209話
彼はその時、いつもより遅くなってしまった片付けを終えて帰ろうとしていた。研究所内に人の気配はなく、ほとんどの者は帰るか研究室に篭っている。
普段滅多に遅くならないのは、所長が夜になると彼の手伝いを必要としない、彼にも見せられないという研究に着手するからであった。今日は何やら用事があるらしく出かけて行ったが、いつかその研究の手伝いもさせて貰えるのだろうかと考える彼は、今その思考は必要ないと頭から追い出して帰り支度をするのだった。
所長の手伝いを引き受けてからというもの、彼は所長と会う度にその尊敬具合を増している事は気が付いていた。確かに所長の研究は己より何歩も進んでおり、その着眼点も己と違い観察力は比べるべくも無い。
しかしそれだけなら他の研究者でも同じはずだ。それなのに所長と目を見て話す度にこの人について行こうと思えるのは、所長のカリスマなのかもしれないと思うようになった。
そんな所長と過ごす毎日に不満などないが、忙しすぎて居酒屋にいけない日が増えたのだけは困った事だった。
片付けの最中にふと何気なく居酒屋の看板娘が頭に浮かんだ彼は、昨日も行った居酒屋に顔を出そうかと考えるも既に閉まっている上に看板娘は今日が休みの日だと思い出してため息を吐く。
少しだけ憂鬱になった後、貴重品だけ入った小さな鞄を手に取り所長の研究室を後にして研究所の出口へ向かう彼は、静かで暗いながらも見慣れた研究所内を歩きながらこの世に一人だけのような気すらしていた。
しかし。いつもより遅いからなのか静かすぎる気がする研究所内は、まるで知らない世界に迷い込んだように錯覚させる。それが錯覚ではなく異常なのだと気付いたのは、異常だとハッキリ分かるものが目に入ったからだった。
「大丈夫ですか!?」
彼が慌てて駆け寄った先には、ぐったりと倒れる警備兵がいた。素早く診断して意識を失っているだけだと判断した彼は、一先ず命の危険はないと分かった事で冷静になり、そのおかげか警備兵の開いた口から甘い匂いがする事に気がつく。それは彼も良く知る薬の味を誤魔化すために使用される甘味を伴う薬草の匂いと同じだった。
薬の正体を予測した彼は慌てて鞄からハンカチを取り出して己の口を塞ぐ。その判断は錬金術師として当たり前の行動だった。
彼の推測が正しければ、その薬は急激な睡魔に襲われる程の強い薬で。寝ている間は痛みも無く睡眠というより失神するという方が正しい効果が現れる。俗にいう麻酔とよばれるそれは嗅ぐだけで効果があるため、匂いを嗅ぎ続ければ彼もその場に倒れていた事だろう。
医療現場にて興奮して暴れる患者に使用したりするその薬は、治療院や薬問屋で手に入る。だが一般人では手にすることの出来ない物である事は確かで、警備兵に薬を盛った人物は入手の伝手がある事になる。
何にせよ緊急事態なのは確かだった。こんな時どうすれば良いのか分からない辺り彼も一般人の枠に入るのであろうが、それでもこの研究所に招かれざる客がいるのは確実だろう。なれば騒ぎにせず、起きている警備兵がいるか確認する事が先決だと考えた彼の行動は早い。
不幸中の幸いか、警備兵に盛られた薬は命を左右する程の毒性は無い。ならばここで転がしておいても目が覚めた時に肩や腰が痛い程度で済むだろう。
警備兵が駐在する部屋はここから少し距離がある。来た道を戻る形にはなるがそこに向かって歩き出した彼は、なるべく足音を立てないようにして歩く。勿論、素人である彼のその気遣いは意味のないものだった。
しかし、見様見真似でもやってみるものだ。彼は歩く先に侵入者と思わしき人影がいる事に気付き、更に動きを小さくして細心の注意を払う。ここで見つかって戦闘にでもなれば、己の命は儚く散るかもしれない。
それと同時に、何故か彼には命の危険が無い気もしていた。混在する矛盾に心の中で首を傾げながら注意深く侵入者へ近付く彼は、何故そのような行動を取ったのか理解出来なかった。
やがて窓から差し込む光によって侵入者の顔が見えた時、思わず叫びそうになったのを堪えた彼は英断だったのかもしれない。
