175話
報告を聞いている間ずっと眉間に皺を寄せていた国王は、ヴェルムの口が閉じたタイミングを見てため息を吐き出した。
それを聞いて、肩に力が入っていた事を自覚したユリアが力を抜く。宰相は己が使用している執務机でヴェルムの報告を書き取っていた手を休めた。
一瞬の緊張の緩みを利用して、全員が紅茶に手を伸ばす。それは既に冷め切ってしまっていた。
慌てて紅茶を淹れなおそうと意識を向けたユリアだったが、行動に移す前に動いた者がいる。
パチン、と指を弾く音が聞こえたかと思えば、目の前の紅茶から湯気が立ち昇る。テーブルにカップを置いていたユリアはまだ驚くだけで済んだ。
「…あっつ!…ヴェルムっ!」
ユリアがカップから視線を上げると、そこには冷たい紅茶だと思ってカップに口をつけた瞬間に紅茶が熱々に変わったが故に火傷をした国王がいた。
しかし国王は火傷の痛みなど関係ないかのように、怒りの籠った目でヴェルムを見ている。
そのヴェルムはと言えば、クスクスと笑いながら腹に手を当てている。どうやら確信犯であったようだ。
ごめんごめん、などと謝ってはいるものの、頬が緩んでいるためなんとも説得力がない。これでは国王も謝られている気はしないだろう。
宰相は急に温まった紅茶を目の前に、興味深そうな目でカップを見ていた。彼は生活魔法と呼ばれる分類が得意ではないが、その分生活魔法に多大な興味があった。今もどうやって瞬時に紅茶を温めたのかを考えているに違いない。
唇を火傷した事を怒っているのか、急に魔法を使った事に怒っているのか分からなくなってきている国王に、ヴェルムは回復魔法を飛ばす。今回使ったのは聖属性魔法だ。
火傷には水属性の回復魔法がよく効くと言われるのだが、ユリアを見てウィンクする辺り、ユリアが聖属性一辺倒である事を考慮しての事だろう。事実、ユリアはヴェルムの魔法を見て驚いていた。ユリアには出来ない技術だったためだ。
「ヴェルム様、今のは初級回復魔法を飛ばしたのですよね…?」
驚いた様子のまま尋ねるユリアに、ヴェルムはニコリと笑って肯定してみせる。ユリアは自身が尋ねた事が合っていたというのに、驚きを増したようだった。
「なんだ、今のは難しいのか?」
聖属性魔法が得意でない国王は首を傾げてヴェルムを見る。ヴェルムはそれに笑って返した。
「そうだね。癒しの力を込めた水を飛ばす水属性魔法はあるけど、聖属性魔法は基本的に対象に触れることで効果を発揮するんだよ。だからユリア王女もそうやって今まで魔法を発動していた筈。でも、飛んだ方が便利じゃないか。」
便利。ただそれだけの理由で魔法を改良する者はいない。否、出来る者がいない、と言うべきか。
宰相はヴェルムに驚いた顔を向けている。これが普通の反応だ。だが国王は何やら呆れた顔をしているし、ユリアは目を輝かせている。
ヴェルムとしては宰相の反応が満点だ。後者二人は騎士団内に同じ様な反応をする者が沢山いる。
「流石はヴェルム様!一体どうすればそのような発想が生まれるのでしょう…!」
そう言って尊敬の目を向けるユリアを、ヴェルムは眉尻を下げて見つめる。照れでもなく、単純に困っているようだ。
ヴェルムとしてはやってみたら出来たというだけである。それに、あまりユリアから尊敬の目で見られると、斜め向かいに座る国王から射殺さんばかりの視線を投げられる羽目になる。
別に国王の実力であればヴェルムは容易に制圧出来る。しかし友にそんな事をする訳もなく、然りとてその視線はハッキリ言えばウザい。
面倒になる前にユリアのキラキラした目を落ち着かせるため、ヴェルムは報告の続きを勝手に始めてしまうのだった。
「では、革命軍を裏で煽ったのは子爵、いや、元子爵か?」
革命軍と共にいた貴族風な格好をした細身の男は、元子爵家の者だった。カルム公爵が断罪された折、共に幾つかの家が取り潰し、或いは領地没収などの目に遭っている。
