180話
怪しい商人が三番隊によって尋問されている頃。三番隊よりも先に報告のため団長室を訪れた女性がいた。その女性は団服の上から白衣を羽織り、長い髪を二つの三つ編みして垂らしている。しかし彼女の見た目を一番強調するのはそこではなく、他者からは目が見えなくなるほどに厚い瓶底メガネであった。
ドラグ騎士団本部の奥にある、錬金術研究所。そこの所長である事を示す腕章を白衣に着けた女性は、団長室に入るとまず綺麗な敬礼をしてみせた。
「お忙しいところに失礼致します。ヴェルム様、フォルティスさんが確保した商人が所持していた薬の成分が分りました。」
研究所に回された薬は、他の作業を止めて最優先で検査されていた。そのおかげで、三番隊の尋問よりも先に成果が出たのである。
だが、所長の表情は何処か暗かった。それを見たヴェルムは、薬の成分が望ましくないものであった事を悟る。しかし団長の立場から聞かない訳にはいかない。ヴェルムはため息を吐きそうになるのを堪え、労いの気持ちを込めて笑顔を浮かべるのだった。
「ご苦労さま。まずは読んでみるから、お茶でも飲んで待っていてくれるかい?」
所長が持参していた報告書を受け取ってからそう言ったヴェルムは、所長に向かってソファに座るよう促した。
そんな一連の流れを見ていたアイルは既に所長に出す為の紅茶を準備している。各部門の長は団長室に度々訪れるため、アイルも長たちの好みを随分と把握していた。
所長は見た目こそ若い女性だが、ドラグ騎士団創設より前からヴェルムと時間を共にしてきた女傑である。そのせいかどうかは分からないが、彼女の趣味は随分と渋い物が多い。
セトや他の古株の団員と共に東方の濁り酒を飲んでいる所を見かけた事もあった。
アイルが所長の好みである北の国産の紅茶を出すと、所長はアイルに笑顔で礼を言う。それに無表情のまま会釈を返したアイルだが、所長はそれに気分を害した様子もなく、紅茶のカップを手に取って香りを楽しんだ。
それだけで何処となく表情が和らいだ所長を見て、アイルは満足そうに小さく頷いた。
「アイル君は随分とお茶を淹れる実力が上がりましたねぇ。やっぱり、セトさんの教育は厳しいんですか?」
ほんのり笑顔を浮かべて言う所長に、アイルは首を横に振る。それから数秒空いたため、どう言う意味の否定か聞こうと口を開きかけた所長だったが、アイルが何やら考えている様子を見て取ると、開いた口にもう一度紅茶を入れるのだった。
「厳しくはありません。僕に必要な事を教えてくれているだけですから。それに、まだまだ美味しく淹れられるようになります。いつか師匠を超えるほどに。」
迷いながらも言ったアイルだが、その瞳には迷いは浮かんでいない。己の想いや考えを口に出すのが苦手なアイルが、報告や必要な会話以外で己の考えを言う事自体が珍しい。
アルカンタの住人が、無表情が標準装備な彼を見て騎士団で虐待されているのでは、と心配するくらいに感情が表に出ないアイルではあるが、最近はこうして少しずつ迷いながらも口に出来るようになった。
所長はそんなアイルの成長を見て、我が事のように喜んで笑顔を見せた。
「そうですね。アイル君のお師匠様は執事スキルを磨きすぎてますからね…。超えるのは大変な道のりです。でも、アイル君はいつも飲む人の事を考えて淹れてくれますから、その気持ちさえ忘れなければきっと大丈夫ですよ。それに、私はアイル君が淹れてくれたお茶、好きですから。」
そう言って微笑む所長の目はアイルには見えないが、メガネの向こうの目はきっと優しい目をしているのだろうとアイルは感じた。
フワフワするような、落ち着かないような気持ちが自分の中に溢れ、珍しく混乱した様子を見せるアイル。彼はいつだって、師匠であるセトや命の恩人であり父のようなヴェルムのために腕を磨いてきた。
