188話
ドラグ騎士団団長のヴェルムは己の執務室である団長室でのんびりと紅茶を飲んでいた。
今日の紅茶は秋に採れた物で、紅茶は春に採取した物や初夏の物、秋に採れた物でファーストフラッシュ、セカンドフラッシュといった名称がつく。更にその産地、そして採れた時期によって適切な淹れ方も変わるため、同じ茶葉でも様々に楽しむ事が出来る。
ヴェルムはそんな紅茶をいたく気に入っており、大陸中どころか他大陸の茶まで集める拘りがあった。
そんな複雑な紅茶の淹れ方を熟知しているのはセトで、アイルはそれをセトから教わっているのだが、アイルの非凡な頭脳はここぞとばかりに発揮されていた。
一度淹れた茶は淹れ方を覚えており、更に飲む人の好みの温度や濃さに合わせて調整することすら可能となった。これには師匠であるセトも驚いており、その恩恵を一番受けているヴェルムも流石に驚きを隠せないのだった。
「うん、美味しい。私の好みはアイルに把握されてしまったね。」
漆黒の瞳を細めて穏やかに破顔するヴェルムは、その短い言葉に己の感情を全て内含させていた。ほっほ、と笑うセトはその意図を理解した上で揶揄うような視線をヴェルムに送っている。
急に褒められたアイルとしては、いつもと同じ事をやっただけで褒められる事に若干混乱してはいたものの、主人が喜ぶ事が己の喜びだと感じる性分のため、純粋にその言葉を受け取ったようだった。
「ありがとうございます。精進します。」
いつもと変わらず無表情であるのに、ヴェルムとセトにはアイルから花が舞うように幻視した。アイルの気持ちを表現するように舞う花は、褒められて喜ぶ犬のようですらあった。
そこまで喜ばれてはヴェルムも言葉の真意を告げる訳にもいかず、眉尻を下げてセトを見る。
セトも同じような表情で主人を見ていたが、主従で意識が揃ったのが可笑しくてフッと笑い声をあげる。
アイルはそれをキョトンと見ていたが、主人が何でもないというならばそうなのだろう。別のポットに紅茶を準備し始めた。
そんなアイルを見たヴェルムとセトが、感心したような表情で頷く。何故別の紅茶を準備しているのかと言われれば、その答えがもうすぐ現れるからである。
コンコン。
団長室の扉がノックされ、来客を告げる声が扉越しに聞こえてくる。ヴェルムが入室の許可を出してからすぐに開いた扉から、四番隊隊長のサイサリスが現れたのだった。
サイがこちらに向かう気配を感じていたヴェルムは、その速度が歩くよりも多少速い事に気が付いていた。急ぎの報告でもあるのかと考えていたヴェルムだったが、サイの表情を見てそれが悪い物ではない事を悟る。
サイが多少急いで来たのは事実だったが、緩くウェーブした金に輝く長髪に乱れはなく。隊服の外からでも分かる凹凸のハッキリした身体と、紅を刺したふっくらした唇。グラナルドで一番の美女はと聞かれて、ほとんどの者がサイの名を挙げるくらいに整った容姿。強いて言えば細くて長い指で整えられたフレームレスメガネが少しズレていたのが急いでいた証左か。
そんなサイは綺麗な敬礼を見せた後、持っていた報告書をセトに渡す。セトは両手でそれを受け取ると、ヴェルムが座る執務机まで持ち運んだ。
その間にアイルがサイをソファへ案内し、サイはそれに礼を言ってから音もなく腰掛けた。
執事たちの鮮やかな連携だが、これが出来るようになったのはここ数年の事である。アイルが団長専属執事になるまで、セト一人でこれらを行っていたのである。
団員には他にも執事や侍女をする者が多くいるが、そのほとんどは各部署の長たちの世話であったり、本館や隊舎、その他の建物の維持をする仕事に忙しい。
アイルが専属執事となったのは、単にセトの弟子だからである。セトは零番隊特務部隊の部隊長でもあるため、他の業務で手が離せない事もある。アイルが執事になったのにはそんな背景もあった。
「サイス公爵ね…。彼は色んな所で問題を起こすね。今回は愛人との買い物で市民を轢きそうになった、か。」
サイが持参した報告書は、数時間前に起こった事件についてだった。普段はこういった小さな事件は部下が報告書を持ってくるのだが、何故か今日はサイが持ってきていた。
何処となくサイの機嫌が良くない気がしたヴェルムは、サイが来る前に温めていたポットから紅茶を注いだアイルに目配せを送る。
それだけで意図に気付けるようになったアイルは、随分とヴェルムの思考を読む事が出来るようになっただろう。
