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二十三日 午前

 彼女との出会いのその瞬間は、ハルとであったその次の日のことだった。

 罪悪感から家に寄り付かなくなり、あちこちに出かけるようになったその日。いつも一緒にいたからだろうか、一人が妙にさびしく、ハルに出合ったその瞬間と同様に歌っていたのだ。

 あの日と同じ、夕闇の風景の中。

 あの日と同じ、公園の滑り台の影で。

 同じ時間帯、同じ場所。ただし歌い手の気分だけはあの日と似通っているが同じではなく、もしかするとハルにあえるかも、という淡い期待と、今まで一緒にいた親戚のおばさんとの交流がないことから来る寂しさとが交じり合い、なんともいえない中途半端な気分であった。

 そんな夕闇の中、僅かな期待を抱きながら、歌っていたときだった。


「…………上手なのね、あなた」


 そこで、楓はその声を聞いた。

 思わず歌を中断して振り返る。

 そこにいたのは、小さな少女だった。

 肩口までの漆黒の髪、落ち着いた色合いのワンピース、年代を考えればとてつもなく不自然な瑠璃の指輪に、小さなウェストポーチ。

 そこまでなら少し背伸びした少女で済まされたのかもしれない。

 が、その『目』。

 世の中を見限った目、表面に張られた常識という薄幕、その向こうを透かしてみている目。

 そして、生きることと死ぬことの間にある僅かな隙間を知る目。

 年齢が一桁の人間がまとうには明らかに異質な雰囲気を引き連れ、達観した眼を用いてその雰囲気を見透かす、そんな存在が、そこにはあった。

「………続き、聞かせてくれない?」

「え…………あ、うん……」

 少女の声に思わずうなずき、慌てながらも続きを歌い始める。

 歌詞はドイツ語、聖歌に近い曲調を持つ、楓のお気に入りの曲だ。何度もおばさんと一緒に歌い、いつの間にか意味はわからずとも歌詞を暗記してしまった曲。

「……………」

 無言で見つめられ、どことなく落ち着かない。それでも自分の曲を気に入ってくれたからだろうか、落ち着かなくはあるが嫌な感じはせず、むしろ若干の嬉しさを感じる。

「………………」

 曲の終わりまで、彼女は一言も言葉を発さなかった。

 ただただその『異質』を宿した目で楓を見つめ、僅かな笑みを浮かべながらただ楓を見つめている。

 やがて、

「――――………」

「……綺麗な声ね」

 曲の終了と同時、ただの一言を持って楓の歌を賛辞した。

「………ありがとう」

「いいえ、お礼を言うのはこっちのやくめよ。きかせてもらったのは、こっちなんだし」

 年甲斐もなく落ち着いた口調。幼い外見にあまりにもそぐわない、大人びた声。

「……………」

 到底同い年程度とは思えぬ声に、思わず楓は気圧され沈黙する。強烈な風が一陣吹き抜けて公園の全てを舐め、身に付けている服を揺らし………

 そして少女の首筋、その横を真一文字に走り抜ける白い跡に気づいた。

「!」

「………あら」

 楓の目線、表情に気づいたのか、少女がゆっくりと手でその部分を覆い、傷を覆い隠す。

「…………それ……」

「気にしなくていいわ。ちょっとね――鬱憤晴らしの対象にされたみたいで、危うく死ぬところだっただけのことよ」

 さらりと。

 壮絶なことを、言ってのけた。

「……でも、あなたも珍しいわね。こんな事実、つきつけられたらみんなわたしのこと変な目でみるのに。ひょっとして………」

 ゆったりと、少女が笑みを浮かべた。

「……あなたも、おなじなのかしら?」

「………………」

 楓は沈黙した。

 言い篭ったわけではない、言うことをためらったわけでもない。

 ただ、楓は困惑したのだ。

 この少女なら、

 この少女なら、自分がどんな目にあったのかを話しても大丈夫なのではないか、と、

 自分がそう思っていることに、気づいたから。

 だからこそ、楓は、

「うん――――」

 言いながら着用していたロングスカートを捲り上げ、その傷をその少女に晒したのだ。

「…………綺麗ね」

 楓の右足に走る縦横無尽の傷、それらを見て少女は綺麗だと、忌避するものではないと言い放った。

「大きな点に、細いせん。てんはせんで繋がれて、ひとつの意味のありそうな形をつくりだす………」

 そして一歩、楓のほうに歩み寄り、

「星座みたいで、きれいだわ」

 その『傷』を、

 楓の忌避してきた過去の痕跡を、褒め称えた。

「………………」

 思わず言葉に詰まる。

 今まで傷を見たものは、多い。が、その誰もがこの傷を肯定したりすることはなく、醜いものだと見ることを拒絶し、あるいは傷をつけられたという事実に同情し、傷をつけた存在に勝手な憤りを抱いた。

