193話
ドラグ騎士団団長のヴェルムは、オークションで盛り上がりを見せる国立劇場の関係者控え室にいた。
いつもと同じように白銀の差し色が入った隊服を着用し、腕には隊長を示す腕章。長く伸びた白銀の髪は、今日は緑の組紐で括られている。
ヒト族の成人男性よりも幾らか大きな身長は、大き過ぎず小さ過ぎずちょうど良い。そのように意識して人化しているのは本人だが、人化の魔法に慣れぬ人外の者は殆どがその大きな魔力を抑え込めず、身体もそれに応じてヒト族にしては大きな姿になる事が多い。
ヴェルムは数百年の間、ほぼ全ての時間を人化して過ごしてきた。これで慣れないはずもなく、意識などせずとも膨大な量の魔力を凝縮させて過ごしていた。
この行動は思わぬ副産物を生み、今では竜の姿に戻ると昔よりも遥かに質の高い濃密な魔力が彼を覆う。嬉しい悲鳴とも言えるこの結果に、彼は大いに満足しているのだった。
鍛えれば誰でも視ることが出来るようになる魔力だが、ヴェルムの竜の姿は魔力を視るとその膨大な魔力に飲み込まれてしまうと家族は言う。ならば視なければ良い、と返したのは至って真面目な顔をしたヴェルムで、そのあんまりな回答に家族も呆れた顔をしていた。
今日もいつものように人化の魔法でヒトの姿をとってゆったりと椅子に座っており、側に控えるメイドの給仕によって置かれた紅茶を飲んでいた。
ヴェルムの側には三番隊隊長のリクがおり、別の椅子に座ってテーブルに置かれた茶菓子に手を伸ばしていた。彼女にも同じ紅茶が給仕されているが、一度も手を伸ばした様子はない。
リクは猫舌な事に加え、どうやらこの紅茶が好みではないようだ。
美味しそうにビスケットを食べるリクを目の端に捉えながら、仄かに微笑むヴェルム。窓から差し込む光は午前中を示しており、東と南の方角に設置された窓はどちらも存分に光を取り込み部屋を明るくしていた。
二人がここにいるのには理由がある。今回のオークションを開催するにあたって、会場の警備はドラグ騎士団が引き受けた。昨日と今日の二日間、警備責任者として統括しているのはリクだ。これはヴェルムからの指示ではなく、リク本人からの立候補だった。
子どものような振る舞いの多いリクだが、それだけではない事をヴェルムは知っている。今回の立候補にも様々な状況を考えたリクが自ら言い出した事で、ヴェルムとしてもそれが最善だと考えた。
今回のオークションには多くの思惑が絡まる。王家としては打撃を受け続ける国庫を潤すために。貴族たちは珍しい品の入手と財力の誇示。
ドラグ騎士団としては、オークションを罠に暗殺ギルドが動く事を期待していた。そのため諜報部隊である三番隊が警備の主を担うのは都合が良い。
貴族が多く集まるため、見た目からしてガラの悪い一番隊や理屈っぽく権力を嫌う二番隊には相性が悪い。四番隊は何かあった時のために待機、五番隊はほとんどがアルカンタにいない。何をしているかと言えば、三番隊が手を離せないため暗殺ギルドの支部がある三つの領地に散っているのである。
そして現在二人が関係者控え室にいる理由。それは緊急時にこの部屋を作戦本部にするためだった。この部屋の隣には、会場となっている演劇ホールに面した部屋がある。そこからは内部の様子も見る事が出来るため、現在の進行度を見て把握する事も可能だった。
もうすぐ昼休憩に入る事はわかっているが、警備としては最も注意せねばならないタイミングである。壇上に客の意識が集まる時ではなく、食事のために外に出たりする者が多いこの時間が警備の難しさを増すのは当然の事だろう。
オークションという催しである関係上、貴族だけがいるわけではない。寧ろその供や係の者、給仕や警備を考えれば貴族以外の方が圧倒的に多いだろう。
高位貴族は二階や三階のボックス席を使用するため昼食もそこで摂る者が多いが、一階の一般席に座る貴族や商人たちはその限りではない。ほとんどの者が劇場内に併設されたレストランに行くが、高ランク冒険者には午後の部に間に合わない事を承知で外に食べに出る者もいる。
