105話
「ホホホ、久しぶりじゃの。息災な様で何よりじゃ。」
翁が左手を軽く挙げる。挨拶をしたのは、零番隊の隊服を身に纏い長い髪を高い位置で一括りにしたゆいなだった。
「翁も変わらずお元気そうで何より。そういえば、先日暁から怒られたとか?」
会議室での事を言っているらしい、と直ぐに当たりをつけた翁。毛でほとんど顔が見えないが、眉尻が下がっている事は分かる。
「ゆいな嬢にも聞こえてしまうくらい噂になっとるのかの?参ったわい。」
杖を握る手を左手に変え、右手でこめかみの辺りをポリポリと掻く翁。
「偶々だが。昨日暁から任地に入ったと連絡が来てな。その時に言っておった。精鋭がこれでは示しがつかぬとも言っておったよ。」
「いやぁ、正に彼奴が言う通り。面目ないことよ。」
ドラグ騎士団の団員は、程度の差こそあれど皆がヴェルムを慕い集まっている。
中でも、零番隊は付き合いが百年単位で長いため、絆も深いがヴェルムに迷惑をかけた時の対応も強烈になる。
「確かに、今まで我らは部隊や個人の能力に応じた任務を言い渡されてきた。団長が今まで気付かなかったのは、誰一人としてその任務を厭わなかったからだ。だが今回彼が任務を渋ったと聞いている。団長はお優しい方だ。今までの任務も嫌々従っていたのではないか、と考えたのだろう。明らかな失態だぞ。それこそ、鉄斎殿とは比べ物にならん。」
どうやら、ゆいなもそれなりに怒っているようだ。一言も反論出来ない翁は、黙ってションボリと肩を落としている。
ゆいな隊の部隊員たちも周りにいるが、皆揃って厳しい目で翁を見ている。
場が妙な緊張感に包まれたところで、ゆいなが大袈裟にため息を吐く。
「まぁ、過ぎた事は言っても仕方ない。精鋭の三人はそれぞれに任務があるだろう。ここで挽回を見せる必要がある。翁にはなるべく手柄を渡せるように予定を組もう。皆もそれで良いか?」
ゆいな隊の部隊員に向けて問うゆいな。渋々ながらも頷く部隊員たちを見て、満足そうに頷いた。
翁はそんなゆいなに少しだけ頭を下げる。長い眉毛の隙間から見えるその瞳は、何やら決意が現れていた。
「では手筈通りに。イェンドル領の領主に関する事は全て翁に委任されている。私たちはその補佐だ。リク王女からも許可は出ている。では後ほど。」
ゆいなは翁にそう言うと、作戦開始時刻となったためゆいな隊の部隊員たちと共に姿を消す。
残された翁は黙ったまま目を閉じて何やら考えている。
現在翁が立っているのは、イェンドル王家が暮らしていた王城を一望出来る、旧イェンドル王国王都側の丘の上である。
城下町では平民が道という道を全て埋め尽くす勢いで溢れ出し、皆揃って城へ向かっている。
中には武装した者もいるようだ。冒険者であろうか。揃いの鎧などではなく、魔物由来の装備品を纏っているようだ。
きっと彼らはイェンドル出身の冒険者なのだろう。
イェンドルは昔から魔物がそこまで多くなく、危険度も高くてCランク程の魔物ばかりである。
そのため、各国との交易が比較的容易だった。
しかしその分、強い冒険者が育たない。
宰相や一部貴族による反乱の際は、外国の冒険者が多く雇われていたという。
国を護る軍も、一騎当千のような実力を持つ冒険者たちには歯が立たず。
結果的に国は滅びる事となった。
そう、反乱は結果から見れば失敗したのだ。
当時の事をリクは殆ど覚えていない。
彼女の魔力の多さと質の高さは、その日に急に上がったというのに。
翁はしばらく城下町を眺めていたが、一度深呼吸をして目を開いた。
すると、翁の腰の曲がった身体が浮かぶ。
そのままフヨフヨと城へ向かって飛んでいった。
現在のイェンドル領の広さは、旧イェンドル王国よりもかなり小さくなっている。
それは、北の国が旧イェンドル王国の子爵だった現領主に下賜する際に、大幅にその領地を削ったからである。他国の貴族が国一つ分の領地を持つ事は危険であるため、ある意味当然の措置だった。
因みに、元イェンドル貴族の現領主が治めるようになったのには理由がある。
それは、イェンドル領が欲しい北の国の貴族があまりに多かったからだ。現領主に下賜する時に削った領地を、周辺貴族に与える事も出来たが、何も功績を挙げていない貴族に渡すのは外聞が悪い。
そこで、しばらくは王家直轄領とすることにした。
王家直轄領には国王から指名された文官が領主代理として就き、他領と同じ様に民から税金を回収する事で領の発展に寄与する。
領主代理は国から給金が出るため、領の運営がどうなろうと食うに困る事は無い。
そのため、発展もしないが解雇を避けるため衰退もさせぬよう無難に治める者が多いのは確かだ。
イェンドル領では、北の国の子爵位を手に入れた元イェンドル貴族の男が、城の玉座で酒を飲んでいた。
周りには透けたレースのドレスのみを身に纏う情婦のような格好をした女性が沢山侍っており、ゴブレットの中身が無くなると直ぐにその女性の一人が酌をする。
領主はご機嫌だった。
これはいつもの事で、イェンドルの富を食い潰して生きてきた。
政務を行なっている姿を見た者はおらず、部下に領主印を預ける程である。
その部下が優秀なのか、領民は領主がこんなでも日々逞しく生きており、国から領に変わった後も経済的に沈んだ事は無い。
イェンドル王国は商人の国だった。
北の国、中央の国、旧東の国と国境で接しており、それぞれの文化を尊重し各国の架け橋として中立を宣言。