 その誰もが行わなかったことを、

 この少女は、平然と行っていた。

「…………ふしぎね。初対面なのに、わたしたちって似てるきがする」

「………そう?」

 楓の疑問の声に、ええ、と少女は言った。

 その指が、楓の足の傷跡をなぞる。

「こんな風に、お互いがきずを持ってて、こんな風にかくしてる。お互いちょっとさびしくて、おたがいちょっと音楽もできる。………にてない? これって」

 くすぐるように動く、少女の人差し指。

 それとは無関係に、楓は微笑み、

「うん」

 うなずいて、いた。

 少女は満足げに微笑み、

「……よかったら、名前、教えてくれない? またどこかで、あうだろうし」

「………屋敷戸、楓」

 告げられたその名に、

「屋敷戸、楓ちゃん、ね。秋に色付く赤い手のひらの名前、か」

 指が楓の傷から離れる。

「綺麗な名前ね」

「…………そういうあなたの名前は?」

 私? と少女はつぶやく。


「私は、(はか)(なし)セリカ。

 よろしくね、屋敷戸、楓ちゃん」


 これが、出会いのその瞬間。

 六十人の死の、最初のピース。


     ♪ ♪ ♪


 目覚まし時計の音で、目が覚めた。

「……………………」

 ほぼ一瞬で浮上した意識、その中で楓はほとんど無意識に頭上を探る。

 すると、

「………ん?」

 手に触れたのはざらついた表面を持つ楕円形の物体の感触。手を伸ばす位置を間違えたかもしれない、と一瞬思ったが、職業柄音の発信源を突き止めたりするのも慣れていたりするので間違いはないだろう。

 ………じゃあ、何?

くるりとベッドの上で半回転し、目覚ましのあるはずの場所を見る。

 ベッド頭上の棚、その上にあったのは――――旧式の目覚ましの音をごくわずかにくぐもらせたような音を立て続ける、土鍋だった。

「………………」

 手を伸ばし、蓋を開けてみる。

 目覚ましが納まっていた。

「……………………………………」

 ちん。

 土鍋から出さずに目覚ましの息の根を止め。若干腹立たしかったので目覚ましから電池を抜きポケットに収める。

「…………ん〜」

 どことなく気分が軽い。

 受け入れられるはずはないと、自分だけで背負わなければならないと、自らに強制していた何かを解放されたからだろうか。ここ数年来、具体的にはあの出来事があった六年前から数えても存在しなかったほど、気分が軽かった。

 ………それに。

 脳裏をよぎるは昨夜の記憶。ハルに自らの傷全てを打ち明けたその直後に行った、あの行為。

 ………期待にこたえちゃった、でいいんだよね……?

 確かに記憶の中に存在する、自分の愛しい人とのキス。シチュエーションは望まれていたものではないはずだが、これを知れば流さんも黙ってはいるまい。恐らく、何かしらの反応はしてくるはずだ。