「…なぜ、君が…。」
そこにいるはずのない人物。倒れた警備兵を見つける前まで確かに記憶の中で微笑んでいた女性。
自分よりも二十センチは小さな身長と、笑えば笑窪の現れる愛嬌のある顔。女将のより小さいのだと悩んでいた胸も含めて全身を黒い服で覆い隠し、扉の鍵穴へ細い棒を差し込む姿は大いに彼を混乱させた。
声を出していた事に気付いていなかったのか、彼の声に鋭い視線を向けた看板娘。そこにいたのが彼だと気付いた彼女も混乱したように視線を彷徨わせたが、やがて諦めたように彼の側に寄ってきた。
その足取りはいつもの彼女とは全く違う気がした。今の彼女からは足音や衣擦れといった音が一切しなかったからだ。
「先生…。いつもはもう帰っている時間じゃないの…?」
静かに問う彼女の声はやはり彼女のもので。彼は予想が正しかった事を知る。受け入れたくない現実との鬩ぎ合いをしている暇など無く、ハッと気付いた彼は着たままだった白衣のポケットから鍵を取り出して、彼女がこじ開けようとしていた扉の鍵を開ける。そして彼女の手を引いてその部屋へ入るのだった。
「せ、先生?どうして…?」
見れば盗人だと分かる所業であるのは彼女自身も把握している。警備を呼ばれたり騒がれたりすれば、苦渋の決断ではあるが彼の意識を奪うつもりでいた。
だがどうだ、彼女の手を引いて静かに扉を閉めた彼は、彼女が盗人であると分かっているだろうにその瞳は心配そうな色を浮かべている。
盗人として侵入した以上、彼女が声を出す事は無いはずだった。それでも動揺して声を出してしまう程に混乱しているのは、どうやら彼も彼女も同じようだった。
「黙って聞いておくれ。君が取りにきたのは闇属性魔法の治療薬だろう?それは僕も入れない所長の私的な研究室にある。見た事はないけれど、一度気になって聞いてみたんだ。所長は頻りに情報源を聞いてきたけど、所員たちの間で噂になっていると言ってその時は誤魔化したんだ。今日は所長が出かけてるはず。案内するよ。」
声を顰めて囁くように言った彼は彼女を安心させるようにふわりと笑う。うまく行きすぎている気がしながらも、彼女は目の前の彼といつもの彼が同じだとどこか安心するのだった。
「これが…?」
「そのようだね。こちらの資料にもそれが例の薬だと書いてある。」
二人は誰もいない研究所を進み、所長の研究室の奥にたどり着いていた。彼もまだ入ったことのないそこには、所長の研究の跡なのか様々な器具や資料が雑然と散らかっている。
所長は研究自体に熱心に取り組むのであり、完成した薬や技術にはあまり興味がないのかもしれない。そんな中から目的の薬を探し出すのは骨が折れるかと思いきや、意外にもその薬は棚の目立つところに置いてあった。
二人は顔を見合わせた後、薬を大事そうに仕舞い部屋を出た。
誰もいない研究所は暗く、緊張感が漂う中出口へ向かう。自然と二人は手を繋ぎ、彼が少しだけ前に出て案内するように歩く事になんの違和感もなくなっているのだった。
研究所の出口に近付くと、彼女が前を歩く。これは周囲の警戒をしながら進むためであり、既に道が分かってる彼女が前を歩くのが効率的だったからである。
彼は研究者のため警戒しながら歩くという能力はなく、彼女に手を引かれるようにして歩くのは何とも情けないやうな気がして顔を顰めている。
しかし結果的には警戒も必要ない程に誰とも出会さなかった。彼女が侵入する際に眠らせたという事が大きいだろう。
この先にある扉を潜れば建物の外に出られる。そんな時だった。
前を行く彼女の手を握っていた彼の手が離れたかと思えば、彼女の背中に稲妻が走ったかのような鋭い痛みがザクッという音とともに彼女を襲う。
「…え?」
何が起こったか分からない様子の彼女がゆっくり振り返れば、血で赤く染まったナイフを持つ彼の姿が目に入る。その目は澱んでいて光が無かった。
彼が自分の背中を刺したのだ、と分かった時には遅かった。何故、どうして、そんな言葉が頭を過ぎるも、急に抜けていく力は彼女が立ち続ける事を拒む。
「先生…。」
薄れゆく意識の中、先生と慕う研究員の彼の光を灯さない瞳から涙が零れ落ちたように見えた。