「こちら花の街産のセカンドフラッシュです。こちらのパウンドケーキと一緒にどうぞ。」
紅茶だけを提供する予定が、ヴェルムの指示によってパウンドケーキを出したアイル。それを視界の端で確認したヴェルムは、正確に意図が伝わった事を知る。自然と口角が上がるのは仕方ない事だろう。
これもアイルの成長を知る一つの出来事なのだから。
「あら。私の故郷の紅茶?あの街に紅茶なんて…。ん、花の香り?あぁ、薔薇の香りをつけた紅茶なのね。ありがとう。」
サイの故郷。それは西の国でも有数の街であり、ブルーム家が治める有名な観光地である。サイの記憶では紅茶の生産などしていなかったはずだが、それもそのはずである。
この花の香りがついた紅茶は最近売り出された物で、未だ混乱が収まらない西の国王都に頼らない、新たな観光資源として考えた物だからだ。
一度味見をするためにヴェルムとセト、アイルの三人で飲んだため、アイルは適切な温度や蒸らし時間を既に把握していた。
紅茶と共に出されたパウンドケーキは、地竜保護の一件で動いた零番隊にヴェルムが用意した特別ボーナスをアイルが希望した成果がこれだった。
金銭など貰っても給料だけで十分どころか余っているアイルは、ボーナスの内容を変更する希望を出した。ヴェルムはそれに驚きながらもすぐに許可を出し、その希望を聞いてもう一度驚いた。
それは、ヴェルムと共に菓子作りをしたい、というものだった。普段から甘えるということをしないアイルが、ヴェルムと菓子作りをしたいと言う。
ヴェルムはそれに一も二もなく許可し、空いた時間で共に菓子作りをする約束をした。
折角ならと、材料を買い出しに行く所から共に時間を過ごし、アルカンタを歩いて多種多様な店を見て回った。菓子作りとは関係ない店まで回った二人は、それから厨房に入って二人で大量のパウンドケーキを焼いた。
焼きたては団長室でセトも合わせて三人で食べたが、残りはどうするのかとヴェルムが問えば、アイルはこう返したのだ。
「団長室に来られる方への茶請けになればと思いまして。僕はヴェルム様と菓子作りが出来ますし、皆さんもヴェルム様が作ったと聞けばお喜びになるかと。」
そんなアイルの言葉に、ヴェルムは一度納得した後に続けた。
「仮にアイル一人で作ったのだとしても、皆は喜んで食べてくれるよ。でも、私たち二人で作ったこのケーキで皆が喜んでくれたらもっと嬉しいね。」
そう言ったヴェルムに、アイルは不器用な笑みを見せた。主人の凄さなど人から言われずとも分かっている。しかし、そんな主人と例えケーキの制作者としてでも名を連ねさせる事が出来るのは、アイルにとって喜び以外の何者でもなかった。
後日、任務から帰還した双子の姉カリンは拗ねた。
師匠であるヴェルムと弟のアイルが仲良く買い物デートして菓子作りをした、と。アイルばかりズルいと騒ぐ姉の口に、アイルはパウンドケーキを突っ込んだのだった。
「そういえばサイ、件のサイス公爵だけど。」
ヴェルムとアイルの共同制作だと聞いて喜んでケーキを頬張るサイに、報告書を読み終えたヴェルムが声をかける。
淑女たるサイがケーキを飲み込んで紅茶で洗い流したのを確認してからかけた声には、若干の憂鬱さが滲んでいた。
「はい。どうかされましたか?」
ナプキンで軽く口を拭いたサイが身体をヴェルムの方へ向けると、ヴェルムは一度ため息を吐いてから諦めたように話し始めた。
「サイへの婚姻申込がまた来ているよ。今日は何やら使者が慌てた様子で来ていたみたいだけど、この事件があったからだったんだね。つい先ほどの話さ。」
高位貴族といえど、本部には特別な用事なくして入る事は叶わない。国王ですら団長の許可なく入る事は出来ないのに、高位とはいえ貴族でしかない者は無理なのである。
更に、サイス公爵が送ってきたのは使者。しかも貴族子弟ではなく平民の使用人であることから、社交界ではこのような行動をとれば舐められていると取られても可笑しくはない。
事実、嫁にください、という態度ではなく。嫁にしてやるから寄越せ、といった態度だったという。
今日も門番に断られているのだが、それをヴェルムが知っているのは報告を受けたからであった。
その話にサイは呆れを通り越して表情を消した。虚無ともいう。