しかし、それを褒められる事はあっても、この様に認められたと感じた事は多くなかった。団員からすればアイルとカリンはまだまだ可愛い子ども。特に古株の団員たちはそういう扱いをする者が多く、それに不満など無いがいつか認めてもらうという目標を持つくらいはあった。
だが唐突に認められれば、それはそれで何とも居心地が悪い。それがなんという感情か判断がつかないアイルは、助けを求めてヴェルムを見た。
ヴェルムはアイルを見ていた。報告書を読んでいたはずだったが、どうやら既に読み終えていたらしい。
だがアイルからの助力懇願の視線には完全に無視を決め込んでいる。目は合っているのに意志が伝わらない、否、無視されるという経験を初めてしたアイル。彼の混乱は更に深まってしまった。
しかしそんなアイルにも救いの手が差し伸べられる。ほっほ、という笑い声と共に団長室隣の小部屋から現れた彼は、アイルと同じ執事服を着ていた。
「我が愛弟子を虐めるのは辞めて頂けますかな?我が主人。」
セトの登場に、これでもかと言わんばかりに安堵した様子を見せるアイル。ヴェルムは眉尻を下げながら、セトに苦笑を向けた。
「人聞きの悪い事を言わないでおくれよ。アイルが今貴重な経験をしていたからね。自分で処理できるんじゃないかって見守っていたんだよ。虐めてなどいないさ。」
ヴェルムがそう言うと、所長も笑顔で頷く。話が見えないセトは確認するようにアイルを見た。アイルは先ほどの感情を思い出したのか、無表情の顔に朱が浮かんでいる。
「アイル、照れるのは悪い事じゃない。あぁいう時は、ありがとう、って返せば良いと思うよ。」
ヴェルムがそう言えば、アイルはハッとした様子で顔を上げた。そして所長の方に向き直り、ほんの少しだけ口角を上げて言った。
「…あ、ありがとう…ござぃ…」
最後の方はほとんど聞き取れなかった。だが、所長は満面の笑みを浮かべた。見ていたセトやヴェルムも同じく、嬉しそうに微笑んでいた。
「どういたしまして。アイル君の淹れてくれた紅茶、もう一杯貰えますか?」
所長が楽しげに言えば、アイルは言葉と共に伏せた顔を上げ、今度はしっかりと言葉にした。
「はい。少々お待ちください。」
その表情はいつもの無表情に戻っていたが、彼が赤子の頃から知っている三人には、その無表情の中に喜色が混ざっている事がよく分かった。
こうして彼の成長を実感出来るのも、彼らにとって重要な出来事であるのは間違いない。
「これは…、あまり芳しくないね。」
所長からの報告を受けてヴェルムが発したのは、その一言だった。
普段からどんな問題が起きても飄々とした態度を崩さないヴェルムが、このように困るのは珍しい。先のカルム公爵による謀反の時ですら、淡々と指示を出したというのに、だ。
先ほどまで笑顔が溢れていた団長室で、緊張感のある静寂が満ちていく。誰も音を発しないこの空間に、時計が時を刻む音だけがやけに煩く聞こえた。
「…零番隊を呼び戻しますかな?」
静寂を破ったのはセトだった。黙っていても埒があかないという判断かもしれない。諸外国に出た零番隊を戻す程の事件であるならば、ヴェルムの態度にも納得がいく。
セトの言葉から数秒、考える時間を持ったヴェルムは一度深呼吸してから冷めた紅茶に手を伸ばす。唇を湿らす程度に口をつけ、顔を上げた時にはもう迷いは無かった。
「この大陸にいる精鋭を呼び戻す。そして私も動こう。これは世界を混沌に突き落とす可能性がある。天竜としてそれは看過できない。」
ヴェルムの言葉に驚いたのはセトだけではない。所長など大きく開いた口を両手で隠すのに忙しかった。
まだ年若いアイルには、この事の重大さがイマイチ理解出来ていない様子だったが、セトや所長の様子を見て只事ではない事だけは察していた。
