128話
「良いからさっさと奥に案内しろと言っているだろう!こちらのお方を誰だと思っている!」
通常ならば聞こえない奥の予約席にその声が聞こえたのは、単に三人の耳が良すぎる所為だった。
ほのぼのと東の国の文化について話していた三人は同時に視線を広間の方角へ向ける。
何やら大人数が来店したのは気配で分かっていたが、どうも問題のある客らしい。
ヴェルムの様子を伺うように見た二人に対し、ヴェルムは首を横に振った。
それでも尚伺うように見る二人に苦笑してみせると、ヴェルムはゆっくりと口を開いた。
「内一人は知ってる気配だね。まずい事にはならないと思うよ。」
それだけ言うと急須から緑茶を湯呑みに注ぐ。新たに魔法で淹れたため出涸らしだがヴェルムは気にしない。
味も香りも薄くなったそれはそれで楽しみ方があると個人的に考えているからだ。
「ヴェルムがそう言うなら、まぁ…。しかしあの看板娘は戦えねぇだろう?良いのか?」
アレックスが言っているのは、有事の際に看板娘が被害に遭う事だ。だがそれも踏まえてヴェルムは首を横に振った。そんな事はアレックスやガイアも分かっている。
それでも心配そうにするアレックスに対し、ヴェルムはその長い白銀の髪を耳にかけながら苦笑をもう一度向けた。
「アレックス。団長が大丈夫ってんなら大丈夫でしょう。まぁ、少しばかり料理が来るのが遅くなるかもしれませんがね。」
ガイアも何かを堪えるようにしながらも、フッと息を吐いてその力を抜く。次いで発した言葉は確かなヴェルムへの信頼があった。
しかしその言葉でハッとしたアレックスは、それはいけない!と一言言うと立ち上がる。
ヴェルムはガイアに咎めるような視線を向けながらも苦笑は収めていない。これで良いという事だろう。
「ヴェルム、ガイア!俺は腹が減ってるんだ。それに楽しみにしてる東の国料理が遅くなるのは耐えられねぇ!行ってくる!」
そう言ってから飛び出したアレックスを、二人は止めなかった。
「変わってないね、アレックスは。昔もよくあぁして問題ごとに首を突っ込んでいたよ。当時は彼が関わると大事になるからって、街の警備兵や騎士たちが問題を即解決出来るように気を張っていたからね。おかげで冤罪も増えたけど。」
「…ダメじゃないっすか。」
何やら昔を思い出しながら出涸らしの緑茶を啜るヴェルム。
呆れたように笑いながらも何とか突っ込んだガイアも、緑茶に手を伸ばした。
彼らの昼食はまだのようだ。
「この私が奥の部屋を使うと言っているのだ。予約席だろうが何だろうが、今すぐに準備しろ!こちらのお方をお待たせする訳にはいかん!」
「ですから、あちらの個室をお使いくださいと何度も申し上げているではありませんか。現在予約席にはお客様がいらっしゃるためお通し出来ません。」
「なに?あの席は予約席と言いながら誰も使わぬ席だと聞いているぞ?一体、この私を差し置いて通す客とは誰なのだ!」
店に入ってすぐの広間では決着の着かぬ押し問答が繰り広げられていた。
豪華な服を身に纏い、輝く宝石の指輪を嵌めたその指であちこちを指しながら文句を連ねる豪商。彼は以前も来た豪商である。
看板娘の言う通り、奥の予約席に通せと言っているらしい。そのすぐ後ろには如何にも貴族らしい質の良い服を身に纏った男が立っている。
流石にこの騒動では料理どころでないからか、店主も出てきて今すぐに拳を振り上げそうな雰囲気を醸し出している。
そんな店主に手をあげさせないためか、今は必死に看板娘が説得を試みているようだ。
「あの予約席にはお通し出来ません。あの部屋は常に今いらしている方のために空けておかねばならないからです。」
豪商の勢いにも負けず、堂々と言い返す看板娘。その後ろ姿に店主は、昔は俺の後ろに隠れてるばかりだったのに成長して…、などと関係ない事を考えて涙ぐんでいる。
だがそれもすぐに引っ込む。今店主の脳内は一つの思考に支配されていた。
こんなに立派に育ったウチの自慢の義娘にイチャモンつけやがって…!
