210話
「それで?その彼女はどうなったの?」
三杯目の紅茶に角砂糖を落としながら、瓶底メガネに遮られた視線を向け所長が所員に尋ねる。白衣の袖に撥ねる紅茶が付かぬよう気を遣いつつ、ぽちゃりと紅茶に沈められた角砂糖はその身を溶かしていく。その隣では緑茶の茶請けに沢庵を齧る鉄斎がニヤニヤと揶揄うような様子を隠しもせずに所員を見ていた。
「それがですね、やっぱりポーションが遅かったのかは分かりませんけど、どんどん熱が上がって苦しみ始めたんです。もうダメかと思いましたね。」
そう言う所員の顔に焦りはない。ならば彼女は助かったのだろうと所長は予想したが、どうやってという部分に謎が残った。それを考えながら首を傾げる所長に、所員は困ったように笑いながらヒントを出すのだった。
「所長は何故この話を鉄斎さんが知っていると思います?」
唐突な質問にも思えるそれは、彼にしてみればヒントというより答えそのものだ。そんな思いを感じてか、所長も言われるままに鉄斎を見てから何か閃いたように手を叩く。パァッと輝く表情は、答えを見つけた子どものように明るくキラキラとしている。
「鉄斎さんが助けたんですね!?」
そしてその答えは正解だった。所員は頷き、鉄斎は心なしか自慢げな表情をしているようにも見える。その様子に更に詳しい説明を聞きたがる所長は、見た目通り好奇心旺盛な若い女性にしか見えない。
「当時、団長の命で北の国を探っておっての。義賊を名乗る怪盗が出没するという伯爵領の領都に来ておった。すると怪盗がそこの研究所に忍び込むつもりだと分かって、小隊を潜り込ませていたところに此奴らの事件を目撃してな。怪盗が刺された時も側におったんじゃよ。」
鉄斎の言葉に所員が驚いた様子がない事から、所員はこの話を知っているのだと知る。事実、所員はその後で彼女を鉄斎によって救われているのだから文句などなかった。
所員が隷属魔法によって操られていた時、実は鉄斎隊によって周囲は包囲されていた。その場にいた三人は鉄斎隊に気付くことなく話をし、そして目の前で事件が起こった。闇属性魔法使いである研究所の所長も鉄斎隊には気付いておらず、所員が彼女を抱き抱えてポーションの保管庫に移動する間も側にいた。
意識を取り戻した後もう一度眠った彼女の手を握り泣く所員に接触したのは鉄斎で、彼はドラグ騎士団本部の錬金術研究所所長が作製したポーションを所持していた。
それは所員が作るポーションよりも遥かに高性能で、眠る彼女に所員が口移しで飲ませれば、増血剤も含まれたポーションが劇的な効果を及ぼしてその身体を回復させた。
死んだ所長の遺体を片付けたのも鉄斎隊で、事件の翌日中々姿を現さない所長を疑問に思った研究所の所員たちが騒ぎ出した。その頃には怪盗の彼女も目を覚ましており、手を握ったまま眠っていた彼と共に鉄斎隊の手を借りて脱出していた。
「あの時は本当にお世話になりました。鉄斎さんのおかげで研究所からも脱出できましたし。所長を殺した僕が研究所に残る訳にはいかないですから。」
鉄斎によってヴェルムに経緯が伝えられ、所員と怪盗はドラグ騎士団に来る事になった。そして所員は錬金術研究所に所属する。
「あれ?そうなると彼女さんは…?」
所長が当然の疑問を挟む。それは所員と共に団員となった彼女の行方。所員は笑いながら鉄斎を見て、鉄斎は答えるでもなく所長の後ろを見やった。釣られて所長が振り向けば、意外なところから答えが返ってくる。
それに答えたのは所員でも鉄斎でもなかった。
「私は今、鉄斎様の隊にお世話になっているんですよ。鉄斎様、明日の準備全て整って御座います。」
「うむ。ご苦労だった。明日からまた忙しい。今のうちに旦那と過ごしておきなさい。」
そこには零番隊の隊服を着た女性隊員が立っていた。所長は驚いて鉄斎と所員を交互に見る。更に彼女を驚かせたのは、鉄斎の旦那という言葉だった。
「え、結婚してるんですか!?団員になってからなら知ってるはず…。いつの間に!?」
所長の言う事は間違っておらず、団員同士の結婚は本部で盛大に行われる。であればずっと本部にいる所長が知らないはずもなく、更に言えば部下の結婚式に出ないはずがない。
しかし所長は彼が結婚している事を知らなかった。それも、百年近く共に過ごした部下の結婚をである。
「お主、部下が結婚しておる事を知らんかったのか?…それは長としてどうかと思うがの…。」
鉄斎の言うことは尤もである。それを痛感した所長がショックを受け項垂れると、乾いた笑いを浮かべた所員がフォローするかのように語り始めるのだった。
「僕らが結婚したのは、鉄斎さんに連れられてグラナルドに来る途中なんです。団員になった時には既に夫婦になっておりましたから、所長が僕の妻を知らないのも無理はありません。結婚している事実も態々言ったりしてないですからね。…まぁ、結婚記念日だから休みを取りたいとは言った覚えがありますけど。」
最後は眉尻を下げて言う所員に、所長は言葉が出ない。基本的に部下の休みなど希望されれば即許可を出していたため、覚えていないのも仕方がなかった。
何より、所長も自分の研究に没頭するため理由など聞いていないのも確かだった。
「あぁ…言われてみればそんな事言われたような…?」
首を傾げる所長に、皆は笑い声をあげるのだった。
「あなた、所長さんに私との関係を伝えていなかったの?」
妻が夫に問いかける。二人は既に寝る準備を終え一杯引っかけてからベッドに入るところだった。寝る前にエールを飲む習慣は昔からで、それを給仕する妻が摘みと共にグラスを夫に渡す。
「うーん。言ってないはずは無いんだけどなぁ…。知ってると思い込んでたのかもしれないね。」
夫は困ったように笑いながらも、妻からグラスを受け取ってちびりと飲んだ。妻はそんな夫に呆れた様子を見せながらも、対面に座って己の分のエールを飲む。これは夫婦の大切な時間で、出会った頃を思い出させるエールは、二人にとって大事な飲み物だった。
今は当時と違って様々な酒がある。エールも進化してとても美味しくなった。だが、それでも二人はあの頃を思い出せる場末の味を好んだ。
「所長さん、愛想は良いけどあまり周囲に興味がないものね。それだけ集中力があるって事なんでしょうけど…。」
無理矢理上手く言った妻も、それは無理があると分かっているらしい。夫はそんな妻に微笑みを返しながらエールをもう一口飲んだ。
「あの日、僕は君と出会った。今こうしてドラグ騎士団にお世話になっているなんて、当時は思いもしなかったよ。でも、これで良かったんだよね。最愛の君と共に長い時間を過ごして、僕たちを受け入れてくれた団長や騎士団に感謝しながら恩を返す。これ程幸せな事はあるかい?僕は所長の元で、君は鉄斎さんの元で過ごす事で。僕たちの今まではきっと、今こうして過ごすための時間だったんだと思って。」
そう語る夫の瞳には優しさが滲んでいた。頷きながら同意を示す妻も、夫を見る目は慈愛に満ちている。
二人は飲み干したエールのグラスを片付けてベッドへ向かう。そして軽い口付けを交わしてから布団に潜り込む。互いに互いを求め合うように寄り添い抱きしめ合う二人の間には、乗り越えてきた苦難と受けてきた恩が並行となるかのように横たわっていた。