レストランも二つ入っており、地位によって自然と棲み分けがされており、二階にあるレストランでは高位貴族やその寄子の貴族、一階では伯爵以下を寄親とする寄子の貴族や商人たちが社交の場として利用している。
昨日もレストランでの社交は話に華が咲き、午後の部の開始が少々遅れた。少々で済んだのは、レストランに出て来ていない王家や公爵、侯爵家の遥か高みにいる貴き者たちを待たせる訳にはいかないからである。
それでも遅れるあたり、貴族たちに自分中心な考えが根付いている証左でもあった。だがそれを上に立つ者が赦す度量を示す事も、そしてそれを大袈裟に褒めそやす下の者がいる事も社交界としては必要な流れであった。
ヴェルムや騎士団の者たちはそれを無意味な茶番と称すが、それをしないと生きていけない生き物が貴族というものだと理解もしていた。
誇りや矜持で腹が膨れるか、と言うのが平民で、膨れる、と返すのが貴族というものだ。ある意味一生相容れる事が出来ない関係だろう。
しかしどちらもいなくなると困るのだから、人とは不思議なものである。
そんな下らない事をのんびり考える暇がある程、ヴェルムは黙って紅茶を飲みながら、菓子を頬張るリクを眺めながら微笑んでいた。
会話もなくただ咀嚼音が聞こえるだけのこの部屋には、気まずさはない。部屋の隅に立つメイドは緊張しているが、ヴヴェルムとリクの間には寧ろ和やかな雰囲気があった。
「ねぇリク。」
徐にヴェルムがリクを呼ぶ。それは何かの合図のようでもあり、しかしその声に緊張感はない。まるで愛しい恋人を呼ぶように囁かれたそれは、リラックスしたヴェルムの優しくて甘い声で紡がれていた。
「ん?なぁに、団長。これ欲しいの?」
んく、とビスケットを飲み込んだリクは齧りかけのビスケットを片手に持ったままヴェルムを見て、菓子を分けて欲しいのだと勘違いしている。それにヴェルムは首を振って、少しだけ前屈みになる。ヴェルムから伸ばされた手をリクは避けず、寧ろ少し顔を近付けるのだった。
クスリと笑ってから伸ばした手をリクの顔へ近付ける。嬉しそうに細められた目には長い睫毛がその存在を主張していた。ヴェルムの手が頬に当たる事を期待したリクだったが、その手は彼女の唇とその横を指で撫でるだけで離れていった。
物足りないと言わんばかりの不満そうな目を開けてヴェルムを見るリクだったが、その後にすぐ伏せられる。その理由はヴェルムがリクの口周辺についたままのビスケットの欠片を拭ったのだと気付いたからだった。
食べ物をつけたままにする程夢中になった事も、何かを期待した己もどちらも恥ずかしい。だがそんな事は頭を撫でられた事でどうでもよくなった。嬉しさがむくりと頭を上げ、それに逆らわず享受するリクはフッという笑い声と共に離れていく手に縋るように顔を上げ、それを目撃する。
ヴェルムは撫でた手とは別の手の指先をぺろりと舐めた。それはリクの唇から取ったはずの欠片で、それが意味する事を瞬時に察した顔を真紅に染めまた伏せる。
二転三転と目まぐるしく変わる感情の渦に、リクはただただ翻弄されるだけだった。ドラグ騎士団では団員同士の回し飲みなど頻繁に行われているが、己の唇に触れた手をそのまま口に持っていくとは思っていなかったため不意打ちの形になった。
紅さと比例して熱くなる顔に、無意味と知りながら手で風を送るリク。その様子は彼女の混乱が手に取るように分かる程率直で、そんなリクに思わず笑うヴェルムだった。
「もう…、団長のいじわる!」
リクに出来る事は何の効果もない文句を言う事だけだったが、大きな声を出した事で逆に顔の熱が更に上がった気がして後悔するのだった。
穏やかに微笑むヴェルムはなぜそんな事をしたか。聞かれれば彼はこう答えただろう。
暇だったし、リクが可愛かったから。
と。
リクを翻弄して楽しむヴェルムに罪悪感など一つもなく、そんなヴェルムをリクは好んでいる。普段からこんなやり取りをするため団員たちも二人を見守ったり参戦したりと騒がしい。処構わずいつも通りに振る舞うのは、ヴェルムらしいと言えばそれまでだった。
そして、部屋の隅に立っていたメイドは後に同僚へこう言った。
あんな甘々な空間耐えられないよ!眼福だよ!?眼福だけどさぁ!!
