101話
北の国某所。
地上に建つ広い屋敷では、今日も多くの使用人が働いている。
彼らの仕える主人は、この国で知らぬ者はいない程の有名人である。
北の国の国王から何度も勲章を授かり、平民の生まれにしてそこらの貴族よりも余程権力と財力を持つ。
屋敷の主人は使用人にも優しく、使用人の経験など無くとも一から教育を与え、読み、書き、計算、作法など様々な分野の基礎から応用まで仕込む。
休暇もしっかりと貰えるため、纏まった休みで実家に戻る者も多い。更には給金も良いため、実家に仕送りをする者が大半である。
そんな屋敷の主人の職業は、錬金術師だった。
毎日作業部屋に篭っては、新たな魔法薬の研究に没頭する。
使用人にも優しい主人だが、この作業部屋には掃除のためですら使用人の入室を禁じていた。
「お館様はまだ戻られないのかしら?確か、新しい魔法薬の実験に出ると仰られていたわよね…。」
「いつも実験の際は一月ほどで戻られるわ。きっと今回もそのくらいかかるのよ。」
掃除道具片手にお喋りに花を咲かすメイドたち。
そこに通りかかった侍従長が注意をするも、彼女たちは笑いながら謝り仕事に戻るだけ。
屋敷の主人を心配した発言が切っ掛けだったためか、侍従長もとやかく言わないようだ。
それ程までに、この屋敷の主人は使用人に慕われているらしい。
ある日、稀代の錬金術師の屋敷を訪ねた者がいた。
「お初にお目にかかる。拙者は東の国で薬の研究をしておる者でして。ぜひ高名なこの屋敷の主人様にお会いできないかと。」
そう言って訪ねて来たのは、東の国の装束を身に纏った老人だった。
後ろにはお付きの者が数名。皆が東の国の者と分かる、黒髪黒目の者たちだった。
屋敷の主人は、先日実験から帰ったばかりで、改良のためと言って作業部屋に篭っていた。
来客の連絡を入れると、珍しい事にすぐ部屋から出て来た。
普段は来客があろうと、キリの良いところまで進んでいなければ待たせるのが当たり前なのである。
「ようこそいらっしゃいました。まさかとは思いますが、貴方は鉄斎先生では?」
屋敷の主人が来客を通した客間に入ると、すぐに来客の正体を予見して言った。
ソファに座る老人が立ち上がって挨拶しようとするのを手で制し、期待に満ちた瞳を向ける。
老人はカッカ、と笑ってから頭を下げた。
「如何にも。拙者の名は鉄斎。まさか北の国で拙者の名が知られているとは存じませんでしたな。」
東の国と北の国は、北の国の辺境伯領を経由して交易がある。
東の国は石の街と呼ばれる街を拠点に北の国と交易しており、互いの国の情報はそこそこ知り合う事になる。
その中に、北の国の稀代の錬金術師と、東の国の薬売り鉄斎の名が含まれた。
北の国の者が病気や怪我で悩む話を聞くと、東の国の者は鉄斎様なら、と話を上げる。逆も然り。北の国の者は錬金術師様なら、と言うのだ。
そんな、国を支える薬を生み出す二人が出会う。
錬金術師は、鉄斎の薬を見てみたいと言った。
「勿論、拙者の薬で良ければお見せしましょうぞ。こういうのはどうですかな。今研究している物を見せ合う、というのは。他者の意見が入れば何か閃きに繋がるやも知れませんでな。」
「おおっ!よろしいのですか!?是非、是非見せ合いましょう!今の研究は完成間近なのですが、細かい調整が上手くいかないのです。鉄斎先生のご意見を頂けるのでしたら、どうぞお好きに見て行ってください!」
どうやら、錬金術師は鉄斎を尊敬しているように見える。
噂だけで尊敬に値するのかは分からないが、自身の研究部屋を他の者に見せるなど普通はしない。
それが師弟でも見せる事はしない。それが弟子のためだからだ。
しかし、こうした部分的な交流を好む学者もいる。自身だけの意見でなく、他者の意見を取り入れる事でより良い物を作り出そうという理念がある学者がこれに当たる。
この錬金術師も、自身の認めた相手ならば意見を聞く事が出来る柔軟な思考の持ち主のようだった。
「ど、どうしたというんだ…?僕の研究は完璧だったはず。中央の国との境の山脈から、これだけの数の魔物を集めたんだぞ…?いや、そうか。僕の研究で確かにスタンピードを生み出す事は出来たんだ。つまり、魔物を操る事は出来たって事。でも、誘導は出来ても興奮すれば言う事は聞かない…。もっと研究しなくては…!」