「この娘を運んで治療しておきなさい。後で新薬の被験体となってもらう。」
目に光を灯さぬまま血塗れのナイフを持って立ち尽くす彼は、後ろから聞こえてきた声にピクリと身体を動かした。絶えず涙を流し続ける彼はその声に従い、倒れた彼女をそっと横抱きにする。その手つきは優しく、それでいて表情を変えない彼は所長の研究室がある方向へ歩き出すのだった。
彼の姿を興味深そうに見つめるのは、出かけているはずの所長だった。所長は不適な笑みを浮かべて彼を観察しており、その腕に抱かれている彼女へは視線を向けもしない。
「ふむ、やはり少し早かったか。思いの外抵抗が強いな。しかし毎日私の魔法をかけ続けているのだ、問題はないだろう。さて、君の愛する娘を刺した気分はどうかね?しかし私の魔法で操られていたという大義名分があれば、そのまま操られて現実から逃げられるだろう?私は優しいのでね。君が思い悩む必要がないよう、そのまま私の操り人形になっていたまえ。」
研究対象を見るような目つきで彼を見る所長。所長は闇属性魔法の使い手であり、これまでずっと他者を操り従わせる隷属魔法を研究していたのだ。彼が研究所へ招かれたのも、手伝いをする助手に選ばれたのも全てはこの為だった。
涙を流しながらも所長の指示に従う彼は、所長から見ても興味深い研究データの塊である。愛する女性を自ら刺すという極大のストレスを抱えながらも隷属するのかという実験に、彼は巻き込まれたのだ。
「うっ…。」
彼は表情を失くしたまま涙を流す。呻き声が微かに溢れるが、これは全力で隷属に抗っている証左であった。所長はそれを興味深く観察しながらも、何故こうなるのかどうすれば改良出来るかを速すぎる頭の回転で考えていた。
「うう…、う…!」
次第に彼の口から出る声が大きくなる。涙は溢れ続け、力が入っているのか身体も震えだす。既に歩みは止まり彼は立ち尽くしていた。
「おぉ、そんな状態でどうやって抗うと言うのだね?魔力は多くとも碌な魔法を使えぬ君が!聖属性を持たぬ君が!闇属性魔法を打ち消す事が出来るのかね?早く見せてくれ、その可能性を!」
研究所の廊下に興奮した所長の声が響く。騒いでも誰も来ないのは所長も分かっている。警備兵の数を減らし、残っていた研究者たちを眠らせたのは所長だからだ。
少なくなった警備兵はぐったりと横たわる娘によって全員眠らされた。今研究所にいる起きている者はこの三人だけだった。
「う…あぁ、グゥウ…!」
涙、鼻水、涎。そして滝のように流れる汗が彼の必死の抵抗を表していた。所長にとって初の人体相手の隷属魔法に、思ってもみない抵抗を感じ目を輝かせる。
彼はやがて身体を震わせながらも、横抱きにした彼女を床にゆっくり降ろした。指示と違う行動を起こす彼に驚く所長は、再度指示を出す事も忘れて見つめるだけだった。
だがそれが、彼の思ってもみない行動を阻害出来なくなる結果になる。
「…あぁ、あ、うぅぅぅぅうあ!」
俯き頭を押さえていた彼は急に叫んで所長を見る。その目には先ほどまでの虚ろさはなく、憎しみに燃えた恨みの炎が灯されている。
正気を取り戻したのか、と所長が興味深く観察し始めるより先に彼は動き出した。
数歩の距離を素人にしては速い動きで詰めたかと思えば、数分前に彼女を刺したナイフで所長の胸を刺したのだ。ドスッという音と共に、彼の体重を乗せた突撃によって所長が背中から倒れ込む。
胸に刺さったままのナイフの周囲は赤く染まり、どんどん血が溢れてきていた。
「隷属魔法に抗う事が出来るなど…!素晴らしい、素晴らしいぞ!君を、招いて、正解だったという訳だ!やはり、私の目に狂いはない…!こ、これで…!…わたしの研究は…、次の、世界へ…。」
ハァハァと荒い息の音だけが妙に大きく聞こえる気がした。それは隷属魔法に逆らった彼のもので、胸から血を流す所長は既に息をしていない。隷属魔法の術者が死んだ事で、残っていた魔法も効果をなくしたのか、彼の身体にはもう意志とは関係なく身体を動かそうとする感覚はなくなっていた。
