208話
「なるほどぉ。ではその女性が義賊だと分かった上で交際したんですね。いやぁ、やりますね!」
既に食べ終えたカツ丼の器をトレイに置き、少し冷めた味噌汁も飲み終えた所長が感心したように頷きながら言う。小鉢に少しだけ盛られたほうれん草の白和えは、とうの昔に隣に座る鉄斎へ差し出している。彼女は白和えが苦手なのだ。
所長の白和えを貰う代わりに刺身を一切れ差し出した鉄斎も既に食事を終えており、今は食後の緑茶を自前の茶呑みに注ぎ、両手で持ってのんびりしていた。
義賊の娘との甘い思い出に浸りながら語っていた所員もやっとパスタを食べ終えたところで、話のキリも良いからこのまま研究所に戻りたいと思っているが鉄斎の視線と所長の興味津々な様子に圧を感じ、ならばと紅茶のセットを貰いに一度席を立つのだった。
「彼女とは上手くいってたんです。その後何度か義賊の噂を聞きましたが、確かに盗みがあった日は彼女の休みの日だったんです。これは確定だろうと思いましたよ?でも、彼女を愛する気持ちは本物だったんです。正体を明かしてくれるまで待つって決めたんですから。そんな僕は隙だらけだったんでしょうね。恋も仕事も順調だと思ってた僕は、研究所の所長の誘いに何の疑いもなく喜んでしまったんですから。」
紅茶を所長と所員の分を注ぎ、料理長からついでに持ってけと渡されたクッキーを齧りながら語る所員に、二人は無言で続きを促すのだった。
研究所での業務を終え今日も居酒屋へ行こうと白衣を脱いだところで、後ろからかけられた声に振り返った彼の表情には喜色が浮かんでいた。浮かれていると見ればわかる程にご機嫌な彼に声をかけたのは、彼をこの研究所に招いた所長だった。
所長は初老の男性で、魔法を使うところなど見た事はないが昔は高名な魔法使いだったと聞いた事があった。その関係か、初老に見える所長の歳は見た目よりも上だと言う。魔力量の多い者や質の高い者はそれに応じて寿命も長くなる傾向にある。
若くして研究員となった彼も若い割には魔力が多い方ではあったが、目の前の所長の方が多いのは明らかであった。所長は量も質も高水準のため、もしかすると所長より彼の方が早く寿命が来るかもしれなかった。
研究所に誘ってくれた恩人である所長から声をかけられたなら、これから彼女の働く姿を見に行こうと逸る気持ちも抑えられる。
そもそも滅多に声をかけられない事もあって、喜びと多少の緊張を含めた彼の表情は振り向いた時より少しだけ固くなっていた。
「最近調子が良いようだね。君を招いた私の鼻も高いよ。」
朗らかに笑いながら言う所長に、どうやら説教ではないようだとほんの少し肩の力を抜いた彼。所長はそれに気付いてもう一度笑うと、彼の肩をバシバシと叩いてから真剣な表情に変わった。
「君が十分に才能ある一人前の研究者だという事は分かった。そこで、明日から私の研究の手伝いをしてもらいたいのだ。どうかね?」
所長がそう言えば、彼は思ってもみない幸運に頭がついて来ないようだった。しかし所長は真剣なまま彼を見ており、これが冗談の類ではない事をこれでもかと彼に突きつけてくる。
何か返事をしなくてはと思うほど、彼の口からは音が出て来ない。困惑する彼を尻目に、所長の説得は続いた。
「混乱するのも無理はない。他のベテラン全てを押さえての採用だからね。だが考えてもみたまえ。彼らは己の生涯を賭ける研究を既に持っている。だが君にはまだそれが無いだろう?それでいてどんな薬品も扱える君の技術と知識は大変貴重だ。私の研究を手伝う事は、君の生涯の研究を見つけるための練習だと思ってくれれば良い。どうかね?」
この研究所で働く以上、所長の研究に携わる事ができるのは名誉以外の何物でもないだろう。それは将来を約束されたも同然で、役職すら貰えるようになるかもしれない。何よりこの研究所で一番の実力を持つ所長の腕を直に見る事が出来るのは、錬金術師としてはこの上ない機会と言って間違いない。
やっと現実に追いついた彼は、真剣な目をした所長に同じく真剣な目を向ける。そして頭を下げた。
「僕で良ければ喜んで!ご指導よろしくお願いします!」
別に直接指導するためではなかったが、緊張した彼が言うことに一々目くじらを立てる程でもないと笑う所長。しかし言質はとったとばかりに真剣な目のまま彼に問うのだった。
「よろしい。だが君は私の研究を誰にも話してはならない。研究室で見た事も聞いた事も、その全てを君の胸に仕舞う事。これが条件となるが、どうかね?」
「勿論です!絶対に他言しません。」
所長だけが特別ではなく、研究室を持つ研究者は大抵そんなものである。己の研究を他に漏らす事を極端に警戒するのは当然で、その研究で一生食べていけるほどの財が手に入る可能性や、末代まで己の名が残るかもしれないのだ。情報管理を徹底するのは当たり前だった。
そのため彼も特に疑問を挟む事などない。魔法による契約書を渡されてもそれを不思議に思う事などなく、流石に所長ともなれば徹底しているな、という程度だった。
