200話
「クソッ、クソッ…!!なんなんだ、あのガキどもは…!」
サイス公爵領と隣接する男爵領で一番大きな町で、暗殺ギルドの五指と呼ばれる若い男が無様に逃走を試みていた。そこに支部で見せた強気な姿は無く、ただ己の命を守るために脱兎の如く逃げる姿があるのみだった。
彼が逃げているのは、二人組の悪夢からだ。五指の男が潜伏していた空き家に突如現れたそれは、誰何を問う前に魔法を発動してきた。この町で物資の補給をして先の町へ向かう予定だった精鋭も行動を共にしていたが、その最初の魔法で捕まったのを見たのが最後だ。その隙を突いて逃げる事に成功した彼だったが、後ろに一人付かず離れずの距離を追跡している気配を感じていた。
間違いなく先ほどの二人組のどちらかだろうと予測している五指の男は、この窮地を脱するために必死に思考を巡らせていた。そして実行中である策とも呼べない策は、なんとか二人組を引き離して各個撃破するというものだった。
しかしそれはあまりに分の悪い賭けだ。何故なら、空き家で二人組と邂逅した時、一人なら勝てるのであれば精鋭に時間稼ぎをさせながら戦ったはずだからだ。
あの時、五指の男は思考など挟む余地なく逃げを選択した。それは本能とでも言うべきか。
逃走している今ですら、自分の行動に思考など絡まなかった事が分かる。それでいて、その時の選択は間違っていないと断言できた。
それだけ実力差を感じたのは事実だったが、それは魔法を放った者に対して感じたのだと自分を鼓舞する。今自分を追っているのはあの時何もしていなかったではないか。そう思えばこその策だった。
十分な距離を稼げた所で、戦いやすい場所を見つけた。それは町を出てすぐの森だった。ここならば身を隠す場所にも困らず、暗殺者としては戦うのに絶好の場所でもある。
正面切って戦ったり、正々堂々などと口にするのは騎士だけで良い。汚かろうと姑息だろうと死人に口なしなのだ。つまり、勝った者が全てなのである。
暗殺ギルドの五指とは、実に暗殺者らしい暗殺者なのであった。強いて言えば、彼らは見つかる事を苦としない。それは見つかっても捕まらないだけの実力を有しているからこそ。
しかし今回に限って言えば、彼が基本に立ち返る程の難局、とも言えた。
目の前の森に入って追跡者を待ち伏せするべく視線を森に向けた彼は、そこであり得ないものを見た。慌てて走る速度を緩めて急停止するも、身体強化をかけて全力で走っていた身体が急に止まるはずもない。数メートル程地面を削りながら止まると、後ろには二本の轍が出来ていた。
そんな事も気にならない程焦る五指の男は、つい口から疑問を吐き出してしまうのだった。
「なぜ…!なぜ貴様がここにいるっ!」
声を荒げる彼に満面の笑みを向ける彼女は、先ほどまで一定の距離を空けて着いてきていたはずの存在だった。
「なぜ…?そんな事言っても困っちゃうなー。ちょっと先回りしただけなのに。この森に入るのは分かってたから。」
五指の男がこの森に入る事を決めたのはほんの数分前だ。それを最初からここに来る事が分かっていたかのように言う少女に、五指の男は一つの可能性に辿り着いた。
「まさか…。誘導してたってのか?この俺を…?あの空き家に二つあった入り口を片方しか使わなかったのもそのためだってか?」
その可能性を思いついてしまえば、流石に五指と呼ばれるだけあってその根拠は無尽蔵に出てくる。彼が言ったのもその一つだった。当たって欲しくなどないその予想は、無情にも少女の肯定によって事実となる。更に、少女は彼がまだ思いついていない理由も語り出す。それは、五指と呼ばれた若い男にとって死刑宣告と同義だった。
「ほら、空き家を出て最初の角を左に曲がったでしょ?あれは右に衛兵が見えたから。町を出る門は西門にしたでしょ?そこが一番手薄だったから。わざわざ衛兵に隙を作らせるのは無理だから、こっちで勝手に隙が出来る時間に合わせたんだよ?上手くいって良かったぁ。」
少女は水色の瞳を細めて笑う。年相応に可憐な少女であるはずのそれが、男には何故だか死神に見えた。
