136話
大陸中央の大国、グラナルド。
中央の国とも呼ばれるグラナルドの首都アルカンタには、グラナルドを建国以来護り続けてきた騎士団がある。
名を、ドラグ騎士団。
世界を見護る守護竜である天竜が一翼、闇竜が団長を務める騎士団である。
ドラグ騎士団の本部はアルカンタの北西部に飛び出すような形で広大な敷地を持ち、アルカンタと接する南門と東門から同程度の距離に本館が建つ。
そんな本部本館の奥、団長室で機嫌良さげな笑い声が響いていた。
「いやはや、己が欲に負けた結果が国の崩壊に繋がりますか。ヒト族とは分からぬものですなぁ。」
ほっほ、と笑う執事に、それを見て苦笑する白銀の長髪を一括りにして肩に流す若い男。
漆黒の瞳に執事を映しているが、その瞼は細く窄められている。
「セト。あまり笑っては可哀想じゃないか。それに、恋に一生懸命になれるのはヒト族の美点だよ。」
口ではこう言って嗜めてはいるが、口元は緩んでいる。最早隠そうともしないその笑みは見る者を惹きつける色気があった。
「なんだぁ?結局俺たちの準備は無駄になるのか?カサンドラも暇してんだろうな。」
そこに室内中央のソファに腰掛けた黒髪の男が声をかける。男は乱暴に髪を掻きながら、ドカッと背凭れに背を預けた。
「アレックスたちの準備は無駄にはならないよ。一部予定を変更する必要はあるけどね。今回は例外を作る事になりそうだよ。」
この部屋の主が黒髪の男アレックスに返事を返す。その言葉を意外に思ったのか、アレックスは片眉を上げて続きを促した。
しかし、言葉を投げた白銀の麗人はニコリと笑うのみ。
はぁ、とため息を吐いてから眉間に皺を寄せるアレックスは、考える事を放棄したのか対面に座る女性に視線を投げた。
アレックスの対面のソファには男女が一人ずつ座っている。男は長い髪を高い位置で括っており、毛髪が硬いからかサラリと流れてはいないが、それはそれで無骨な武士のようにも見える。男が座るソファの横には大太刀が立てかけられており、いつでも手に取れる位置に置いている事が分かる。
アレックスに視線を向けられた女性はというと、向けられた視線を綺麗に無視しながらも、握られた湯呑みに注がれた緑茶を真剣な表情で見つめている。
両手を使い大事そうに持ち上げた湯呑みからは、ホカホカと湯気が立ち昇る。
目を閉じ香りを堪能すれば、緑茶の香ばしい香りが鼻腔を支配した。
「如何ですかな?我が主人が東の国から直接取引された緑茶の味は。」
アレックスの視線を全員が無視した状況で話は進む。執事から和かに問われた女性は、緑茶を一口飲みたっぷりと味わうように飲み込んだ後、ほぅ、と息を吐いてから目を開ける。
そして大変満足そうに頷いた。
「団長殿の優れた目利きと、執事殿の茶を淹れる力量が合わさった素晴らしい一杯だ。これ程の茶を飲める場所は、世界広しと言えどここだけだろう。」
そして口をついて出た言葉は、これ以上ない賛辞の言葉だった。
その答えに満足したようにほっほ、と笑うセト。茶葉を持ち込んだ本人もニッコリと嬉しそうだ。
「うむ。これ程の茶は東の国でも飲めん。セト殿、また腕を上げましたか。」
女性の隣に座る男も茶を啜りテーブルに置いてから追従する。
テーブルには盆が東の国で購入した真っ黒に塗られた木製の皿があり、その上には"どら焼き"なる甘味が山のように積まれている。それを手に取った男はパクリと一口で半分程を口に入れた。
「そのどら焼きは源之助が料理長と相談しながら作ったそうだよ。料理長も知らない甘味を作れるってはしゃいでいたね。美味しいだろう?」
この部屋の主であるドラグ騎士団の団長、ヴェルム・ドラグが男に問う。その視線は甘く、親愛の色が浮かんでいた。
「どら焼き、か。美味い。この茶との相性も最高だ。しかし、東の国では見た事も聞いた事も無いな。ゆいなは知っておるか?」
男はそう言って厳つい見た目に似合わない緩んだ表情で隣の女性ゆいなに問う。
ゆいなはそれを受けやっと湯呑みを手放しどら焼きの山に手を伸ばした。
「私の故郷では見た事が無いな。しかし、ある程度裕福な領に行けば見かける事もある。砂糖が多量に使用される甘味はまだ庶民には出回らんだろう。」
ゆいなはそう言ってどら焼きを一口齧ると、その無骨な口調とは真逆の、なんとも幸せそうな表情を浮かべる。そして左手で湯呑みを持ち、餡の甘さに支配された口内を緑茶で洗い流す。
緑茶の苦味によってリセットされた口内は、またも甘味を求めてしまう。
そうして繰り返される甘味と苦味の奔流に、ヒトは抗う術を持たない。
気付けば手に持ったどら焼きは無くなり、湯呑みの中身は空になっていた。
「その様に幸せそうなお顔で食べられたのなら、料理長や源之助も喜ぶ事でしょうな。」
すかさずおかわりが注がれた湯呑みからは、またもホカホカと湯気が立ち昇る。
それを見れば、もう一つ、とどら焼きの山に手が伸びるのも仕方のない事だろう。なにせ、抗う術を持たぬのだから。
「いや、俺の疑問どこいった…?誰か答えをくれよ…。」
一人取り残された哀れな男の声が虚しく響く。
大量にあったどら焼きの山は三人によって綺麗に平らげられ、団長室にはほっほ、と笑う声が響いた。
その日、グラナルド国王はいつもの様に己の執務室でサインをしていた。