カルム公爵のように明確な国家転覆を狙った家はどれも取り潰しの上、血縁者は処刑された。しかし騙されていたり居てもいなくても変わらなかったような弱小貴族家は、国外追放であったり僻地に村一つ分の領地を与えて蟄居させたりと様々な罰が与えられたのである。
今回の事件に関わった元子爵もそういった処刑だけは免れた元貴族だった。
だが、彼には金が無かったはずである。その金の出所は、ヴェルムが持ってきた書類に記載されていた。
「そうだね。彼はこの書類にあるように、水帝と繋がりがあった。もっと言えば、水帝の裏の顔と、だね。」
その事についても書類に書かれている。水帝の本名や出身、年齢などの個人データもだ。
これは零番隊が元々集めていた情報だった。ヴェルムたちドラグ騎士団は、零番隊を軸に大陸中の強者や権力者の情報を集めているのである。
これはヴェルムの指示ではなく、その情報に触れる機会のあった部隊が少しだけ踏み込んでついでのように調査した物が大半であり、いつか役立つかもしれない、の精神で集めただけであったりもする。
まるで部屋を片付ける事が出来ない者の言い訳のようにも聞こえるが、情報に関しては今回の様に役立つ事もあるのだから侮れない。
水帝の裏の顔について詳細に書かれた書類を見て、国王は親指と人差し指で眉間を解しながらため息を吐く。そうでもしなければやっていられなかった。
「まさか、大陸中で尊敬を集める冒険者最強の一人が…。」
そう呟くユリアは、己が声を発した事も気付いていないようだった。
書類に書かれた一行の文。箇条書きの書類の、そのたった一行が国のトップの頭を悩ませた。
ヴェルムは黙り込んだ目の前の二人から目を離し、書類を見やる。
そこには、"水竜の眷属"という文の下にこう書かれていた。
"暗殺ギルドの五指の一人"
暗殺ギルドとは、読んで字の如く暗殺を商売にするギルドである。とは言っても、街中に堂々とギルド支部を構えられるような許可されたものではない。
大陸には様々なギルドが存在し、代表的な物を挙げるとなれば冒険者ギルドや商業ギルドなどが最初に挙げられるだろう。
しかし何事にも裏というものはある。傭兵ギルドという人や物を護る事を商売にするギルドがあるのだ。その反対に人を殺すギルドがあつても変ではない。
この暗殺ギルドは、国同士の軋轢を除いて手を取り合い、国王同士が協力したとしてもその正体は掴めない。
冒険者最強と呼び声高い帝たちも、冒険者ギルドから暗殺ギルドの者を発見したら即排除の密命を受けているとの噂もある。
事実、炎帝になったカサンドラもその密命を受けた事をヴェルムに報告していた。もっと言えば、カサンドラは炎帝になってから暗殺ギルドの構成員を数人返り討ちにしている。
そんな暗殺ギルドには、五指と呼ばれる猛者がいる。冒険者の最強が帝なら、その対抗戦力が五指だ。
その一人が民の英雄的存在と二足の草鞋では、絶対に公開出来ない情報であるのは一目瞭然である。加えて、帝というのは高位貴族と同等の権力を持つ。
その圧倒的な武力をもって反旗を翻されても困るためだ。ならば権力を与えある程度自由にさせた方が良い。
「新年早々に厄介な問題を持ってきおって…。だが、これは各国と共有しておかねばならん。裏付けはとっておるのだろう?」
国王は分かっていながらもヴェルムに確認を取る。裏付けをしていないなどとは欠片も思っていないが、最早大国ばかりになってしまった大陸の各国に伝達するのであれば正確な情報でないといけない。
「もちろんだよ。親書が出来たら言っておくれ。部隊を派遣するから。使者の護衛も請け負うよ。」
国王が頼もうと思っていた事を先回りして言うヴェルムに、国王は少し安堵の笑みを見せた。
頼りになる友がいるというのは有難い。そう思っても口には出さないが、ヴェルムには全てお見通しのようだ。今も国王を見てニヤニヤと笑みを浮かべている。