安心するように息を吐いた彼は、ハッとして後ろを振り返る。そこには自分が刺した最愛の彼女が力無く横たわっている。それを悲しそうに見つめながら歩み寄れば、膝をついてボロボロと涙を流す彼。
彼女はまだかろうじて息があるようだが、治療魔法の使えない彼にとってそれはあってないような時間制限だった。
「あぁ…、すまない、すまないっ!僕のせいで君が死ぬなんて!頼む、頼むから目を開けてくれ!」
彼の必死な叫びが廊下に木霊するも、彼女は目を覚さない。手を握りしめてもそれが握り返されることはなく、頬を撫でてもその目は開かれない。
ポタポタとその顔に涙を落としながら泣く彼は、己の無力感に絶望しながらもなんとか魔法を紡ぐ。それは浄化の魔法。水属性による魔法で傷を洗い、少しでも出来る事をした結果がそれだった。
それから彼は腰のポーチからポーションを取り出す。ちょっとした切り傷程度にしか効果は無い低級のポーションだが、それでも無いよりマシだと彼女を抱き上げ背中にかけた。
「う…!」
その傷が沁みるのか、彼女の口から少し声が漏れる。たったそれだけでも彼女がまだ生きていると感じるには十分だった。
彼はその声に希望を見出し、彼女を抱いたまま立ち上がる。急いで治療用のポーションが保管された場所へ向かいながら、必死に彼女へ呼びかけを続けた。
「お願いだ、死なないでくれ!すぐに治してあげるから、それまで耐えてくれ!頼む!」
流した血のせいか、彼女の身体は冷たかった。水魔法で簡易止血していても彼が動くたび少しずつ流れる血は、砂時計の砂が少しずつ落ちるように秒刻みでその命を削る。
彼が駆け込んだ保管庫にベッドなどなく。木箱の上に彼女をうつ伏せにして寝かせると、怪我の治療用ポーションを急いで探した。やっとの思いで見つけたそれの封を開ければ、薬草の匂いが瓶から立ち上る。その匂いで治療用ポーションだと再確認した彼が彼女の背中へドバドバと垂らせば、彼女は痛みからか暴れようとするのだった。
申し訳なく思いながらも彼女の身体を押さえつける。そして全部使った時にはその傷は綺麗に塞がっていた。
「これで良い。あとは君次第だ…。頼む、もう一度君の笑顔を見せてくれ。愛しているんだ。君が世を騒がせる怪盗だろうと居酒屋の看板娘だろうと構わない!君が側にいてくれればそれでいいんだ!だから頼む…!目を開けてくれ…。」
彼は彼女の手を握りしめて希う。己の命を差し出す事で彼女の命が助かるのならば、彼はすぐにでもそうしただろう。
互いに想いは同じだと感じたのはいつだったか。彼女が彼に近寄ったのは、おそらくこの日のためなのだろう。闇属性魔法による精神汚染の治療薬。これを手に入れるため彼に近付いたのだとは、かなり最初から気が付いていた。
それでも彼女の笑顔が見れるなら、とその薬の在処を所長に確認したりもした。
だがそれが所長の罠だと気付くことができなかった。毎日高まる所長への尊敬は、闇属性魔法である隷属魔法の効果だったなどと。
彼はこの研究所に来てからの日々を少しずつ振り返る。
思い返せば思い返すほどに、研究所に来てからの日々は彼女との思い出が溢れてくる。気がつけばかけがえの無い存在になっていた事に、喜びと感謝で一杯だった。
「頼む、目を、開けてくれ…!」
叫びすぎて掠れてきた声は、彼の必死さを十分に主張していた。
その祈りが通じたのかは分からない。だが、確かに彼女は帰ってきた。
「せ、んせい…?」
同じく掠れた声が、もう一度聞きたいと願った声が彼の耳に届く。
それは待ち焦がれた声で、彼の最愛の彼女の声だった。
「目が覚めたのか!あぁ、よかった…。君を喪ってしまったら僕は…。」
とうに枯れたはずの涙がまた溢れてくる。彼はそんな涙でさえ邪魔に思えた。涙で前が滲んでは、愛しい彼女の顔を見えないではないか。
そうイラついて強引に目を拭い、彼女の弱々しい表情を視界に収めた。
「ダメ、だよ?目を擦ったら…。腫れちゃうよ…?」
そう言って微笑んだ彼女に、彼は微笑みを返す。危うく失くすところだった無二の存在に、心の底から安堵の息を吐くのだった。




