151話
「本当にありがとう!今も昔も君には助けられてばかりだよ!思えば、あの時の出会いからもう五十年近く経つのか。君に出会えた幸運が、今の私の幸せを作っているよ。」
そう語る学園長の表情は晴れやかで、事件のことを相談しに来た時の浮かない表情は見る影もない。
今が幸せの絶頂だと言わんばかりの晴々とした笑みは、歳を重ねた老人の顔に深い皺を刻んでいる。
そんな学園長を穏やかな笑みで見つめるヴェルムもまた、幸せそうな友人の気持ちに寄り添うような慈愛の表情を浮かべている。
ヴェルムが目を閉じて手に持った紅茶の香りを楽しむと、学園長もハッと我に返り自身の前に置かれた紅茶を手に取った。
二人の間に僅かな沈黙が訪れ、物音のしなくなった団長室を静寂が支配する。
だが二人には心地よい静寂で、熱くなった気持ちをクールダウンさせるのに丁度良い静けさだった。
二人が紅茶を口に含む音、嚥下する音。そしてソーサーにカップを戻す音がそれぞれ二つ鳴った後、たっぷり十秒は空いてからヴェルムの口が開く。
「何にせよ、君の懸念が解決して良かった。行方不明事件は把握していたけど、自主的に出て行った物として本格的な捜査をするか迷っていたんだ。君の依頼はちょうど良かったんだ。」
ヴェルムが落ち着いた声でそう言うと、学園長は先ほどより随分と落ち着いた笑みを見せた。
ヴェルムの友人は数多くいるが、その誰もがヴェルムに対し自分に出来ることで恩返しをしたいと心の何処かで思っている。
今回、学園長はまた友の力を借りる事にはなったが、それでもほんの少しだけでも友の力になれたというのならそれ以上の事は無い。
嬉しそうに笑う学園長は、そういえばとふと過った考えが頭に残り疑問として口から吐き出した。
「今回の事件に関わりなく行方不明となっている人たちの行方は掴めたのかい?」
そう、行方不明者のリストに載っていた人物で、一人だけ今回の事件とは関係なく行方が分からない女性がいた。
南の国料理を出す飲食店で働くその女性は、数ヶ月前から行方が分からない。住み込みの働きであったため、料理長であり店主でもある男から相談が国軍の詰所に入れられていた。
ヴェルムは片眉を上げて学園長を見ると、その事か、と言わんばかりに息を吐いた。
「彼女は無事に発見されたよ。今は南部にいるようだね。生まれたばかりの子どもと、その父親と共に幸せに暮らしている。働いていた店の店主からしつこく言い寄られ、客として来ていた南の国出身の商家の男を頼って相談していたらしい。でもその男との子どもが出来て、慌てて店から飛び出したようだね。今は店主とも和解して、南部で幸せに暮らしている。事件ではなくて良かったよ。」
ヴェルムが語った通り、リストに載っていた女性は南の国との国境の街で幸せに暮らしている。五番隊の報告によれば、旦那も商家で出世し急に増えた家族と過ごしながら仕事に精を出しているらしい。
元々、身寄りの無い彼女を預かって店で働かせていた店主だったが、美人で気立ての良い彼女をいつしか女性として見るようになり、ここ何年かはギクシャクした関係であったと客からの証言も取れている。
行方不明になってからも直ぐには捜索願を出さず、客が怪しんだ事でやっと捜索願を出したという。
店主は国軍から指導を受けたが、今では夫婦とも和解が出来ており、元気に南の国料理を作って振舞っている。
ヴェルムも一度食べに行ったが、大衆食堂の様相は街に上手く溶け込み、アルカンタで仕事をする南の国出身者の集まる良い店であった。
ヴェルムの返事に学園長は目を見開いたが、やがてニッコリ笑って安心した表情を見せた。
彼は自分が幸せな時でも、他人の不幸を見てはその気持ちに本気で寄り添える善人だ。
それを偽善と呼ばれ悩んだ時期も昔はあった。しかしそんな時もヴェルムの言葉に救われたのだ。
「人の為に善いことをするのだから、それは偽善だよ。自分が好きだからとやっている人を見て独善的だと笑うかい?それが良いなら人の為になることをしている方が余程良いじゃないか。大事なのは、やったことよりやった後の事だと私は思うよ。自分の行動は人にとってどう映るかより、それをやった自分の事を見つめられるかどうかが大事なんじゃないかい?」
学園長は今でもこう言ったヴェルムの表情を思い出せる。
