129話
彼はこの時既に顔は真っ青で手足に震えがきていた。
目の前で項垂れている豪商がもしかしたら論破してくれるのではないかと期待していたのは先ほどまでの事。
たった今自身に声をかけた人物が出てくるまでは勝利を確信してすらいた。
何故、この方がこんな場末にいるのだ。
彼の頭の中はこの一点のみに支配されている。そう、この貴族と思われる男はヴェルムの正体を知っていた。
「…何故貴方様がこちらにいらっしゃるのでしょうか。」
極度の緊張で横隔膜まで震えてきたらしい。そのせいで何とも情けない震えた声になってしまった。
だがそれでも聞かずにはいられない。ヴェルムさえいなければどうにかなったかもしれないというのに。
「おや。何故君に私の居場所を逐一言わなければならないのだろう。私を恐ろしく感じるなら君が私を避けるべきでは?」
ヴェルムは感情の込もらない声で淡々と言った。貴族の男にしてみればそれが何より恐ろしい。
彼がヴェルムを恐れるようになった時と似たような気持ちを抱きつつ、心の中で自身の一歩前にいる豪商をこれでもかと罵倒した。
そんな事をしても現実になんの影響もないと分かっていながら。
彼は侯爵家の生まれだ。嫡子として生まれ両親に可愛がられた。代々騎士を輩出する家系のため、彼も例に漏れず幼い頃から剣の鍛錬を受けさせられた。
父である侯爵家当主は当時近衛騎士団の副団長だったが、彼が十八歳になる頃に国軍の将校として働くようになった。
左遷だなんだと言われた事もあったが、身内である彼はそうでない事を知っていた。
当時世界的に情勢が不安定で、西の国は小国を飲み込みながら大きくなっている途中、南の国はグラナルド南東の小国郡から侵攻を受けていた。更にグラナルド北のイェンドル王国が内乱により王族が全て殺されたりした。
そんな状況で、優秀な将は国王を守る近衛より国外に出る事もある国軍の方が必要とされていたのだ。
侯爵家当主は優秀だった。貴族としての選民意識は常にあったが、平民は搾取するものではなく守るべき者として認識していたのが唯一の救いだっただろうか。
そんな折だった。
彼は騎士となるべく騎士学校へ通い、卒業後は無事に国軍に入団した。
貴族出身である彼は平民と違って国軍でも出世コースにいた。士官候補生として入った国軍は、聞いている以上に厳しい世界だった。
剣術、軍略の指導は学生時代が可愛く思える程に苛烈な授業となり、近衛からは貴族なのに国軍にしか入れないなどと馬鹿にされる。
勿論、貴族であるため社交界にも顔を出さねばならない。
彼にとって人生で一番選択を間違えたと思うのはこの社交界での出来事だった。
彼には意中の女性がいた。侯爵家を寄親とする子爵家の女性だった。
彼女との婚約も決まり、両家としても満足いく婚約だったはずだ。だが、この婚約に乗り気ではない者が一人いた。
それは彼のお相手、子爵令嬢その人だった。
令嬢には想い人がいた。叶わぬ恋だと理解しながらも、それでも恋焦がれてしまった。
だが婚約は決まってしまった。ならば権力ある己の婚約者を利用してでも果たしたい事がある。
令嬢の気持ちは強かった。そして、彼の令嬢に対する恋心も強かった。
結果、建国記念のパーティーで彼は選択を誤る。
令嬢のお強請りは彼にとって簡単な事ではなかった。だが可愛い婚約者のために意を決して声をかけたのだ。
「失礼。ドラグ騎士団団長殿とお見受けする。」