国境付近の森で、誰もいない空間から声が聞こえる。
どこをどれだけ見ても、その声の主は見受けられない。
だが、確かにそこに誰かいるようだった。証拠に、声の主が歩いたと思われる場所は落ち葉が沈んでいる。足跡がしっかりと残っており、誰かが通ったのは一目瞭然だった。
「興奮を抑えるために鎮静剤をもっと入れるべきか…?でもそうすると今度は身体の動きが鈍るよな…。思考は冷静にしつつ、身体の動きは阻害しないように、か。薬草では無理だな。やはり魔法を入れるしかないか…?魔石のような物にその効果を閉じ込めて…。」
ブツブツ言う声が遠ざかっていく。依然として姿は見えないが、確かにそこを歩いているようだ。
森を出た声の主は、近くにポツンと建つ小屋に入る。その後魔法が発動する気配がしたが、それから何時間経っても出てくる事はなかった。
「以上です。」
報告を終えた零番隊隊員が黙る。
その報告を受けていたのは鉄斎だった。
「団長との連絡とも一致するな。では、計画に移る。予定通りに進めろ。」
「はっ!」
隊員は敬礼の後姿を消す。
鉄斎の手元には、団長から届いた書類があった。
スタンピードを半日で制圧した事、魔物の種類と数、逃亡し仕留めきれなかった数と逃げた方向などが細かく記されている。
鉄斎からも団長に報告書をあげているが、鉄斎隊の動きがこれから重要になるのは間違いない。
夏前までは東の国にいた鉄斎隊が、北の国へ来たのは任務のため。
北の国で囲われている錬金術師が開発した、魔物を操る魔法薬の実物と製造過程を把握する事が主な内容になる。
「さて…。どういう決着が望ましいかのぉ…。」
誰もいない部屋にカッカ、と笑い声が響く。
鉄斎隊の作戦開始の狼煙が上がった。
鉄斎隊が動いてからは速かった。
錬金術師の屋敷を、地域にはなんの疑いも持たせないまま屋敷の機能を止めず、錬金術師だけを確保した。
彼は普段から作業部屋に篭るので外部と連絡が付かなくなっても違和感はない。
「なに、何があったんだ!?僕は国に認められた錬金術師だよ?君たちは一体なんなんだ!もしかして、家族が病気とかで何か薬を作ってほしいのかい?ならこんな事しないで手続きをしっかりしてくれたら届くようになってるから!君たちが捕まってしまったら、病気の家族は治っても悲しいだろう!?」
目隠しと手枷足枷をつけられた錬金術師は、座った椅子から周囲に声をかける。
全くもって勘違いだが、鉄斎隊の尋問係はそれに乗る事にした。
「なに?お前、知らないのか?」
「な、何を知らないって言うんだい?」
「お前が作った薬は国が一括管理してる。平民や貧民には与えられねぇよ。」
「んなっ!そんなはずはない!孤児院や貧しい人に優先して配るようお願いしている!余剰分から貴族に渡すと陛下も約束してくれたんだぞ!」
「ハンッ!お前は本当に何もしらねぇんだな。いいか?確かに最初は貧民やら平民の要望に応えて作ってたかも知れねぇが、今は違う。だが余剰分を貴族に渡してるのは本当だ。」
「なら間違ってないじゃないか!君たちもこんな事しないで、要望書を出すんだ!」
「おいおい。まだわからねぇのか?平民や貧民からの要望書がどれだけあるのか。んで、そんな大量の要望書がありながら何故貴族の分の余剰分が出るのか。貴族の中じゃ当たり前の常識だぜ?」
「お前は何を言っているんだ…?僕はただ、貧しい民に病気からの救済を…。」
「現実逃避すんなよ。ちゃんと自分で考えろ。いいか?貴族は薬がほしい。でも平民の要望が優先。ならどうする?簡単だ。要望書出した平民が薬を受け取る前に死ねばいい。そうすれば一つ余剰分が出る。」
「…なっ!」
尋問係は的確に錬金術師の心を折りに行っていた。
今まで信じていたものが崩れる音が聞こえた気がした。
それ以降錬金術師は黙ってしまい、話を聞くどころではなくなった。
だが、それが許されたのは数時間だけだった。
「まだ聞き出せんか?」
部屋に入って来たのは鉄斎だった。
直接顔を合わせた者は誰もこの部屋に入れていないが、鉄斎は声も喋り方も変幻自在であるため特に気にせず入って来たようだ。
「申し訳ありません。治療薬の行方を聞いてショックを受けたようで。」
