205話
「やぁ、ガイア。任務お疲れ様。これから報告?」
楽しいピクニック然とした討伐任務から戻った一番隊。彼らは帰還してすぐ物資等の片付けに入り、それが終わればその日は休みである。だが役職を持つ隊員はその限りではなく、当然ながら隊長であるガイアもその例に漏れない。
任務における成果の報告を纏めねばならず、小隊毎から上がる報告を中隊で纏め、それを副隊長が纏めた物を隊長が団長に報告をする。これが戦争であれば間に大隊長も入るため、更に報告書が膨れ上がる。
ガイアはその手の作業が兎に角苦手で、魔法を研究する時は幾らでも資料を重ねる癖にこうした報告書は書けないという厄介な性格をしていた。
そのため副隊長がほとんど全ての事務作業を担当しており、ガイアはそれを確認した印を押すのが主な業務になる。それだけとはいえ、一隊の報告書ともなれば膨大な量になる。
身体を動かす事が一番のストレス発散になるのは、ガイアも他の隊員と同じなのだった。
そんなガイアにとって一番の苦行である書類仕事を終えた後、最後の仕事として報告書を提出に向かう途中、本館の廊下で声をかけてきたのは二番隊隊長のアズだった。
アズは手に封筒を持っており、どうやら目的地はガイアと同じらしい。ガイアは疲れた顔を隠しもしないでアズに手を挙げ、仕草でアズに返事を返す。それにアズは眉尻を下げて笑うと、水属性回復魔法をガイアにかけるのだった。
「ほら、気休めだけど。随分と疲れているね。そんなに印を捺すのは大変だった?」
クスクスと笑う口を軽く曲げた指で隠しながら言うアズに、ガイアは恨めしいような不満そうな複雑な顔を向ける。言葉に出して文句を言わないのは、気休めとはいえ回復魔法をかけてくれた事に対する礼だろうか。
気力を回復させるのは水魔法に向いていない。どちらかと言えば聖属性魔法にこそその本分はあり、回復魔法や結界魔法の守護する魔法に特化した属性だけはある。
アズは回復魔法を水属性の物しか習得しておらず、聖属性魔法が使えない事はないが回復魔法はお手上げである。そのため水属性による回復魔法をガイアに使用したのだが、当然ながら任務で怪我をしたり疲れたという考えはない。
報告書を読んで印を捺すのに疲れたのだろうというアズの予想は、一つの例外もなく全て正解だった。
「いやぁ、回復魔法は有り難えけどよ。どーせ全部アズの予想通りだよ。こっちは書類仕事で疲れてんだよ。ったく、勘弁してくれよな…。一番隊はどうして俺みたいな書類関係が壊滅的な奴ばっかなんだよ…。」
そう、ガイアが疲れている一番の理由はこれだ。
一番隊にはガイアと同じく書類仕事が苦手な者ばかり。つまり、上に上がってくる報告書は報告書の体を成していない物が多いのだ。そしてそれを読まねばならないガイアは更に疲れる訳で。
過去に一度、内務官達に書類制作の講義をしてもらった事がある。これは小隊長以上の者は強制参加とし、ガイアもそれを受けた。だが、内務官たちの講義について行けた者は副隊長のみ。他は皆、闇属性魔法の一種である催眠魔法を受けたかのようにグッスリと眠ってしまったのである。
当然ながら講義を行った内務官は怒り、最初は隊員が寝る度に水球を頭から被せていたのだが、すぐに魔法で乾かしてまた寝に入る一番隊に呆れてしまい、熱心に聞いている副隊長にだけ真面目に講義して帰った。
その後、内務官から盛大な苦情を受けたのは言うまでもない。そして、二度と講義などしないとも言われてしまった。
寝ていた一人でもあるガイアはそれにペコペコと頭を下げるしかなく、問題児だらけの一番隊は内務官から盛大に怒られる羽目になった訳である。