あの時は学園長もヴェルムと同じように皺一つない顔をしていた筈だ。
だが今では老人になり、目の前で穏やかに紅茶を飲む友の姿はまるで変わらない。
天竜とはかくもヒトとは異なる者か、と今更ながらに納得した。だが、だからこそ自分と友の関係は変わらないのだとも思う。
そう思えばなんだか容姿の差など些細でしかなく、何処となく笑えてくるのだから不思議なものだ。
一人でくつくつと笑う学園長に、ヴェルムは訝しげな視線を向けた。そしてため息を吐く。
「また君は…。どうせ、私が昔から変わらない、などと下らない事を考えているのだろう?何度も言うけど…」
「私はヒト族とは違うのだから姿は変わらない。だが君との関係も変わらないのもまた事実だ、でしょう?」
ヴェルムの言葉に被せるように言った学園長は、してやったりと含み笑いだ。
言葉を盗られたヴェルムは、話していた格好のまま一瞬固まっていた。しかしすぐに脱力すると、もう一度ため息を吐いてソファの背もたれに身体を預けた。
「わかっているならその憎たらしい笑い方をやめてほしいね。それもずっと変わらない君の嫌いなところだ。」
拗ねたように言うヴェルムに、学園長は静かに笑う。
彼は知っている。嫌いだと言う割に、このやり取りを嫌ってなどいない事を。
ヴェルムにとって自分との時間など刹那の時だと分かっていても、何か自分といた証を残したくてつい揶揄ってしまう。
団員を揶揄うヴェルムと同じような事をしているとは彼は知らない。
だが、どちらも同じく深い絆と愛情からくる行動である事は間違いなかった。
「お、スターク。こないだはお疲れさん。今日の宴、お前の野菜期待してるぜ?今は何が旬だ?」
気楽な調子でスタークに声をかけたのはガイアだった。スタークは今菜園で収穫をしている。今日の夜にドラグ騎士団本部で宴会があるからだ。
スタークは丁度今収穫していた大根を持ち上げ、土のついたままのそれをガイアに放る。
ガイアは片手で掴むと、大根のズッシリとした重みに驚いて目を見開いた。
「なんだこりゃ?見た目より随分ギッチリ詰まってんな。味見していいか?」
スタークに向かってそう問いかけるガイアだったが、スタークから返ってきたのは返事ではなく魔法だった。
地属性だけでなく、他の属性も少しなら使えるスタークと比べ、ガイアは炎一辺倒である。
スタークによって土が洗い流された大根は、心なしかさっきより立派に見える。
にしし、と笑ってから大根に喰らいつくガイア。綺麗な歯並びの歯形がついた大根は、その跡から瑞々しい潤いを滲み出していた。
「うぉ!?なんだこれ、甘いなぁ!甜菜かと思ったぞ?」
ガイアが驚いた表情で大根を見つめる。それをスタークは呆れたような表情で見ていた。
「適当な事を言うな。甜菜のは糖の甘さだろう。それは甘いというより、旨味がギッシリと言ってほしいな。」
ガイアにはよく分からないが、スタークには拘りがあるようだ。
わりぃわりぃ、と悪びれもせず言うガイアだが、スタークもこれ以上はとやかく言わないようだ。
「暇なら手伝ってくれ。まだ白菜も収穫しなきゃならん。」
時刻は昼過ぎ。夕方になる前には厨房で宴会の準備が始まる。それまでに何千人分の野菜を収穫しなくてはならない。
その作業量を想像したガイアは、ゲッ、と大袈裟に引き攣った顔を見せる。だが遊んでいる暇は無いと判断したのか、マジックバッグから軍手を取り出し手に嵌めた。
「俺が来たからには収穫なんぞあっという間だ!そうだ、一番隊も読んで皆んなで収穫するか!」
良い事を思いついたと言わんばかりに、早速念話魔法を発動しようとしたガイアをスタークが止めた。
急に魔力を当てられて魔法を止められたガイアは不服そうな顔を見せるも、続くスタークの言葉でおとなしくなった。
「一番隊が丁寧収穫なんぞ出来るか。畑を荒らされるくらいなら一人でやる。俺の仕事を増やすな。」
真顔でそういうスタークの圧に負けたガイアはゆっくり頷く。
確かに、元気いっぱいな一番隊が来ては畑も荒れる。
騎士団の皆が美味しい料理で腹を満たせるように、スタークの野菜選びは真剣勝負だ。
それが分かっているためガイアもそれ以上は何も言わなかった。
しかし。
「俺だけでこれ手伝うのかぁ…?」
まだ始まってもいないのに腰を摩りたくなるガイアだった。