「では明日から頼むよ。今日はゆっくり休みたまえ。明日はまず私の研究室を案内しよう。どうかね?」
そう言った所長に、彼は心底嬉しそうに頭を下げるのだった。そのため彼の机から離れていく所長の、歪んだ笑みと闇色に蠢く瞳を見落とした。
所長の研究室に入った彼は、そこで信じられない景色を見た。彼が着想だけして無理だと諦めた欠損回復薬の研究や、魔力が尽き空になった魔石への効率的な魔力注入の研究など、彼と所長の実力の差をまざまざと見せつけるかのように散りばめられた資料。その一つ一つの扱いから、所長にとってそれは生涯を賭ける必要など無いと言われているような気がして、彼はその事実にも圧倒され続けた。
所長の手伝いという漠然とした要請も、いざやってみれば態々教わるまでもなく彼に新たな知識や技術を齎らした。魔石からの効率的な魔力の吸い上げにしろ、薬品を乾燥させる火属性魔法にしても彼の上をいく所長を見ているだけで学びが溢れる。
彼にとっては毎日が天国のようで、手伝いをしているだけなのに己の技術や知識が研鑽されていく感覚に、一種の万能感を覚える程だった。
そんな充実した日々が続いたある日、三日に一度の頻度に減ってしまっていた居酒屋へ顔を出した日のこと。
忙しくなった彼に理解を示す看板娘は、それでも定期的に来てくれる彼を温かい笑顔で迎え入れた。彼の生活リズムが変わっても、ここで注文するのは変わらない。とりあえずエール、である。
まるで実家のような安心感を与えてくれるこの店を訪れるのは、急成長を遂げる自分を現実に戻しながらまた頑張る気力を回復するのに必要な店となっていた。
その日も閉店まで彼の定位置となってしまった店全体を見渡せる席でゆっくりと待つ。常連も彼に相談があったりして相席をするが、入れ替わる常連越しに働く彼女を見られるように位置取りは完璧にしてある。
常連の相談というのも中々面白いもので、妻の愚痴から子どもの病気の事、果ては仕事の悩みまで様々だった。物静かで賢い彼は人々の愚痴や悩みをゆっくり聞き、相槌を打ちながら共に酒を飲んでくれると好評だ。
そんな事をしながら時間を潰し、閉店すれば後片付けは任せろという女将に頭を下げながら彼と共に帰る看板娘。
それからは二人の時間で、互いに会えるまでにあった事などを話しながらゆっくり歩く。最近は会える頻度も減っていたために、少し遠回りしながら帰るのが当たり前になっていた。朝方まで営業している店の前を通れば、中から騒がしくも楽しげな声が通りまで届く。
燃料代が高いため夜に営業する店は多くないが、逆に競合店がいないため儲かるという発想もある。そのためある程度の店が朝方まで営業していた。
そんな賑やかな通りを二人で手を繋いで歩く。その時間は例え無言でも必要な時間で、そう感じているのは彼だけではないという根拠のない自信が彼にはあった。
隣でコロコロと笑う彼女にダラシなく緩む頬を意識して戻しても、またすぐに緩んでしまう。幸せの絶頂とはこういうものかと納得してしまうくらいには幸せな彼は、彼女の手を離してそっと肩に回す。すると擦り寄ってくる彼女にまた笑い、互いに幸せを噛み締めるのだった。
「そういえば、先生の研究所の所長さんって凄い魔法使いだったんですってね。」
彼女がそう聞いてきたのは、そろそろ彼女の家に着こうかというタイミングだった。所長が高名な魔法使いだった事は誰もが知る事のため、今更そんな事を聞いてくる彼女を不思議に思いながらも彼は頷く。
同意してから問えば、彼女はクスリと笑ってからその理由を言うのだった。
「昔は闇属性魔法で西の小国の軍を一方的に倒したんですって。凄いですよね。闇属性ってそんなに強いなんて知らなかった。」
そう語る彼女の目は何故か、彼には親の仇でも見るかのようにギラついている気がした。
「以前話した闇属性魔法による精神汚染を治す薬も、所長さんが開発していたって噂を聞きましたよ。」
彼の記憶が無理矢理掘り起こされていく。あの時彼は何と感じたか、どう想像したか。蓋をしたはずの、幸せで上書きしたはずの記憶が甦る。
彼女の正体、そして何かを考える瞳。
「あ、そういえば、先生はそんな凄い所長さんの研究室に手伝いとして採用されたって聞きましたよ!凄いじゃないですか。お祝いしなくちゃいけないのに、何で黙ってたんですか?」
頬を膨らませて言う彼女に、彼は何も返せない。何故それを知っているのか、それは機密のはずだ。言うべき言葉はどれも脳内で駆け巡るだけで音にはならなかった。
「なんて。きっと私を驚かせようとしてくれたんですよね?先に言っちゃってごめんなさい。今度二人でお祝いしましょうね。」
そう言って笑う彼女の顔を、彼は見る事が出来なかった。
しかし周囲から見れば幸せな恋人にしか見えない二人は、それを見ていたとある人物がいた事に気づかないまま歩いていく。二人の運命の分岐点は、すぐそこまで来ていた。




