187話
とある日、アルカンタではちょっとした騒ぎが起こっていた。それは市民街と職人街の間の通りで起こっており、野次馬がガヤガヤと集まっては何があったのかを情報交換している。
道を塞いでいるのは野次馬だけではない。その中心にあったのは、横転した馬車と繋がれた馬が四頭。
どうやら事故のようである。野次馬たちも変に近寄ったりしないのは、その馬車が貴族の物である事を知っているからだった。
グラナルド国内で四頭立ての馬車を使用出来るのは貴族だけである。商人などは二頭立ての馬車を使い、貧しい村から農作物を街へ売りに出る馬車は当然ながら一頭だ。
更に言えば、横転した馬車は華美な装飾がされており、現在は空を眺めている横面には大きな紋章が描かれている。それは公爵家の紋章だった。
公爵家とは、他の貴族家とは少々扱いが異なる。
グラナルドの興りから支えてきた各部族の部族長が最初の貴族ではあるが、その後も功績を挙げた者が叙爵されたり、爵位を継げない次男以降の貴族出身の者が戦地や内政での活躍をもって国王から爵位を貰ったり。様々な要因で貴族家は増えたり減ったりを繰り返してきた。
しかし公爵家は別で、それ即ち王家との血縁なのである。
国王になれるのは一人。ではその弟はどうするかと言えば。
歳の近い令嬢がいれば婿に出し、婿養子としてその家の跡を継ぐ。手頃な令嬢がいなければ公爵家を作るである。
つまりは、公爵というのは功績ではなく血筋によって立てられたものであり、王家との血縁だという理由から他貴族から融通してもらえるが必ずしも実力ある者とは言えないという事。
しかし、幼少は王城にて王子として教育を受けているため、馬鹿ではない。寧ろどの貴族家よりも良い教育を受けていると言えた。
アルカンタの民にとってまだ記憶に新しい、カルム公爵という公爵家があった。カルム公爵は王位を継げない王子が興した家であり、その起源は建国当初まで遡る。
三代続けて王家の血が入らねば侯爵位に変わるのだが、カルム家は王族に王子や王女が生まれる年を狙い子を成し、王家と婚姻を結ぶ事で公爵の地位を繋いできた。
これはどの貴族家もやっている事だが、ここまで上手くいくのも例がないだろう。
そんなカルム公爵家も謀反によって一族は処刑された。残った公爵家は同じ扱いを受けぬよう、挙って王家に忠誠を示してみせたのだった。
そんな公爵家の一つが、貴族街ではなく市民街の横を通っていたのは何故か。そして何故事故など起こしたのか。
野次馬たちの関心はそこに集約されていた。
そんな中、通報を受けた衛兵たちが野次馬をかき分けて現れる。彼らは横転しているのが公爵家の馬車だと確認すると、焦った表情で駆け寄るのだった。
「ご無事ですか!」
四人いる内、一番位の高い衛兵隊長が馬車に駆け寄る。一人は御者台の横に倒れている御者の下へ。他の二人は野次馬を近づけないように散って行った。とは言っても、横転しているのが貴族である以上、厄介ごとを避ける意味でも民は自ら近寄ったりはしない。
どちらかといえば、民が権力に巻き込まれないための動きであった。
横転した馬車の扉から衛兵によって助け出されたのは、小太りの中年男性だった。そして、続いて派手なドレスを着た若い女性が顔を出す。その格好は貴族令嬢のような優雅なドレスではなく、春を売る女性のような扇情的な肌の露出があり、そのドレスがはだけているのは馬車の横転だけが理由ではないだろう。
「ご苦労。まったく、さっさと来ないからダラダラと馬車内で過ごす事になったではないか。お前の所属を教えろ。軍務大臣に言っておくからな。」
助け出されても尊大な態度を取る公爵だが、貴族など大抵はそんなものである。衛兵も慣れた様子で頭を下げ、周囲に集まる野次馬達を公爵の視界に入れないよう気を遣っていた。
「公爵さまぁ。わたし足が痛いわぁ。さっきので痛めちゃったみたいなのぉ。」
「なにっ!?すぐにでも治療師を呼べっ!儂も腕を痛めておる。それから換えの馬車を準備しろ。急げ!」
