまでカサンドラ達が怒るとは思っておらず、おっかなびっくりといった風にヴェルムを上目遣いで見上げた。
それはまるで叱られる直前の子どものようで、しかしそんな見た目がヴェルムの同情心を煽る訳がない。そして告げられた言葉にカリンは肩を落とすのだった。
「カリン。分かっただろう?この二人が君をどれだけ愛しているのか。このままでは今日中に西の国が滅びるよ。君の行動一つで沢山のヒトが死ぬんだ。それを背負う覚悟はあるのかい?」
ヴェルムの言葉は厳しかった。まるでカサンドラを危険物のように言うが、強ち間違いでもない。
彼女の出身部族は当時、炎の部族とも呼ばれていた。それは戦場での烈火の如き働きと、血気盛んな性分、そして仲間を大事にするが故の仲間を傷つけられた時の報復の恐ろしさから来ている。
そんな炎の部族出身の彼女が、大事に可愛がっているカリンとアイルを傷つけられればどうするのかは、それこそ火を見るより明らかだった。
カリンはそんなヴェルムの言葉にしょんぼりと項垂れ、怒りを収めたカサンドラ達から憐れむような目で見られている事にも気付かない。反対にセトは黙ってヴェルムに紅茶を注ぎ直し、アイルは叱られる片割れをジッと見ていた。
「でもね、カリン。」
シンと静まるガゼボ内に、ポツリとヴェルムの言葉が響く。それは決して大きな声ではなかったが、はっきりとその場の全員に聞こえた。不思議と背筋を正さねばいけないような気がした皆は、ヴェルムの言葉の続きをただ待つ。
次いで発された言葉までの時間が無限にも感じられる程、集中力を要求される思いをするのだった。
「私は君が求める言葉を知っている。今回は任務ばかりカリンに申し付けた私が悪いから、こんな態度をとってもカリンの求める言葉を紡ごう。君は賢いから分かっているね?本来こういったやり方は良くないのだと。」
ヴェルムの声は優しい響きの中に厳しさがあった。厳しさの中に優しさがある者は良い。それを周囲が認識すれば良いだけなのだから。しかし、優しさの中に厳しさを含ませる者には、己から向上する意欲がある者しか着いていけない。
その優しさに埋没し溺れてしまうからだ。
だからこそドラグ騎士団は研鑽をやめない。日々一歩でも前に進もうと足掻く者達だからこそ、その中心にいるヴェルムの恩恵を受け立ち上がれるのだ。
カリンは何度も頷いた。溢れそうになる涙を必死に堪え、ヴェルムの言葉を待つ。そしてヴェルムがそれを告げた時、ダムが決壊するかの如く涙が溢れ出すのだった。
「カリン。君がそんな態度をとって周りを困らせても、セトやアイル、カサンドラたち全ての団員が君の家族だ。そして、何より私がいる。君が王に見初められようと、カリンが拒むのならば私が先頭に立って万難を追い払おう。私の愛する家族を捻じ曲げる者を私は許さない。カリン、君は私の宝だよ。ドラグ騎士団という私の家族が君を信じるように、君も皆を信じればいい。」
ごめんなさい、と呟く彼女の目から溢れた涙は、ポタポタと膝を濡らしている。だがその表情は憑き物が取れたかのように晴れやかで、結局のところ彼女は家族の、即ちヴェルムの愛情に飢えていたのかもしれない。
この日からカリンはツンデレをやめた。何故なら、西の国が攻めて来ようと国王が攫いに来ようと、彼女の愛する家族が守ってくれるからだ。もうそれを疑ったり試したりする事はない。
お茶会を解散する時にヴェルムから不意打ちのように言われた言葉が、カリンにとってこの上なく大事な物になったからもう大丈夫だ。
隣を歩くアイルから、羨ましそうな呆れるような視線など気にしない。だって彼女は、隣の弟と同じく大好きなヴェルムからその名を貰ったのだから。
「カリン。また君を悩ませる事があれば、君の名前の由来を思い出してごらん。きっと力が湧いてくるはずだ。」
カリン。野花の明るく優しい香りと、高貴な花の凜とした佇まいのように周囲を照らす華となれ。
その名の意味を思い出す度、彼女は悩みなど忘れてしまう。隣を歩くアイルもその名に恥じぬ人になるだろうと思えば、笑顔が自然と浮かぶのだった。
「ねぇ、アイル。今度東の国の文字を教えてよ。」
「やだよ。自分で勉強しなよ。どうせ自分の名前を書きたいとかでしょう。もう教わった字の筈なんだから、自分でやって。」
「なによぉ、アイルのケチ〜!」
戯れ合う二人は胸に大切な思いを抱きながら歩く。己らを生かし育ててくれている恩人に、いつか恩は返せるのだろうかと思いながら。