旧東の国との戦争で多大な戦果を挙げた店主が今にも飛び出しそうな形相で豪商を睨む。
急に殺気の込められた視線を向けられ背筋が冷えた気がした豪商が怯むと、これを機会とばかりに看板娘が畳み掛ける。
「そもそも、急に大人数でいらして他の方の予約席を空け渡せなんて不躾な事が本当に罷り通るとお思いですか。お見受けするに商人の方だとは思いますが、そんな無礼な真似が出来る方と取引してくださる方がいらっしゃる事が不思議でなりません。」
看板娘も熱くなっているのか、冷静ならば絶対に言わないことまで言っている。しかしこれは逆効果だった。
世の中には正論で諭せない相手など掃いて捨てる程いるものだ。
この豪商もその類の者だった。
「き、貴様っ!黙って聞いておればこの私に無礼な…!良いだろう。そこまで言うなら私にも手がある。おい、あれを。」
ワナワナと震える手を握り締め、何かを堪えたかと思えば。側付きらしい若い男に声をかける。側付きは懐から一枚の紙を取り出すと、恭しく豪商へと渡す。だがその顔は嫌らしい笑みが浮かんでいた。
「ほれ、これがこの店の利権書だ。つまり、今日よりこの店は私のモノ。この私の指示に従えば許してやらんでもなかったがもう遅い。この土地を含めた全てが私のモノとなった以上、貴様ら親子は私のモノだ。今すぐ私を予約席とやらに通せ。」
店主と看板娘は信じられない目でその紙を見る。そこには、商業ギルドが発行したという証明の印が押してあり、この店の権利を土地ごとこの豪商に譲る旨が書かれていた。
「なんだそれ?」
その時、場に似つかわしくない惚けた声が響いた。広間に残った客、店主と看板娘、豪商と貴族らしい男、側付きや豪商に着いてきた数名の武装した男たち。この場にいる全ての視線が声の発生源へと向く。
そこには目つきの悪い男、アレックスが立っていた。
アレックスは誰も声を発さないこの場をスタスタと歩き、脱いだ靴を履いて広間に降りてくる。
豪商の目の前まで来ると権利書をスッと抜き取り目を通した。
「おいおい、こりゃマジもんか?いつの間に商業ギルドはこんな出鱈目な書類作るようになったんだよ。」
「なっ、商業ギルドの印が入ったこの権利書を疑うか!返せ!」
アレックスに奪われるまでなぜ身体が動かなかったのかという疑問はもう豪商には浮かんでこない。単にアレックスが威圧をかけ身動きを封じただけなのだが、そこに気付かない事が幸か不幸かは分からない。
だが権利書を破かれでもしたらまた取りに行かねばならない。手間が増えるのは本意ではない、と豪商はアレックスから権利書を奪い返そうと手を伸ばす。
しかし、その手はアレックスによって手首を掴まれ止まる。その瞬間、護衛らしき武装した男たちが剣を抜きアレックスに突きつけた。
金があるという見た目の通り、護衛にも高い金額を払っているらしい。アレックスの威圧を受けた後で、現在は威圧していないにしてもすぐに動ける護衛たちは優秀なのだろう。
「あー、これは確かに商業ギルド発行だなぁ。昔なら兎も角、今は俺じゃダメだわ。おい、ヴェルム。聞こえてんだろ?さっさと片付けろよ。俺は腹が減ってるって言ってんだろ?」
剣を向けられても権利書を眺めていたアレックスだったが、不意に呟く。それは誰かに話しかけているようで、しかしこの場にいる誰にでもない。
一体何を言っているんだ?と疑問が浮かぶ豪商だったが、思考に夢中ですぐ後ろに立つ貴族らしい男の表情が変わったことに気付かなかった。
「そんなに騒がなくても聞こえているよ。威勢よく飛び出した割に何も出来ず私を呼ぶのかい?アレックス。全く、それでも王族かい?」
その声は決して大きくないのによく響いた気がした。そして、その声に信じ難い言葉が含まれていた事も分かった。あまりに急な展開に、この場の誰もが声を出せずにいる。
その言葉の意味を理解した護衛の一人の剣先が震えだす。己が剣を向けている相手の事を指しているその言葉に、目の前で権利書をヒラヒラと振っている男の正体が聞こえたからだ。そして理解してしまった。