思わず額に筋が浮かびそうになった国王だが、横から聞こえた愛娘の声で何とか堪えた。
「お二人ばかり目で会話して…。ズルいですわ。」
そう言って拗ねたように頬を僅かに膨らませるのはユリアだ。ヴェルムがそれを見て笑うと、釣られて国王も笑うのだった。
ヴェルムが王城の執務室で国王たちと話していた頃。
ドラグ騎士団本部では地獄の光景が広がっていた。場所は地下。王城が丸ごと入ってしまうような広い空間のあちこちから、男女混ざった悲鳴が聞こえている。
悲鳴の他にも爆発音や剣撃の音や、まるで戦場に立ったかの様な気分になる血と汗の匂いが充満していた。
「オラオラ、この程度かコラァ!雑魚なら雑魚らしく這いつくばっとけやぁ!」
汚い言葉を吐きながら大剣を振るうのは、零番隊部隊長カイン。彼は極道隊と呼ばれる部隊を率いる立場だが、近接戦闘力は部隊一である。
そんなカインを囲むのは、五番隊の隊服を着た隊員達。既にその隊服はボロボロになっており、身体のあちらこちらに斬り傷が見える。地面に倒れている隊員は血溜まりに沈んでおり、時折揺れる肩がまだ生きている事を知らせている。
「なんだぁ?五番隊ってのはコソコソ隠れるしか能がねぇのかぁ?」
カイン以外にも周囲で戦う部隊員がいる。彼らも同じ様に一人で五番隊に囲まれており、そして共通して極道隊は誰もが傷一つない。
零番隊の中でも戦闘力に特化した極道隊ではあるが、そもそも五隊と零番隊とでは実力に大きな差がある。
部隊長ではないただの部隊員ですら、五隊の者から数人がかりで攻撃されても返り討ちにする程の力の差があった。
そして、この地下で地獄の特訓をしているのは五番隊だけではなかった。
「ふむ。治療部隊といえど訓練の手を抜きすぎのようだな。治療部隊ならではの戦法を使え。一撃の攻撃力を求めるな。」
諜報部隊であるゆいな率いる亜人部隊が相手取るのは、四番隊の面々だ。
五番隊ほど血に沈む光景は無いが、極道隊のように豪快な戦闘がない分、静かに隣に立つ仲間が倒れるという恐怖とも戦わねばならない四番隊。
「ゆいなさ〜ん、こいつら治療部隊とかって甘えてるんなら、次の戦場で最前線に立たせたら良いんじゃなぁい?」
ゆいなにそう問うのは、彼女の部下である兎人族の女性。彼女は種族特性でもある強靭な脚力を使って一瞬で接敵し、両手に持つ二振りの短剣で攻撃する戦闘スタイルを得意としている。
話しながらも四番隊の隊員の背中に短剣を突き立てており、真っ白で美しい毛並みを返り血で紅に染めている。
「うぉいおい、こんなひ弱でエルフみたいな奴らを前線に出したら、全員帰って来れなくなっちまうじゃねぇかよぉ!」
兎人族の女性に異議を申し立てるのはドワーフ族の男性。彼は腕三本分はあろうかという鉤爪つきの巨大な手甲を腕に嵌めている。その先端からは血が滴っていた。
ドワーフ族の男性の意見に兎人族の女性が反論を返す前に、横から怒声が届く。
「だぁれがひ弱なエルフ族だってぇ!?そのヒゲ毟り取ってやろうか!それにエルフはこんな吹けば飛ぶ様な貧弱じゃないよ!」
エルフ族の女性だ。己の種族をバカにされたと怒る彼女だが、その言葉は四番隊の心に直接攻撃をしていた。
だが、四番隊とてその言葉が態とである事には気付いている。そして、それを否定できない現状を打破するための特訓なのだとも。
ゆいなはギャアギャアと騒がしい己の部下達を放置して四番隊に斬りかかる。彼女が今握っているのは小太刀だ。反った片刃に波模様が美しい、美術品とも見紛うその小太刀は、なんの抵抗もなく四番隊隊員の腕を斬り飛ばした。
「お前たち、煩いぞ。此奴らが弱者なのは見れば分かるだろう。態々弱者を煽る様な真似をするな。お前たちまで弱く見えるぞ。」
残心の姿勢をとるゆいなは気付かない。自分が発した言葉に対し部下がこう思った事を。
いや、部隊長が一番煽ってるやないかい。
こうして亜人部隊の心は一つになった。