「精鋭を呼び戻すとなれば、色々と準備が必要ですな。ダンジョンに篭っている翁達も呼ばねばなりますまい。」
既に発された指示に、セトは迅速に動いてみせた。
零番隊を呼び戻すのには二つの方法がある。通信魔道具の使用と、ヴェルムから直接念話魔法で連絡する事だ。以前までは通信魔道具は無く、精鋭たちは通信魔道具の普及より前から本部を離れているため、今回はヴェルムから直接帰還命令が出ることになる。
ならばセトがするべき仕事は、癖の強い精鋭たちを迎える準備である。他に確認する事がないのを確認したセトは、すぐに団長室を出て行った。
「三番隊の報告を待たなくて良いんですか?」
所長の疑問は尤もだったが、ヴェルムは首を横に振って否定する。確かにその手もあるが、ほぼ確実に精鋭が必要になる事と、捕まえた商人からは大した情報が得られない事を予見したからだった。
「では、研究所員総出でこの薬の対策を練ります。最悪でも予防だけでも出来る様にしてみせますね。」
所長も己がやるべき仕事を再確認したようで、ヴェルムから許可を得た後に団長室を出て行った。その際に、アイルに向かって紅茶の礼を言うことも忘れない。
アイルはそれに、頭を下げる事で返した。
アイルとヴェルムだけになった団長室に、再び静寂が訪れる。二人しかいない時はいつも静かな団長室だが、今は何故か、慣れたはずの静寂が居心地悪い気がするアイルだった。
「なるほど。ではしばらくドラグ騎士団は独自の作戦行動に入る訳だな?よし、では国軍を演習の名目で待機させよう。長くは誤魔化せんから、はやく終わらせてくれ。」
グラナルド国王ゴウルダートは、目の前に立つ男にそう言った。時刻は深夜。王城の最上階にある国王の私室で、いつも通り近衛を通さずに現れたその男から、衝撃的な事を聞かされた後だった。
国王はその男ヴェルムから渡された書類にもう一度目を向ける。そこには信じ難い事が書かれていた。
きっと、世の中のほとんどの人々がこの書類を読んでも鼻で笑うだろう。それほどに信じられない。事実、目の前に立つヴェルムが天竜と知っていても受け入れ難い情報ではあった。
国王が信じたのは、書類を読む間ずっと真剣な表情で待っているヴェルムの存在があったからである。悪戯にしては手が込みすぎてる。
「すまない。でも、この星の危機と言っても過言じゃないんだ。動くのは早ければ早いほど良い。だから、今回は私も動く。その間に何かあっても、もしかしたら私は手を貸せないかもしれない。それを君に謝っておきたくてね。」
ヴェルムの言葉には表情も合わさって真実味があった。
国王はそれに黙って頷き、それから二人の間に沈黙が流れた。互いに考え事は尽きないが、それ故に必要な沈黙でもあった。
「大丈夫だ。お主なら必ず事態を解決すると信じているからな。初代国王は、その息子であり二代目国王にこう言ったらしい。"ヴェルムが動く時は、ただ信じて待てば良い。私たちに出来て彼に一番必要な事は、それだけだ。"とな。ならば私もそうしよう。これでも私はお主の友だからな。この国を護っているのはお主だけではない事を忘れないでいてくれればそれで良い。さっさと片付けてくれよ?まさか、先だっての約束を忘れたわけではあるまい?」
毅然とした態度でそう言う国王は、最後に茶目っ気たっぷりにウィンクなぞしてみせた。それは目論見通り、ヴェルムの表情から硬さを取る事に成功する。
フッと笑ったヴェルムはいつもの表情で、ニヤついた国王に一言残して姿を消した。
「勿論、君の秘蔵の酒棚を開ける約束は忘れてないから、しっかり準備しておいてね。」
「ひぞっ!?いやそんな約束は…!行きおった…。まぁいい、武運を祈るぞ。友よ。」
国王が言葉を返す途中で消えたヴェルムに、国王は怒りつつも何処か安堵した表情を浮かべていた。そしてため息を吐く。何故秘蔵の酒棚の事を知っているのか、などと考えながら。