そんな一番隊を哀れに思ったヴェルムが、一番隊の昇格の条件に書類整理が出来る事を追加するのはどうだと提案するも、それは他ならぬガイア自身から拒否されている。何故なら、そんな事を条件にしては誰も昇格出来ないからだ。
ヴェルム自身は一番隊の書類がそこまで酷いとは思っていない。それは副隊長が全て書き直しているからで、ヴェルムが目にする書類は全て丁寧で完璧な物になっている。その前段階が酷すぎるという事実に気がつかないのは仕方ないだろう。
何にせよ、書類仕事で疲れてしまったガイアを見るアズの目は温かい。同情も含まれているが、そもそもガイアが書類仕事を苦手としているのだから、寧ろその同情は副隊長に向けられてさえいる。
共に歩き出した二人はそれからしばらく沈黙していたが、ふと何か思いついたようにアズがガイアを見た。
「あ、そうだ。準騎士を借りるのはどう?一番隊志望の準騎士を見習いみたいな形で週に一度か二度、隊の訓練とかに参加させて。書類仕事に関しても少しやらせてみるとか。」
思いつきで言っているため採用されるとは思っていないアズだったが、その意見に目を輝かせるガイアを見て少し後悔が押し寄せる。特に深く考えず言っているため、もしこのままガイアがヴェルムにこの案を提出してしまえば突っ込み所が多すぎて、ガイアの表情が期待から絶望に変わるのは予想がつく。
寧ろその突っ込みをガイアから受ける事を期待して言った案だったのに、存外ガイアが乗り気になってしまった。
焦ったアズは慌てて案の穴を口にするが、ガイアはもう団長室へ向かう足を進めてしまっている。疲れてしまっていた先ほどより速い歩みに、アズはため息を吐いてから追いかけるのだった。
「却下だね。」
団長室に入室してすぐ提案されたそれは、たった一言で棄却された。その理由は説明されずとも分かっているアズは、やはり、といった顔で黙っている。
ガイアは逆に、何故、と固まっていた。ヴェルムは説明するのも面倒なのかアズを見て困った顔をしており、アズはここに来て罪悪感が膨らんでいた。
「ガイア、さっき伝え損ねたけど…やっぱり無理があるよ。五隊の書類は、国で言えば国家機密に近い物ばかり。団員とはいえ準騎士は隊員じゃないから、その機密に触れる可能性が高い。僕らは機密を漏らす事など無いと断言出来るけど、彼らはまだ未熟なんだ。だからこその準騎士という立場であり、任務も最低限しか無いんだよ。それに…」
ヴェルムから突っ込みを受ける前に説明を始めたアズは、このような提案をしてしまった罪悪感からか丁寧にガイアに語る。そしてその言葉を一度止めると、視線をヴェルムに向けて下がっていた眉尻を更に下げた。
ヴェルムも同じくアズを見ながら眉尻を下げており、ガイアは続きが想像出来ずに首を傾げている。
「それに?」
続きを語らないアズに痺れを切らしたガイアが問えば、アズは一度ため息を吐いてから言葉を紡ぐ。
「準騎士に頼らないで一番隊がそもそも書類仕事が出来るようになるのが先じゃない?って事。いつまでも副隊長に頼り切りで甘えて。果たしてそれで団長に胸を張って任務完了を告げられる?ガイア、君はまだ良いんだよ。隊長だからこそ、書類作成じゃなくて認可が一番の仕事だからね。当然、隊長が作成すべき書類くらいは自分で作ったほうがいいけど。それよりも問題なのは、ガイアも書類仕事が苦手だからって甘やかしている隊員の方。それで準騎士が一番隊の仕事を舐めてしまって、未来の隊員がそれで死んでもまだ甘やかすの?僕らは家族だけど、甘やかす事の意味は考えないと。さっきはこんな指摘をガイアにしてほしくて思いつきを言ったけど、思ったより疲れていたんだね。こんな事にも気付かないなんて。」