オークション二日目の最後に紹介された商品は、侯爵領で発見されたワインである。その地域が伯爵領だった頃に魔物によって全ての葡萄畑とワイン蔵は放棄されたが、後に現在の侯爵領となり再びワインの生産地として復活した。しかしその敷地面積は当時の半分ほどしかなかった。
話題性と生産量から、かなり高額の希少ワインとしてもう一度有名になったこのワインの、更に貴重な当時のワインが手に入ったとなれば全貴族の羨望を集めるだろう。
噂程度に希少なワインが出品されるとは聞いていた貴族たちも、まさか失われたはずの、ここにある訳がないワイン。それは最早、貴重どころではなく幻と言えた。
会場は騒然となったが、司会が上手くタイミングを見て用意された口上を述べる。その紹介は貴族にとっては周知の物がほとんどだったが、更に客を驚かせる内容もあった。
それは、ワイン樽に書かれた製造年である。当時は数十年寝かせた物も製造していたとはワイン通なら誰でも知るところだったが、オークションに出て来たのはまさにそれである。当時ですら数十年寝かせた物だったのに、現在までそれが寝かせられていればどんな味がするのか。
ワインに詳しくない者や驚きのあまり考えが及ばない者は多かった。
国王が予想した結果にはなりそうもない。それは司会の巧みな誘導も大いに関係しているだろう。会場の静けさが戻る前に、早速売りを始めたのである。
開始金額は二日間で最も高かった。だがそれも数秒で何十倍にも膨れ上がった。待っていたとばかりに金額を釣り上げ始めた高位貴族の存在である。
初めのうちは大店の商人なども数人参加していた。だがその金額が商会の月収にさしかかった所で撤退する。それはものの数秒の勝負だった。
結果的に、白金貨という最上位の貨幣が千枚という途方もない金額で決着した。金貨よりも高価な金版貨の更に上に存在する白金貨は、高位貴族ですらほとんど所持していない。
しかし一部の貴族には払える金額でもあった。何故なら、今回は国が貸付をしているからだ。十年で完済するように組まれたその貸付は、利子もそこまで高いとは言えなかった。そのため気楽に貴族たちはそれを当てにした。
最終的には王家の得が増え、全てのオークション品に手数料もかかっているため、貸していても黒字になる程の売り上げを記録した。
ワインを落札したのは公爵家当主だ。彼は勝者として栄誉と尊敬、羨望をしばらくの時集めることだろう。
二日間で最高金額を記録しながら落札した公爵に、会場は惜しみない拍手を贈るのだった。
ヴェルムは会場を見渡せる部屋から油断なく客の観察を続けている。そして数人の客に目処をつけると、ニヤリと笑って呟いた。
「ほら、ゴウル。貴族はワインではなく樽を欲しがっただろう?」
その呟きは当然、遠く離れた国王には聞こえない。だがその時国王は確かに苦虫を噛み潰したような表情を一瞬だけ浮かべたのだ。
国王にはヴェルムがそう言う事も予想がついた。得意気に笑う友の姿を想像して苛立った国王の表情は一瞬だったが、貴族の前でも感情を出さない国王の表情を離れていても変えられるのは、流石のヴェルムと言えた。
ワインではなく樽を欲しがる。それは実際に飲む為ではなく最高金額の物を競り落としたという実績や賞賛を望む貴族がいるという意味だ。
ヴェルムが予見した通りになったのは確かで、国王としてはこれで国庫も潤うのだから文句など言えない。だが何故か腑に落ちない気がしてならないのだった。