彼の声で振り返るのは長身の男。その髪は白銀に煌めき、こちらを向いた端正な作りの顔は何事かと疑問を浮かべている。
漆黒の瞳に心の底まで見透かされるような錯覚に陥りながらも、なんとか己の役目を思い出す。一度深呼吸してから名を名乗り、それからすぐに本題に入った。
「私の婚約者が貴殿の部下である二番隊隊長と話がしたいと言っている。今日は来ていないのだろうか。」
急に国軍の騎士から話しかけられたヴェルムは一体なんの用事かと身構えたが、何と言う事はない、婚約者の我儘に振り回されている哀れな若者だった。
ヴェルムにしてみれば大事な部下を男女の絡れに巻き込みたくない。当たり障りのない断りを探し、その過程で余計な悪戯を思いついてしまった。
「君は私の部下であり家族であるアズをどうしたいんだい?君が私の所に来たという事は、権力でも使って無理に、という事かい?それなら私は団長として国軍と戦争も辞さないのだけど。」
ヴェルムが返した言葉は過激だった。
それに、ヴェルムがいる場所はパーティー会場でも高位の貴族や王族がいる場所。当然会話は周囲に聞き耳を立てられている。
そんな国の中心とも言えるような場所での発言に、周囲が騒つくのは当然の事だろう。現に今ヴェルムに向かって非難の目を向ける者もいる。
彼は少し驚いたものの周囲が自身の味方になると考え強行する事にした。
「そのような事をこの場で言って構わないのか?ここアルカンタの国軍は王家に忠誠を誓う実力主義の軍だぞ?つまり貴殿は王家にも不忠の言を吐いたという事だ。戦争も辞さない?フン、引きこもりで平民どもの人気取りしか出来ん者共に言われてもな。」
決まった。彼はそう思った。王家に対し見かけだけでも忠誠を誓えば良い。この場で改めて跪かせれば国軍の威光に平伏した事になる。跪かないならばそれは逆賊だと認めるようなもの。どちらに転んでも彼の心を満たし立場を盤石にするだろう。
だが世の中そんな甘くない事を知る。
「平民ども?君の所属する国軍にも平民の騎士はたくさんいたと思うけど。」
王家云々をすっ飛ばしてそこに食いつくのか!?と考えたのは彼だけじゃないはずだ。周囲で聞き耳を立てている貴族たちも同時に同じ事を思った。
「フン、確かに平民の騎士もいる。だが貴族の者に比べれば明らかに見劣りするではないか。貴族は貴き一族。数ばかり多い平民とは違う。よって国軍では平民を使う慈悲深さにより、己の身を守れるよう指導しているというわけだ。」
一瞬混乱したものの口から勝手に出た言葉で冷静になった彼は調子良く語る。平民は貴族によって導かれる存在なのだ、と。
だから気付かなかった。彼が語るその姿を、目の前のヴェルムは楽しそうに聞いていた事を。そのヴェルムで隠れて見えない位置に座る国王も同じように楽しそうな顔で聞いていた事を。
「なら君は、何故その平民である私の部下を婚約者に会わせようとしているのかな。」
「は…?」
「いや、は?じゃなくてね。君の婚約者が恋焦がれて止まないアズール隊長は平民だよ?姓の無い、ね。」
散々バカにしていた平民を己の婚約者が恋焦がれている。そんな現実を突きつけられた彼の頭は混乱していた。
国軍では部隊の隊長には貴族出身の者しか就けない。だからこその士官候補生なのだが、ドラグ騎士団は実力主義である。そもそも、生まれで強さが決まる程度の生半可な訓練はしていない。しかし彼はそれを知らない。
失礼する!