敢えて厳しい口調で言うアズに、ガイアはハッとした表情を向ける。そしてアズに返事を返すのではなく、ヴェルムに向き直って頭を下げて謝罪を口にするのだった。
「団長!すんませんでした!腑抜けた姿を見せてしまって恥ずかしい。全部アズの言う通りです。腕っ節だけで団長を支えるなんざ、思い上がりも良いところだ…。俺も含めて鍛え直します!」
そこに先ほどまでの疲れた様子のガイアはいない。既に気持ちごと前を見ている彼は、ヴェルムが言葉を発するのを頭を下げたまま待っていた。
それが分かっているヴェルムも、敢えて暫く無言だった。その間にアズを見ると、アズも頭を下げた。ガイアに下らない提案をした事を謝罪しているのだろうが、ヴェルムは二人を罰する気などない。彼らの決意や気持ちを固める時間のために黙っているが、彷徨わせた視線の先にいたセトからもスッと視線を外されてしまっては、ヴェルムが出来るのは黙って威厳を醸し出す事だけだった。
それから数秒黙ったヴェルムが、ゆっくりと椅子から立ち上がる。そしてガイアの側まで近付くと、その頭をそっと撫でる。ガイアは驚いたようだったが、その頭を上げることはしなかった。ヴェルムはガイアを撫でる手はそのままに、もう片方の手をアズの頭に乗せる。
言葉にせずともその行動で二人は全て救われた気持ちになる。だが、それに甘えてはならないと気持ちを改めた瞬間に離れていくその手に、寂寥感を感じながらも己を戒める決意で上書きして、二人同時に頭を上げる。
ヴェルムはそれを満足そうに見ながらソファに座るのだった。
「大丈夫。一番隊の書類関係が壊滅的なのは今に始まった事じゃないからね。ついでだから、私の愚痴も聞いて行ってくれ。」
軽く笑ったヴェルムがそう言いながら、二人にソファを勧める。二人は軽く一礼してから沈み込むような柔らかさに身体を預け、報告書をヴェルムに差し出す。それらを受け取ったヴェルムがアイルへ目配せすれば、その必要もないほど早くヴェルムの前に淹れたての紅茶が差し出され、次いで二人の前にも珈琲と紅茶が給された。
それに礼を言う二人は兎も角、ヴェルムはアイルを見て穏やかに微笑んでいた。ヴェルムは見たのだ。隊長二人を撫でた時、アイルがほんの少し羨望の眼差しで二人を見ていたのを。
これは後でアイルを撫でてやらねば、などと関係ない事を考えながら、ヴェルムの言う愚痴とやらが始まるのだった。
「そんな訳でね。カサンドラが隊長だった時は酷かった。何せあの部族は皆、字など書けないんだから。今は側近として動いている爺は当時も彼女の側近のように動いていたけどね。彼はカサンドラ以上に暴れたがりだから。ねぇ、セト。」
ヴェルムが楽しそうに笑いながら問い掛ければ、セトも頷いて同意を返す。そしてガイアとアズの知らないカサンドラ隊の話を続けるのだった。
「カサンドラ嬢は独特というか、特殊なお方ですからなぁ。そもそもあの部族自体、戦化粧などという謎の魔法で強くなりますし。今も昔も、脳が筋肉で出来ているのではないかと興味が湧く方々なのは間違いありませんなぁ。あぁ、あの二人が任務に失敗した時は笑い物でしたな。」
ガイアやアズにとって、カサンドラ隊というのは零番隊の精鋭に次ぐ実力者の集まりだ。彼女の出身である部族の民が部隊のほとんどを占めており、驚異的な戦闘力と鋭い戦略眼、そして一縷の隙も無い団結力が凄まじい、というのが共通したイメージである。
だがセトからすればそうでもなく、カサンドラ隊の中枢二人の失敗談など、掘り起こせば幾らでも出てくるようだ。それはヴェルムも同じで、ガイアが隊長となった一番隊よりもカサンドラが隊長だった頃の一番隊の方が大変だったと語る。