己の運命は暗雲に包まれた、などと考える余裕は無い。
ただ、終わった…。と全てを諦めるしかなかった。
王族。つまりグラナルドを治める王家や、その血筋である公爵家。初代国王の血を継いでいる貴き者の事をそう呼ぶ。
そうでなくとも、他国の王族という可能性もある。そんな相手に剣を向けては護衛の寿命は長くて数分になるかもしれない。
しかし、そんな言葉に反論を返す猛者がいた。
「有り得ぬ!こんな場末に王族がおるものか!それに現在の王族にアレックスなどという名の王族はいらっしゃらない!…なるほど、貴様らは王族を騙る犯罪者か。ならばこの私が捕らえて城に突き出してくれる!お前ら親子はその後だ。私の息子がこの娘をいたく気に入っていてな。正妻にとはいかんが、愛人にしてやる故有り難く思え。お前たち!さっさとこの犯罪者を斬れ!」
豪商だった。護衛からすれば王族の名前など詳しく知らない。そのため豪商が言う事が本当かどうか分からなかった。
しかし今の国王や王太女は知っている。そしてその顔も。絵姿が出回っているため、彼らも見た事があるのだ。
更に重要な事に、この目の前の男はその二人と何処となく似ていた。それこそ、親戚だと言われれば納得出来るくらいに。
迷いが剣に現れるほどに動揺した護衛たちに、尚も命令を下す豪商。だがその板挟みの状況にも終わりが訪れた。
「そもそも、この土地は私の持ち物だよ。商業ギルドが勝手に売るのは困る。疑問なのは、何故商業ギルドに登録されていないこの土地の権利をギルドが勝手に取引出来るのか、という部分だね。この意味、君も商人なら分かるだろう?」
ヴェルムはスッと目を細め豪商を見る。豪商は膝が震えるのを自覚していた。そして、ヴェルムが告げた言葉の意味も良く理解できた。出来てしまった。
アルカンタなどの大きな街には、必ず商業ギルドの支部がある。アルカンタには本部があり、限られた土地を効率的に使うため国や領主の認可を持って土地の売り買いがされるのだ。
つまり、国や領主の持ち物である土地をギルドが仲介し市民などに売る。
買った者はその土地の所有者となり好きに使う事が出来る。だがどこでも好きに買えるという訳でもなかった。
その例外が、商業ギルドに登録されていない土地である。
これは領主や国が直接所持する土地で、各街に複数存在すると言われている。
用途としては、王族のお忍びのための拠点となる家を建てたり、公共の建物を建てたりするためだ。
早い話が、登録されていないという事はイコール王族や貴族の持ち物、という事になる。
ここアルカンタではその可能性は王族しかあり得ない。
つまりヴェルムが言ったことは、この店は王族の持ち物ですよ、という事。
だが、豪商はここで疑問を持った。
先ほど王族だと言われた男なら分かる。だがそれを告げたやたらと見目が美しい若い男は王族ではないはず。ならば何故この土地の権利は自分の物だと言ったのか。
そこを起点に反論してしまえばボロが出るのでは。そう考え下げていた顔を上げた時だった。
「アルカンタでは王族だけが土地を持つ訳じゃないんだよ。正確には、国王から貰ったと言えば良いのかな。まぁ気になるなら城に行って国王に聞いてみれば良い。正式な書類を揃えて教えてくれるはずさ。この土地の所有者が誰なのか。」
豪商は訳がわからなかった。土地を貰った?有り得ない。だがこの男の自信溢れる言い方からして嘘とは思えない。
これでも商人として店を大きくしてきた自負がある。見抜けない嘘などないはず。
そう思っていた豪商は今自信をなくしていた。
ここは大人しく引き下がるしか無い。そう考えるのも仕方ない事なのかもしれない。
そして言葉が降ってくる。
「アレックスには不敬罪なんてものはないから安心すると良い。けれど、君。君にはまだ話があるよ。」
ヴェルムが声を向けたのは豪商ではなかった。