「いや、その、当然断りはしたからね。何度も何度も断っているし、会うたびにこれ以上の申し込みは遠慮するよう伝えているんだけどね。それにゴウルもサイス公爵家に苦情を入れてくれている。それでも諦めないのは困るけど…。」
申し訳なさそうに言うヴェルムに、サイは慌てて首を横に振る。何とも居た堪れない雰囲気に包まれた団長室だったが、それを意にも返さずブチ破る者がいた。
ほっほ。
突如笑ったのはセトだった。
彼は珍しく腹を抱えて笑っており、サイはそれを驚いて見つめている。アイルも同様だった。無表情ではあったが。
「セト。何か良い案があるのかい?」
尚も笑うセトに、ヴェルムは若干呆れながらも問う。すると笑いを収めたセトは自信満々にその案を出すのだった。
それから数日して。
ドラグ騎士団本部の東門に、サイス公爵自らが訪れていた。
「良いから早く団長を出せっ!サイス公爵が来ていると伝えろ!」
既に一触即発の雰囲気を出す公爵は、供に私兵をぞろぞろと連れていた。その数は十数名。いずれも殺気だっており、今にも剣を抜きそうな状態である。中には剣に手を添えている者もいるため、門の外にいる門番二人は油断なく護衛を見ていた。
ドラグ騎士団本部の門番は、準騎士が当番制で行う。そのため、公爵にとっては意外な者がそこにいる事を想像すらしていなかった。
「なんじゃ、公爵家の鼻垂れ坊主か。」
馬車などが出入りするための大きな格子状の門ではなく、その横にある壁に備え付けられた通用口から出てきたのは、グラナルドの元英雄、フォルティスだった。
彼も準騎士の立場である以上、門番は当番制である。本日は本部側の当番だったのだが、外が余りに煩いため出てきたのだった。
「だ、誰だ!儂に向かって無礼な口を聞いた奴は!」
馬車の前部には、御者に指示を伝えるための小窓がついている。そこから聞こえる公爵の怒鳴り声は随分と大きく、わざわざ公爵が身を乗り出して小窓から外を覗いたりもしないため、外の状況が分かっていなかったようだ。
「んぁ?おぉ、ヴェルムか。うむ。」
その存在だけで私兵たちに動揺を与えたフォルティスだったが、何やら一人で呟いた後ニヤリと笑う。横で見ていた門番がフォルティスに視線で問うと、不適な笑みのまま持ち前の大きな声で話し始めるのだった。
「おい、今日は門の魔道具を抜き打ちで点検する日だ!作動させろ!」
その言葉はドラグ騎士団にしか通じない、一種の暗号のようになっていた。だが、公爵家の私兵たちはその身でもって意味を知ることになる。
あいよっ!
門の内側から声が聞こえたかと思えば、ガコンッという音がして東門前の橋がゆっくりと動き始める。本部の周囲はとても広い堀が囲んであり、以前にもとある騎士たちがこの堀に落ちた。
同じことをやろうとしてはいるが、公爵家の者たちはこのような機能を知らない。
本部の門は特殊な魔法金属が使用してあり、如何なる魔法も通用しない。更には、門の地下に橋を収納する機能まで追加されている。つまり、公爵家の私兵たちは遠く離れた位置から段々と足場が消えていくのである。
しかしここで、以前とは状況が違う部分があった。それは馬車の有無であり、当然ながら馬車は後ろに進めない。橋が徐々に門の方へ吸い込まれていく中、ただ立っているだけでは門にどんどん近づいてしまう。だが門の前には門番が二人とフォルティスまで立っており、当たり前のようにその先へと進ませない姿勢だ。
ある意味背水の陣となるのだが、随分と遠くに街があるため最初は橋が収納されているとは気付かないのである。気付いた頃には跳躍だけでは届かない距離となっていて、唯一の脱出口は門のみとなる。
ドラグ騎士団本部はグラナルド国法も及ばない場所のため、許可なく立ち入ればそれが誰でも騎士団が処罰して良い事になっている。
当然貴族ならそれを知っている上、元より公爵も無理に押し通ろうとは思っていない。それをするには私兵の数が足りないのである。
公爵が事態に気付いた時には、馬車に繋いだ馬は後退ろうともがいていた。御者が必死に制御するも、今にも射殺さんばかりの殺気を向けている門番たちが恐ろしくて暴れる馬に、御者だけでなく馬車の中にいる公爵も慌てて外に出るのだった。
そこで初めてフォルティスの顔を見た公爵は、青ざめた顔をして周りを見る。既に私兵は混乱しており、未だ誰も堀に落ちていないものの橋は半分程が収納されていた。
「お、おい!これはどういう事だ!儂が誰だか分かってやっているのか!」