この部屋に持ち込まれる書類は基本全て国王の裁可が必要な重要書類。サイン一つとっても、認可出来ないような内容の書類が無いか隅々まで読み込んでからのサインになる。
当然、気の抜けない作業だ。そのため執務室は毎日張り詰めた空気が支配していた。
そんな中、宰相と国王が机に向かってペンを走らせていると、廊下が騒がしい事に気が付いた。
集中が途切れたため国王が顔を上げると、同じタイミングで宰相も顔を上げたようだ。
思わずそちらを見ると目が合う。宰相は穏やかな微笑みを浮かべているが、頬がヒクついている。どうやらお怒りのようだ。
通常、緊急事態でもない限りこの部屋周辺に人が来ることは滅多にない。しかし国王と宰相がいるこの部屋に用事がある者は多く、許していては身動きが取れなくなるため昼と夕方に一度ずつ休憩も兼ねた面会が許可される。
今は昼食後の執務の時間。つまり休憩の時間を告げに来るメイドではない。ならば緊急事態かと一瞬で思考を切り替えた二人は同時に扉を見た。
それから数秒後、ドタドタと足音が近付いてくる。
国王と宰相が仕事をする部屋の近くでそんな音を立てるのだ。余程の緊急事態であろう。
護衛の近衛騎士たちが制止する声も聞こえるが、どうせ騒ぎに気付いてしまったのだ。はやく聞いておくに越した事はない。
問いかけるように視線を投げた宰相に対し、国王は頷いて見せた。
「騒がしいですよ。用件はなんですか。」
急に扉が開いて驚いたのは護衛の近衛騎士だけではなかった。
文官服を着た若い男は、開いた扉から顔を出した宰相に大層驚いている。ドタドタと五月蝿かったのはこの文官のようだ。
手には封筒があり、それ以外に荷物はない。ならば用件はその封筒か、と当たりを付けた宰相は文官に向けて手を伸ばす。
殴られる、と身を竦めた文官は目を閉じるが、直後襲った感覚は痛みではなく手に掴んだ物が抜き取られる感覚だった。
慌てて目を開けた文官の目に映ったのは、己が先ほどまで持っていたはずの封筒を指に纏わせた風の刃でサックリと斬り開封した宰相の姿。
文官は魔法とはあまり縁がないため気付かないが、扉の前に立つ近衛騎士は唖然とした表情でそれを見ていた。
魔法とは、誰でも大なり小なり使える技術である。しかし、宰相のように手元で細かい制御をする者はあまりいない。戦闘に使用するならば出力が大きく規模も大きい魔法の方が敵に効率よくダメージを与えられる上、生活でしか使わない者はそのような細かい制御技術は磨かない。
つまり、宰相がやっているのは一般的とは言い難かった。
「なるほど。君、口頭での報告はありますか?」
封筒の中身に目を通した宰相が文官に問う。一瞬誰に問うているのか分からなかった文官だったが、直ぐにそれが己への質問だと理解し慌てて首を振る。
「いえ!私が任されたのは大至急この書類を宰相閣下にお渡しする事だけです!」
「そうですか。では受け取りましたので戻って構いません。次からは緊急でも騒がしくしないよう。ここでは国の未来を決める仕事をしています。陛下の気を散らさぬよう留意しなさい。」
「は、はい!失礼しました!」
宰相からの注意に目を輝かせて頷いた文官は、行きと同じくドタバタと帰って行った。
本当に分かっているのか、と近衛騎士と宰相の気持ちが同じ事を考える。思わず目を合わせ、近衛騎士は慌てて姿勢を正した。
「お騒がせしました。緊急事態であれば一度落ち着かせてから通してください。焦るのには理由があります。」
「ハッ!失礼しました!」
近衛にも注意を忘れない宰相。彼は最近宰相になったばかりの身ではあるが、城内で既に一目置かれる存在になっている。
それは、前任の宰相が犯した多くの犯罪を全て詳らかにしたその手腕と、彼が宰相になってから施した多くの改革によってどの部署も滞りなく業務が行えるようになった実績があるからである。
ついでに、彼が注意するのは一々尤もな事であるため反論出来ず、それでいて反感を買わない言い方で言われるため彼に認められようと更に気を引き締める者が増えた。
彼の宰相就任によってこの城の雰囲気も随分と変わったのだ。
「なんの書類だ?あれだけ慌てていたのだ。雑多な用事ではないのだろう。どこぞの国でも宣戦布告してきたか?」
扉付近のやり取りを音だけで聞いていた国王は、早速とばかりに宰相へ手を伸ばす。差し出された書類を手に取ると、直ぐに読み始めた。
「陛下は勿論、蝙蝠族についてご存知ですよね。これは三国を巻き込んだ大事になりそうです。」
国王は書類を読みながらも人と会話できる事を知っている宰相は幾分低い声でそう言う。
宰相が言っている事が途中まで読んだ書類からも想像できた国王は眉間に皺を寄せた。
これは確認が必要か。
書類を読み終えた国王は最初にそう考えた。そして指示を出す為宰相を見る。
宰相は何やら机で書き物をしており、国王が視線を向けると同時に書き上げた。
「こちら、直ちにドラグ騎士団へ送ります。彼が直接来るかもしれませんが、それはそれでちょうど良いでしょう。対策を練ります。今回は彼らに動いてもらう他ないでしょう。」
出来る宰相は言わずとも既に動き方を決めていたようだ。
国王は開きかけた口を閉じ、頷く。もう一度書類に目を戻し読むが書いてある事は変わらない。忌々しく見つめてもそこには同じ言葉が書かれていた。
"西の国皇都陥落"