そして、彼にはあと一つだけ道が残されている事にも気付く。だがその思考ですら、目の前の幼い少女の皮を被った死神には筒抜けなのであった。
「そう、挽回出来るとしたら、それは私を倒すだけ。でもね、それが一番無理なんだ。…ごめんね。」
言葉と同時に少女は一瞬で距離を詰める。一挙一足に全神経を使って警戒していた彼は、その信じられない速度に驚きながらもかろうじて攻撃を回避出来た。
崩れかけた姿勢を戻しながら、追撃に備えて集中する。案の定、少女とは思えぬ速度で拳の振り抜きによる攻撃が彼を襲うのだった。
「流石っ!暗殺ギルド最後の五指は実力が違うんだね!」
最後の五指という少女の言葉に動揺を見せる訳にはいかなかった。動揺すればその隙を突かれて容易く倒される事が分かっているからだ。
圧倒的なまでの体捌きに精神攻撃。どこまで嫌らしい死神なのだと毒を吐きたくなる五指の男だったが、その余裕は既にない。
一旦距離を取ろうと後方に飛び退くも、綺麗に合わせられゼロ距離は数センチも離れなかった。
こうなってしまえば五指たる彼に出来るのは超至近距離によるナイフ格闘のみ。しかしそれでは彼の本領を発揮できない。腰に差したナイフを何とか抜いた彼は、そのナイフで応戦を試みるもその全てを回避されてしまう。
気付けば少女は鉄甲を腕に装着していた。
ならばと手数の多い突きに行動を変えるも、避けたり鉄甲で受け流したりとまともな攻撃は一度として入らない。
反対に少女の打撃も男にはまだ当たっていない。一瞬の気の緩みが生死を分ける感覚に、彼は段々と気分が高揚していくのを感じていた。
暗殺ばかり日々は、彼から命の危険を遠ざけていた。言葉にすれば矛盾も良い所だが、彼にとってはそれが真実だった。
気配を隠して潜めば誰も彼に気付かず、睡眠中の無防備な貴族や手洗いに立ち寄った豪商の喉にナイフを突き刺すだけ。
戦闘というものに感じていた命のやり取りは久しく無い。始まりはそれを感じるための暗殺ギルド入りだったはずの彼は、気付けば五指と呼ばれる失敗知らずの実力者になっていた。
その事実に気付かぬフリをしながら五指として生きてきた彼は、自分でも気付かぬ内に鬱憤を溜めていたようだ。今こうして目の前の少女とやり合う感覚に、次第に己の本能を呼び覚ますが如く五感を研ぎ澄ませていく。
一種の極地とも言えるその状態は、頭から余計な思考を取り除き目の前の敵を倒す事だけに特化していった。
そんな彼の状態に比例するように、少女は笑みを深めながら攻撃の鋭さを増していく。それに呼応するかの如くナイフを操る彼もまた、無意識に口角を上げるのだった。
だがそんな状態も長くは続かない。
これまで激しい攻撃を繰り出していた少女が、急に攻撃の手を緩めたのだった。これを好機と見た五指の男は、ナイフを強引に少女の鉄甲に当て込み、その衝撃を利用して後方へと跳ぶ。
そして背に負った大剣をここでようやく構える事に成功するのだった。彼の本領はこの大剣にある。どんなに邪魔でも必ず暗殺に背負っていく程には彼のメインウェポンと言えるそれは、斬るより叩き斬るという方が正しい武器だ。
油断なく大剣を構える彼に、少女が攻撃の手を緩めた理由などわからない。しかし見た目通りまだ幼く体力が無いのではないかと分析していた。
何にせよ、こうして距離をとって本来の得物を構える事が出来たのだ。ならば負けは無い。そう思えるくらいには彼の大剣の実力は高かった。
だが。少女が攻撃の手を緩めたのはそのような理由ではなかった。その答えは少女の口から齎される事になる。
「うーん。やっぱり鉄甲は苦手だなぁ。全然当たんないや。ま、一つに拘ってるのもウェポンマスターらしくないかぁ。…よし、やるぞ〜!」
何やら一人で呟いた少女の言葉に、五指の男は驚きを隠せなかった。それもそのはず。これまで散々に苦しめられた鉄甲による攻撃は苦手な武具で。加えてウェポンマスターと言ったのを確かに聞いた。
ウェポンマスターと聞いて笑うのは冒険者か傭兵だけだ。なぜなら、彼らにとってウェポンマスターとは器用貧乏を良く言った程度の認識だからである。
どんな武器でも使い熟すという真のウェポンマスターに出会った事がないのだから仕方がない。しかし、苦手だという鉄甲であそこまでの実力を見せられた五指の男は、冒険者や傭兵のように笑う気にはなれなかった。