それはガイアやアズが生まれる前の話もあり、実際にまだ三十手前のアズからすれば全てが未知の世界だ。
若者は昔話を忌諱する傾向にあるが、アズは寧ろ昔話を聞きたがる性格だった。それは、過去の失敗から学べる事が多くあると実感しているからだった。故にカサンドラの失敗談も何か自分の身に出来るかもしれないと真剣に聞くが、その必要がない程呆れた失敗が多いのがカサンドラという女傑だった。
「え、カサンドラさんって馬に乗れないんですか…?」
アズが信じられないというように問えば、セトはほっほ、と笑いながら肯定する。
カサンドラは馬に乗れない。これは事実だ。彼女の騎乗術が下手なのではなく、馬が怖がって乗せてくれないのだ。常在戦場を掲げる部族の出身であるため、殺気を隠したりしない。人にとっては気付かない程度の殺気でも、動物はそれを敏感に感じ取る。気配や殺気を隠すなど出来てもしないカサンドラは、それが理由で馬に乗れない。
カサンドラが走れば馬より速く馬より長く走れるため、乗る必要が無いのも理由の一つだろう。
いつの間にかカサンドラの失敗談で盛り上がってしまった団長室だが、コンコン、と扉をノックする音で静かになる。ヴェルムが扉に向かって許可を出せば、入室して来たのは話題にあがっていた人物その人だった。
「よぉ、小僧ども。元気にしてるみたいだねぇ?アタシの悪口を餌にお茶会かい?」
ガイアの真紅の髪よりも更に紅く、流れる血を想像させる太くて長い髪を数箇所で纏めて一本にしているカサンドラ。
彼女は怒っている訳ではないが、若者二人を揶揄うために態と怒った振りで恐ろしい形相を浮かべている。
「カ、カサンドラさん!いや、違うんだ、その、いや、あの…。」
しどろもどろになるガイアに、一切の手助けをしないヴェルム。カサンドラの失敗談を暴露したのはヴェルムとセトな上、二人はその話を聞いていただけ。それなのにガイアが一番標的にされるのは、同じ一番隊関係者の誼だろうか。
そんな事を言えば、ガイアはそんな誼などいらんと言うだろうか。
カサンドラが団長室に来たのは偶然だが、その偶然もあってガイアは書類仕事以上に疲れた様子だった。アズもカサンドラは得意ではないのか、ソファの端っこで小さくなっている。
当のカサンドラは、報告書をヴェルムに差し出した後アイルの頭を撫でて、元気にしていたか、などと聞いている。アイルもそれにしっかり答えており、カサンドラに懐いているのがよく分かる。双子はカサンドラ隊と作戦を共にした事もあるため、気心知れた仲なのだ。
カサンドラの興味をアイルが引き付けているうちに撤退しようとしたガイアが、カサンドラに声をかけられて失敗してしまったりと諸々の問題はあったものの、団長室は今日も賑やかな声が響くのだった。
余談ではあるが、後に一番隊は書類仕事を真剣に学ぶ者が増えた。これは隊長であるガイアが書類と真剣に向き合うようになったのが大きな影響を与えたようだった。
最初の内は余計に副隊長の仕事が増える事になっていたが、それでも副隊長はガイアの作成した書類を真面目に添削し指導した。
副隊長のその根気と器に、ガイアは隊長を替わるかと問うた。しかし副隊長は言ったのだ。
"何を仰る。副隊長は誰でも出来るが、隊長とは向き不向きがある訳ですからな。私は誰かを補佐するのが一番似合うというだけの話。隊長は隊長らしくそこでふんぞり返っておれば良いのです。"
あんまりと言えばあんまりな言い草だが、ガイアはそれを聞いてニヤッと笑った。結局一番甘やかされてたのは自分か、と自嘲した事は誰も知らない。しかし、その会話の後から更にガイアが書類と格闘するようになったのは確かだった。