語尾が何ともネットリした話し方をする派手な女性に、公爵はダラシない笑みを見せた後、衛兵に向かって唾を飛ばしながら怒鳴る。
怒鳴られながらも衛兵は頭を下げ、指示に従うように部下へ視線を向ける。野次馬たちを遠ざけていた部下は上司へ哀れみの視線を返しながらも頷き、野次馬を再度かき分け応援を呼ぼうと行動を開始する。
だがそれを制止する声が野次馬の中から聞こえてくるのだった。
「ご苦労様です。ドラグ騎士団です。公爵の治療と馬車の手配はこちらにお任せください。衛兵の皆さんは周囲の対応を。御者の方も治療が終わり次第事情を聞いておきますので、後ほど共有致しますわ。」
野次馬をかき分けるでもなく、自然と人々が避けるようにして現れたのは、ドラグ騎士団の四番隊だった。
先頭を歩くサイサリスの登場に、不安気だった人々も歓喜の表情で出迎える。人々が避けたのは、ドラグ騎士団の行動を阻害すまいとした意識からだった。
衛兵隊長は僅かに安堵した表情を見せたが、それも一瞬で緊張感を取り戻す。しかし他の衛兵はあからさまに安堵した表情を見せており、それが公爵に見られる前に衛兵隊長から睨まれたことでハッとして表情を引き締める。
それを穏やかな笑みで見ていたサイは衛兵隊長に近付くと、コッソリ耳打ちするのだった。
「馬車が横転した原因は飛ばし過ぎもありますが、道に出た猫を庇うために子どもが飛び出したようです。皆さんがここに集まっているのも、公爵からその子どもを隠すためですわ。そちらは衛兵の皆さんにお任せしても?」
サイが近付いた事で視界に金が満ちる。更に包み込むような良い香りが衛兵隊長の鼻腔を擽り彼の思考を強制的に遮断する。だが囁かれた言葉を理解した瞬間、強靭な精神力で現実に返ったのだった。
「…ありがとうございます。子どもはこちらで保護します。もし怪我をしていた場合は…」
「その場合はこちらの隊員が治療に向かいます。ですが一応こちらのポーションをお持ちくださいね。」
小声でのやり取りは周囲の騒めきもあって聞き取られる事は無かった。衛兵隊長の顔が真面目な表情なのに、頬に朱がさしている事から野次馬の興味が向いた程度である。
そんなやり取りの後、サイはピンと背筋を伸ばして公爵の下へ向かう。衛兵隊長に芳しい香りを残したまま。
「失礼します。ドラグ騎士団四番隊隊長のサイサリスです。サイス公爵とお見受けします。まずは怪我を治療致しますので、そちらにおかけください。」
サイが公爵の下に向かった時には、既に臨時の幕が馬車の周囲を囲っていた。これは高貴な身分の者が、治療される姿を市民に見られないようにする措置である。
何故こんな措置が必要なのかと言われれば、貴族の中にはそういう姿を見せたくないという者がいる事、怪我人が女性で、怪我をした場所が際どい場所であった時の為だ。
「おぉ、サイサリスか!はよう儂の怪我を治せ!」
国王ですらサイサリス殿かサイサリス隊長と呼ぶが、このサイス公爵はそんなもの関係ないとばかりに呼び捨てにした。
しかしサイはニコリと微笑んだまま、公爵が差し出した手に魔法をかける。淡い光に包まれた公爵の腕は、光が収まるとそこには怪我のない腕があった。
「これがサイサリスの回復魔法か…!うむ、良き働きだ。ぜひ我が嫁に…」
「隊長、馬車が到着しました。」
公爵が何か言う前に、隊員が馬車の到着を知らせる。サイはそれに頷きを返してから公爵の言葉を無視して向き直った。
「サイス公爵。馬車の用意が出来ました。こちらの女性を治療してからお連れしますので、公爵はどうぞお先に。」
う、うむ、と動揺しながら幕の外へ案内される公爵。彼を案内するのは男性隊員である。それを見送ったサイは派手な女性に向き直ると、素早く怪我の有無を確認する。
女性が怪我をしたと聞いてはいたが、サイの見立てでは何処にも怪我などなかった。
「お怪我はされていませんか?遠慮せずに仰ってください。今回は正式な派遣のため治療費はいただきません。」