「なに?そんな初歩的なことも知らんかったのか?コイツは。おやおや、可哀想な坊ちゃんだな。てっきりコイツは分かってて国の飼い殺しになってるもんだとばかり。だから魔物を操るなんて研究を始めたんじゃないのか?」
今は爺のような話し方を封印し、声は低くドスの効いた声で話す鉄斎。
その声が聞こえているのか、錬金術師の肩がピクリと跳ねた。
「本当に可哀想だよなぁ。自分は貧しい民を病気から救ってると信じて。まさかその仲介をしている国王や貴族が全員で画策し薬を搾取しているだけとは思ってもみなかったんだろう。コイツが聞いた話は、全て高い金を払って貴族から薬を買った富裕層の民の話だろう。馬鹿が、そんなもんに騙されやがって。んで?魔物を操る魔法薬や何処からの依頼だ?」
錬金術師は心が折れたのか、縋るものがない状況に嫌気がさしたのか、素直に話した。
国民を守るため、魔物を操り纏める事が出来るようにならないかと聞かれた事。
旧イェンドル王国を滅ぼした中央の国がこの研究を狙っている事。
中央の国は卑劣な方法でイェンドル領の民を捕縛し、自国に連れ去り貧しい暮らしをさせている事。
その集落で実験したところ、成功はしたがスタンピードまでは起こせなかった事。
殆どが北の国に都合の良いように作り替えられた話ではあったが、錬金術師がそもそも平民の出で、歴史などの勉学はほとんどしてこなかった。
更に言えば、彼の両親は農家で、学とは無縁の存在だった。
腕はあるが考える能は無い。正に国にとって利用しやすい駒だった事だろう。
これまではそれで許された。だが、中央の国、即ちグラナルドに手を出した。
それが全ての間違いだったのだと、北の国は思い知らされねばならない。
鉄斎隊の仕事はまだ終わりそうになかった。
「それで?その錬金術師の彼はどうするんだい?」
ドラグ騎士団本部本館の団長室で、ヴェルムは鉄斎隊からの報告書を片手に通信魔道具へ声をかける。
通信中である事を示すランプが灯っており、無音の時間は通信相手が考えている時間を示していた。
「…やはり、北の国の民を救いたいと申しております。ある程度此奴が自由に動かせるよう、国からの干渉を止めさせる必要がありますな。」
返ってきたのは鉄斎の声だった。
その声からも分かるように、渋々というのがよく伝わる。
「まぁ、彼はそう言うだろうね。これまでの行動もそれをよく物語ってる。良いじゃないか。好きにさせなよ。その代わり、分かってるね?」
ヴェルムが苦笑いしながらそう言うと、鉄斎がほんの少しため息を吐く音が聞こえた。
彼にしては珍しい事だ、などとヴェルムが考えていると、その鉄斎から更に返事が届く。
「承知しました。では当初の予定通り、あの薬に関する情報だけ全て消し、再度開発しないよう対処しておきます。」
鉄斎の中で道筋が出来たのか、その返事は先ほどより幾分か声に力があった。
「頼むよ。苦労をかけてすまないね。それが終わり次第こちらでゆっくりすると良いよ。宴を予定しているから、はやく帰っておいで。」
ヴェルムは努めて明るく言う。
その意図が伝わったのか、鉄斎は楽しみにしております、と言って通信を切った。
再度静かになった団長室で、ヴェルムはこっそりため息を吐く。
するとその眼前に、スッと紅茶が差し出された。
「いやぁ、大変ですな。敢えてこちらが一番面倒くさい事を要求してくるとは、その錬金術師の彼は中々の御仁のようで。」
セトだった。面倒くさいとハッキリ言ってしまうのには理由がある。
事実、鉄斎隊にかかる労力と拘束時間はこの選択が一番面倒くさいのだ。
「仕方ないね。彼は彼の信念を持って薬を作ってきた。足りないのは他者との関わりと、学だよ。騙されるのは知識がないからさ。でも、それを与えるのは私たちの役目じゃない。彼は私たちにとって一番面倒くさい選択をしたが、その分自分も大変になる選択をしたんだ。これで根を上げるようならそこまでの男だったという事。その時に助けてもらえるかどうかは今後次第、かな。」
ヴェルムが然程興味が無さそうに言う。セトも頷いた。
「ですなぁ。」
団長室に、ほっほ、という笑い声が響く。
ヴェルムはその笑い声をBGMに、セトの淹れた紅茶を味わった。