それぞれからの関税によって暮らしを豊かにしていく方針だったため、イェンドルには各国の工芸品や名産品が揃い、市場は毎日大盛況だった。
そんなイェンドル王国だったため、どうしても商人の発言力が強かった。
貴族であっても商売は当たり前で、国土が狭い分、領地を持たない貴族も多かった。
現領主もそんな領地を持たない貴族の一人だった。
彼は子爵位を多額の金で買い、主に北の国との交易による商売で金子を稼いだ。
現在彼が領主をやっているのも、その当時の北の国とのパイプが大きな理由なのは間違いない。
彼には夢があった。
それは、まだ爵位を持っていなかった頃の話。
父親が国内の有力商人が集まるパーティーに招待され、それに着いて行った時。
現在から見れば、十数年前のことである。
パーティー会場は、王家の親族でもある公爵家の屋敷で行われていた。
数百人の有力商人が集まり、公爵とその家族に挨拶しに訪れる。
そんな商人の中に彼もいた。
パーティー会場でコネクションを作るのに忙しい父は、彼を放って挨拶回りに忙しい。
彼もこの時既に商会の幹部として働いており、自身のコネクションを広げるために父と同じ様に何度も頭を下げながら取引先を探していた。
そんな時である。
会場に遅れて入場してきた者がいた。
それは、イェンドル王家第一王女、リクであった。
薄緑の癖毛を肩に流し、北の国の伝統織物を使用したドレスを身に纏っている。
宝石はグラナルド産の物で、東の国で作られる扇子という扇を持っている。
他国の物ばかり身に付けているというのに、互いに主張しながらも王女本人を引き立てる事に成功しており、異文化の理想的な融合が、王女一人で体現されているようだった。
彼は衝撃を受けた。
これ程までに神に愛された容姿の女性がいるのか、と。
一瞬で心奪われた彼は、周りの騒めきによってその女性が王女である事を知る。
爵位も無い商人の身分では、姫に話しかけることなど出来ない。
彼は拳を強く握りしめた。そして誓ったのだ。
いつか必ず姫を手に入れる、と。
「あぁ、肩が凝った。誰が揉んでくれる?」
彼がそう言えば、周りに侍る女性たちは我先にと領主の肩に群がる。動かなかったのは、領主の足置きとなっている四つん這いの女性と、酌をするためワインボトルを持っている女性だけだ。
よく見れば、女性たちの年齢は皆十代半ばに見える。
それに、髪は薄緑やエメラルドグリーン、ライムグリーンなど緑系統の者ばかりである。
そんな、"何処かの誰か"に良く似た女性たちを侍らせている謁見の間に、一人の兵が駆け込んできた。
「領主様!緊急事態です!」
蒼白な表情をした兵は、どうやら伝令兵であるらしい。
ここまで走ってきたのか、肩で息をしている。
「何事だっ!ここを何処だと思っている?騒がしくするなら叩っ斬るぞ!」
領主はそんな兵の様子は見もせずに、ただこの場の空気を変えた事に憤慨していた。
だが、兵もそんな領主に慣れているのか、もしくは己の任務を最優先としたか。
騒ぐ領主に向かって敬礼をした後、勝手に報告を始めた。
「領民が一斉にこの城へ向かって来ております!中には武装した者も。口々に、領主を殺せ、と言っており、現在は領軍で足止めをするのが精一杯です。ご指示を!」
伝令兵は目を瞑って言い切った。
もしこれで己が斬られても後悔はない。いや、やっぱり死ぬのは嫌だ。
そんな事を考えながら領主からの返事を待つ伝令兵。
だが、中々返事が返ってこない。
恐る恐る目を開くと、そこには玉座に座ったまま酒を飲む領主が居た。
話を聞いていないようには見えない。
指示を求めた以上、何かしらの命令を受けなければ動けない。だが、事態は一刻を争う。今も城下町では同僚の領軍の兵たちが民を必死に説得しているのだ。
しかし、無情にも返事は返ってこず、領主は周りに侍る女性の身体に手を伸ばし始めた。
女性たちは嫌がる素振りを見せながらも、嬉しそうに笑っている。
そんな女性の仕草がクるのか、領主の鼻の下は完全に伸びていた。
それから何分経ったのか。それとも数十秒か。はたまた数時間なのか。
伝令兵は緊張と焦りの中で時間の感覚を失った。
だが、そんな時間も終わりが訪れる。
「なんだ?まだいたのか。下がって良いぞ。」
領主は片眉を吊り上げながら心底面倒そうに言う。
一々言われんと行動出来んのか、これだから融通の利かない奴は…。などと呟いている。
伝令兵は一瞬、何を言われたか分からなかった。
だが直ぐに気を取り直し、再度指示を仰ごうと口を開く。
しかし、その声が口から出る事はなかった。
「何をしている?さっさと出ていけ!民の事は自分たちで解決しろ!もし城の敷地を一人にでも踏ませたら、お前たちがどうなるか分かっているのか!?分かったならさっさといけ!殺しても良いから止めてこい!」
結局、伝令兵が言えたのは、ハッ!という返事だけだった。
謁見の間から下がってからも、伝令兵はどうして良いか分からなかった。
確かに、この領主ではまともな指示が出ないだろうとは思っていた。だが、殺しても良いとまで言われるとは思っていなかったのだ。
彼の家族は城下町に住んでいる。もしかしたら、今回の民の行進の中に家族がいるかもしれない。
もしそうなったら、自分は家族に剣を向けるのか…?
答えの出ない自問自答を繰り返しながら走る伝令兵。その瞳には涙が浮かんでいた。