そう言えたのは矜持か。すぐに婚約者の元に向かえば、令嬢は他の貴族令嬢たちと楽しげに談笑していた。
彼の背中に視線が集まったまま移動してきた事に気付かぬまま、令嬢の群れに入って行き婚約者の手を取る。
そして会場の隅まで連れ出すと小声で問いただした。
「アズール隊長は平民なのか!?何故言わなかったんだ。私が要らぬ恥をかく所だっただろう。」
既に大恥をかいた事は言わない。これも矜持だ。
「貴方は平民を使い捨ての駒のようにお考えですから。それに、アズール様をそのように仰っては貴方の将来が心配になります。」
令嬢の強気な態度に彼は驚く。だがそんな事を探る暇はない。二度と平民と会いたいなどと言わせないようにしなければ。
そう思ってふと周りに目をやれば、先ほどまで己の婚約者がいた令嬢の集まり全員がこちらを見ている事に気付いた。更に言えば、その目がまるで親の仇でも見るような怒りに満ちた感情を乗せている。
慌てて視線を彷徨わせれば、先程まで己がドラグ騎士団団長と話していた高位の貴族が集まる場所からも視線を感じる。
何故こんなに注目されているのかも分からぬまま、一応更に声を落として婚約者に詰問を再開する。
「貴女に私の将来を心配されるなど…。国軍ではこの考えは主流なのだ。貴女も国軍将校の妻となるならば平民に会いたいなどと世迷言を言わぬように。見た目だけの男になど懸想する必要はない。」
彼がそう言うとパーティー会場の騒めきが更に音量を上げる。まるで彼の言葉に反応するようなその騒めきに、いい加減ウンザリとしてきた。
「見かけだけの男?本気で仰っているの?では貴方には何があると言うの?権力?それは貴方のお父様のものよ。地位?ただの士官候補生が何を仰っているの?戦場に出た事もなくお勉強だけしている方の何が偉いの?容姿?鏡を見てからきてくださいな。」
彼はこんな言葉を婚約者からかけられた事はない。己が愛した婚約者からまさかこんな言葉を吐かれるとは、と思った瞬間。
パーティー会場のあちらこちらから盛大な拍手が鳴り響く。
すぐ近くにいる令嬢の集まりなど、全員が感極まった顔をして拍手をしている。
見れば会場の全ての視線が二人に集まっていた。
「なんだ!?なんだというのだ!」
混乱する彼に近付いて来たのは、婚約者が先程までいた令嬢の集まりで中心にいた人物。
カツカツとヒールの音を立てながら歩くその姿は美しい。
拍手をしながら歩くその姿を見て、会場中から鳴り響く拍手が静かになる。そして会場はシンと静まり返った。
「カルム公爵令嬢…。」
隣で呟く婚約者の言葉に我に返るも、既にこの場の全ての視線がこちらを向いており逃げ場などない。
まさか高位の令嬢が自身に話しかけるとは、と己の矜持を総動員して貴族式の礼をとる。
だが彼女が話しかけたのは彼ではなかった。
「もう十分かしら?貴女だけ聞いていない話を作るなど、わたくしたちの仲では許されませんわ。あぁ、それと。このような男はさっさと捨てなさいな。将来性は無し。見る目も無し。良いところは何もありませんわ。」
そう言って婚約者の手を取り踵を返すカルム公爵令嬢。
そう、婚約者がいた集まりはアズール隊長の隠れファンクラブだった。
事態を飲み込めず礼をとったまま固まる彼に同情の視線と侮蔑の視線が集まる中、朗々としたよく通る声が会場に轟いた。
「さぁ皆のもの。今宵はまだまだ長い!グラスを取り合わせよ!グラナルドが生まれた善き日に!」
「「「善き日に!!」」」
国王だ。国を継いでから戦が無く、日和見王などと揶揄されてはいてもその存在感は圧倒的だった。
何事もなかったように続くパーティー。彼だけがその場から取り残されたような気がした。
「おい!なんだよさっきの!お前の話す事全部会場中に聞こえてたぞ?」
茫然とする彼に話しかけたのは、同じ国軍所属の士官候補生だった。
一つ年上だが明るく分け隔てない性格のため付き合いが多く、彼の伝手に助けられた者も多い。
そんな友である同僚から伝えられたのは、思ってもみない事実だった。
「平民を馬鹿にするのも止めろって言ってんのにこんな所で全員に聞かせて。お前、出世出来なくなったぞ。」
そう、ヴェルムとの会話から婚約者との会話まで、全て会場中に筒抜けだった。通常ではあり得ない事。ならば原因は一つ。魔法しかない。
そう思って咄嗟に一方を見れば、やはりその人物はこちらを見ていて笑っていた。こちらに手を振る余裕すらある。
だが、その目は笑っていない。かなり距離があるにも関わらず、その目に射抜かれたかのように動けなくなった。背筋には膨大な量の汗が流れている。
意識が遠くなった気がした。
「わ、私は…。っし、失礼するっ!」
慌てて駆け出した貴族の男。お付きらしい者も慌てて着いて行った。
「これで解決かい?」
ヴェルムのその声は何故か酷くその場に響いた。