段々と短くなる橋に膝をガクガクと震えさせながらも強気な態度を崩さない公爵に、門番の一人が視線を向けて鼻で笑う。
「サイス公爵だと自分で名乗ったじゃないか。ほら、どうするんだ?落ちるのか?それとも、ここに不法侵入して斬られるか。あぁ、落ちて泳ぐって手もあったか。ほら選べ選べ。」
そう言った門番の顔は強面で、子どもが見れば泣き出す程に怖い。元々そんな顔つきのため貧民街の元締めのようなことをしていた彼がドラグ騎士団に入団して二十年程。未だに団員から顔が怖いと冗談混じりに言われる彼。
街では巡回の度に子どもに泣かれていたが、今では顔は怖くても優しい人だという認識を持たれている。
しかしこのような場面ではその顔面も武器になり得るのだった。
公爵はあまりの怖さに腰を抜かし、指示を待つ私兵たちは主人が使い物にならないと判断して堀に飛び込む者もいた。何故剣を抜かないのかと言われれば、勝てる気がしないからである。
元英雄と、並び立つ門番。三人の殺気だけで身動きが出来なくなった私兵は既に実力差を理解していた。
「なんじゃ、腰抜けばかりだのう。しっかりせんかい!」
フォルティスが怒鳴れば、その場に立っていられる者などいなくなった。すくみ上がって動けない者と、主人を見捨てて飛び込む者。段々と近付く馬車に、嫌々と暴れる馬。混沌としてきた橋の上で、公爵は身の危険を感じるだけだった。
「やはり上手くいきましたな。あの手の者はこんな策一つで堕ちるものですからな。」
満足そうな笑みを浮かべて紅茶を飲んでいるのはセト。彼は今、本部の中にあるスタークが管理する菜園横に作られたガゼボにてティータイムの真っ最中であった。
彼の対面に座るのはヴェルムで、普段なら絶対に立っているはずのセトが座っている理由。それはセトに紅茶のお代わりを注ぐサイにあった。
「本当にお陰様で助かりましたわ。あんな簡単な事でしたら、もっと早くにやっておけば良かったと後悔しましたもの。」
そう言って微笑むサイの顔に憂いは無い。清々しさすら感じるその笑顔は、数日前とは随分と違った。
あの日、セトが提案したのは実に簡単な事だった。寧ろ、誰も思いつかないのか不思議な程に簡単で、それは民意を利用するやり方だった。
サイは日頃から半休などがあればアルカンタ内の治療院に出向いて治療を行う。人口に対して回復魔法を使える人は多くなく、またそれを何人にもかけられるのは更に少ない。
治療院では回復魔法を使う治療師の数が不足しており、ドラグ騎士団四番隊は自主的に治療院に出向く者が多い。
サイはそこで絶対的な人気を誇っているのだ。貴族もお忍びで小さな切り傷を作ってまで来る者がいるくらい、彼女が何処の治療院に来ている、という情報にアンテナを張る者は多い。
そして治療を行う際、わざとため息など吐いてみせたのだ。すると、サイと仲良くなりたい者は必ずその理由を問う。
そこで公爵家の名前は出さないが、しつこい縁談に辟易している事を仄めかした。
サイス公爵が何十回もサイに縁談を申し込んでいるのは周知の事実であったため、聞いた者は皆すぐに誰だか分かってしまった。
そしてとどめに、縁談があまりにしつこいため体調が優れない、しばらくは治療院に来るのを控える、と言ってみせる。
するとどうだ。一瞬でアルカンタ中をこの噂が駆け巡り、サイという見るだけでも保養になる美人が街を歩かなくなるという噂まで付随する。
そしてその恨みはサイス公爵家に集まる。本部に公爵が押しかけたのも、その噂を聞いたのと他貴族や民からの突き上げを喰らったからだった。
「上手くいって良かったではありませんか。こちらは少し提案をしただけの事。しかしこのようにもてなされるのも悪くありませんなぁ。」
ほっほ、と笑うセトが飲んでいる紅茶は、サイが育てているハーブ類をブレンドした疲れの取れるハーブティーである。
お礼にとサイが準備したこの茶会だが、セトは随分とご機嫌で紅茶を飲んでいる。
またヴェルムも茶会に招かれるにあたり、手製の菓子を焼いて来ていた。それを茶請けにしながら菜園を眺めて飲む紅茶は、長年の煩わしさから解放されたサイにとって極上の味だった事だけは間違いない。
「あー!団長とさっちゃんとじーじが美味しそうなもの食べてるー!」
どこで嗅ぎつけたのか、リクが突撃してくるまでは静かで穏やかな茶会を過ごすのだった。