しかし、生死の狭間で感覚を鋭敏にした彼はそれを危機だとは感じていない。互いに得意な得物で決着を、という欲求だけが彼を支配していた。
少女は油断なく観察している男に向かって駆け出す。その手には何故か鉄甲は無く、それを彼が疑問に思う間もなく空いた距離を詰めるのだった。
「ごめんね、もうお迎えが来ちゃった。」
少女が呟いた言葉が、何故か彼には遠く聞こえた。駆け出したと思えば驚異的な速度で迫ってきた少女は、確かに何も持っていなかった。
しかし気付けばその手に彼が持つ大剣よりも一回り大きな大剣を持っており、先ほどの鉄甲よりも速い振り下ろしが彼に迫る。咄嗟に大剣を合わせたはずだったが、手には何の感触も無かった。次いで感じた胸の熱さに、彼は自分が斬られた事を悟る。
実際には二秒ほどの出来事が、彼には永遠と等しく感じる程濃く長い時間だった。
倒れゆく身体から一気に抜けていく力と、視界の端に映る真っ二つになって飛んでいく己の愛剣。これが人生の最後なのだと否応なく感じる彼が口にしたのは、彼自身も思っていない言葉だった。
「く、空間、魔法とか…。そんなの、有り…かよ…。」
彼は斬られる直前、少女が空間魔法から身の程もある大剣を取り出すのを見ていた。初めて見るその魔法は、彼にとって伝説の魔法。一度は見てみたいと思ってはいたが、まさかに死に目に見るとは思っていなかった。
水帝を兄と慕った若い男は仰向けに倒れ、そして動かなくなる。不思議とその表情は満足げにしており、倒れた彼を見る少女は既に大剣を空間魔法に仕舞っていた。
「カリン。お疲れ。」
そんな少女に届く声。それは五指の男が本能的に敵わないと判断した二人組の片割れの声だった。
「アイル。そっちは片付いた?」
ドラグ騎士団零番隊の隊服に汚れ一つ付けず戦いに勝利したカリンは、片割れであるアイルに事の進捗を問う。するとアイルはそれに頷きで返し倒れた男に近寄った。
それから男の懐を漁ると、一つの注射器を取り出すのだった。
「それ?地竜さんの血を使ってるって薬。なんか如何にも身体に悪そう…。」
カリンが率直な意見を言えば、アイルもそれに同意するように頷いた。そして注射器をマジックバッグに入れると、カリンを見るのだった。
アイルが何も言わずともその意図を把握したカリンは、男に近寄り空間魔法の口を開く。そしてその中に男の遺体を入れるのだった。
彼の持ち物をもっと探らねばならないが、今は時間がない。そのため遺体ならば入る空間魔法に入れて後で持ち物を検めるつもりなのだった。
「次で最後だったよね?さ、早く終わらせて師父たちに会いに帰ろっ!」
遺体の収容を終えたカリンは身体を伸ばしつつアイルに語りかける。アイルもそれには異論が無いようで、五指の男から飛び散って地面に付着した血を魔法で洗い流してからカリンの側に寄る。その手にはカリンが斬り飛ばした大剣の刃部分が掴まれていた。
「それ、どうするの?」
壊れた武器など鋳溶かしてインゴットにするくらいしか使い道はない。カリンの見立てではこの大剣は業物ではあるが、カリンが持つ複数の大剣のどれより劣るのは確かだった。
であれば修理して使うという道も無い。しかしアイルが持ってきたのだから、それには理由があるのだとカリンは信じて疑わない。その予想は正しく、アイルはいつもの無表情ながらその理由を言葉にするのだった。
「これ、せめて墓標にしようと思って。きっとこの人にとって大事なもの。」
アイルの言葉に、カリンは笑顔を浮かべる。カリンにとってアイルのその優しさが嬉しかった。
暗殺者として数多の人々を殺めた彼も、骸になれば他の者と変わらない。死してまで尊厳を踏み躙る意味もなく、墓標にというアイルの意見はカリンに戦闘の強さ以外の強さを感じさせた。
互いに出来ぬ事をする。そう誓った双子は、こうして互いを理解しあう。そして互いの行動に敬意を持って過ごしているのだった。
「うん、そだね。ありがと、アイル。」
そう言うカリンの顔は、夕日に照らされてとても美しくアイルには見えた。