派手な女性はサイの言葉を無視しており、素っ気ない態度を崩さない。サイの見立てでは怪我はないので、本人からの申告もないのならばそれで良いかと、そのままにする事にしたようだ。
だがすぐに幕から出るかといえばそうでもなく。サイはそれを、怪我の治療に時間がかかった事にするのだと予想した。
どうやらそれは当たっていたようで、公爵の声が聞こえなくなってから少しして女性は幕を出て行った。
サイはそんな女性が去っても笑顔を崩さない。彼女としては女性に怪我がないのならそれで良いのだった。
おそらく、女性は馬車が横転した際に公爵がクッションになったためダメージは無かったのだろう。公爵も右腕を怪我していたものの、厚い脂肪に守られたおかげか特にダメージは無いようだった。
そうなると心配なのは御者と飛び出した子どもである。だがそちらは部下に任せる事にして、サイは幕と馬車の撤去する指示を出すのだった。
ここは市民街と職人街の間にある通りのため、道を塞いだ馬車を撤去しなくてはならない。公爵と女性をサイが引きつけていた間に現場検証も終わっているはずであり、四番隊もその意図を理解して行動している。
確認せずとも互いの行動は理解しており、サイは安心して指示を出せるのだった。
指示を出し終えたサイの耳に、馬車が動き出す音と誰かが駆けてくる音が聞こえてくる。僅かな安堵と疑問を抱いたままその音の訪れを待てば、駆け寄ってきたのは衛兵隊長であった。
「何かありましたか?」
先んじてサイが聞けば、衛兵隊長は国軍と同じ敬礼をサイに向けてから口を開いた。
「お疲れ様です。ドラグ騎士団の皆様のご協力のおかげで迅速に対応する事が出来ました。道に飛び出した子どもは足を擦りむいた程度で怪我は無く、集まった市民も子どもをこちらで保護する旨を伝えたところ解散して行きました。念の為先ほどお預りしたポーションで子どもは治療しております。」
子どもの怪我が酷くて四番隊に助けを求めに来たのかと思ったサイだったが、どうやら無事のようで安堵の息を漏らす。
無事ならそれで良い。ポーションなど子どもの命に比べれば大した物ではないのだから。
「それは良かったですわ。子どもが無事ならポーションなど構いません。代金も不要です。それに貴族が絡む以上、衛兵隊では対処に限界がありますもの。後はこちらにお任せくださいな。」
外行きの令嬢言葉で話すサイはその美貌もあって、とても近付き難い印象を抱かせる。だが実際に治療などで会話した事のある市民は、その神々しいまでの容姿に惹き込まれるのだった。
サイはグラナルド国民から男女問わず人気で、完璧なプロポーションと貴族然とした姿勢と態度とは裏腹に、包み込むような慈愛と凄腕の治療術によってサイを崇拝する者は多い。
当然のように貴族家からの縁談の申し込みも後を断たないが、その全てを断っている。
そのせいで貴族家からドラグ騎士団に対する評判が下がっているのだが、それはサイだけのせいではない。ガイアやリクも多数の縁談が舞い込んでおり、ヴェルムはその全てを断っていた。
衛兵隊長がわざわざサイに報告に来たのも、先ほどのサイの香りに誘われたからであり、報告に向かおうとする部下を抑えて隊長自ら来たからであった。
「ではこれで失礼します。後ほど騎士団本部の方に今回の報告書の写しをお持ちします。」
「ありがとうございます。その時にお渡し出来るよう、こちらも報告書を作っておきますね。」
そんなやり取りをしてから二人は別れる。いつの間にか野次馬も解散しており、幕は撤去され馬車は起こされていた。
車軸が壊れた馬車は既に職人街の職人が修理を始めており、その隣には隊員が立っている。
ドラグ騎士団の名で修理依頼を出して、後に公爵家に請求するのである。だが一度壊れた馬車を使う貴族は貧乏な貴族くらいなもので、高位貴族などは見栄の問題もあって修理した物は使わない。
しかし使用人に下げ渡したりもするので、修理費が回収できないという事はないだろう。
それから通りが元通りに使えるようになるまで、もう少しの時間がかかるのだった。