 ふわふわと浮ついた気分のまま、昨日のまま着替えていなかった外着から別の福に着替え、土鍋(目覚ましinto)をもって部屋を出る。

 リビングへ出ると、朝食中のハルがいた。

「おはよ」

「………ああ」

 若干不機嫌そうな声で、楓の挨拶に答える。

 流さんの姿は、なかった。

「流さんは?」

「帰った。やりたいことがある、らしい」

 飲むか? 不機嫌そうなまま紅茶のポットを指差す。

 うん、と答えながら定位置に座り、土鍋を置く。

「………それと、それ」

 紅茶を注ぎながら、ハルがテーブルの一角を指差す。

 縦に長い、箱が二つ。片方はすでに開封済みで、中身がなくなっていた。

「…………なに、これ?」

「……とりあえず、開けてみろ」

「?」

 頭に疑問符を浮かべながら、とりあえず箱を開けてみる。

「………………」

 閉めた。

「ハル」

「何だ?」

「どうして、こんなもの?」

「『娘のご時勢、あったほうが便利じゃない?』だとさ」

 ………確かに、そうかもだけど。

 この物騒なご時勢、一本あったところでそれほど困るものでもないだろう。むしろ持っていたほうがいいものであることも事実だ。

 が、楓のような不慣れなものにとっては、邪魔にしかならない。

「………ハルにあげる」

「言うと思った」

 するりとその箱を自分のほうへ引き寄せ、開封する。

 中身は、ハンティングナイフだった。

 刃渡り目算で九センチほどの、和式の刃を持つ片刃刀。

 まったく躊躇することなくハルはその物騒な一品を箱から取り出し、ポケットに収めた。

 なぜポケットに、と思わなくもないが無視して平常運転を続行する。

「朝ごはん、出来てる?」

「ああ。トーストとウィンナーとベーコンエッグがあるが、どうする?」

「トーストと、ベーコンエッグ」

「了解」

 オープンキッチンへハルが移動し、コンロのあたりでなにやらごそごそやる。加熱しなおしているのだろうか。

「今日の予定、何だっけ?」

 紅茶をまったり飲みながら、楓。

「十時からゲネプロ。例の新曲も歌うことになるからな、覚悟しとけよ」

「はいはい」

 そこで時間が気になり、ちらりと視線を上げて時計を見てみる。

 八時五十九分。

「ハル」

「なんだ?」

 食パンをトースターに投入し、起動させながら、

「時間、わかってる?」

「ああ。午前九時」

「新曲の確認、しないの?」

 昨日確認した部分の確認と、昨日の夜の分の練習。二つの所要時間に朝食と入浴、さらには移動時間も加味して考えると、とうてい一時間では事足りない。

「ああ。たぶん昨日ので大丈夫だ」

 フライパンからベーコンエッグを皿に移動させながら、

「ゲネプロ前の練習は抜き、新曲に関しての修正点は機能のまま、これで行くぞ」

「………それで、大丈夫だと思う?」

 大舞台、初めてのメイン出演。そんな大きな出演舞台で不完全な演奏をしたくはない。

「――まあ、もともと完成形にしても未完成っぽく聞こえる曲なんだ。大丈夫だろ」

「曖昧だね」

「ハルのほうはね。でも、こっちはまだ歌詞もいまいちなんだよ?」

「心配するな。いざとなったら譜面台使うさ」

 皿を片手に、ハルがテーブルに戻ってくる。

「譜面台って………本番でも?」

「特に問題ないだろ」

 確かにそれほど大きな問題はないだろう。現に出演者の中には目の前に譜面台を置いたまま歌う歌い手もいるし、そもそもピアノ伴奏は譜面を前においている。

 が、それをしたくないというのも事実だ。

 譜面台があると、その曲を歌っているというよりも読み上げている感覚が付きまとう。やはり曲は『読み上げるもの』ではなく『歌うもの』でありたい。

 ………それに、この曲……

 ハルが楓のために作った、最初の曲だ。

 そんな曲を本番で読み上げるようには、歌いたくはない。

「――――まあ、嫌な感じであるのは事実だな」

 楓の表情から心中を読み取ったのか、ハルが憎々しげに言う。

「けど完全に失敗演奏やるよりは譜面台使ってでもちゃんとできたほうがいいだろ。それに今日やるのは本番じゃなくてゲネプロ。本番までに覚えれば、大丈夫のはずだ」

「…………確かに、そうだけど」

 覚えられる自信は、ない。

「とにかく、やれるだけやってみろ。それで駄目なら譜面台。これしかない」

「…………了解」

 残っていた紅茶を飲み干し、席を立つ。

「………お風呂、入ってくる。トースト、できるのにまだかかるでしょ?」

「ああ。行って来い」

 リビングから廊下、自分の部屋の正面を通過し、練習部屋の正面の引き戸を開け、中へ。

 その部屋、脱衣所に入り内側からドアに鍵をかける。

「………はぁ」

 思わずため息。

 ………一日で、か……

 覚えられるかどうか、定かではない。

 正直なところ、楓にとって歌詞の暗記は最もてこずる行程の一つだ。

 何しろ、頭に入ってこない。歌詞だけを単発で覚えようとしても曲調とリズムが脳裏に浮かばず、結果的に脳内の情報が上手く混ざらずに違和感が生じ、覚えにくくなるのである。

 ………歌いながらだと、問題ないってことなんだけどね。

 思いながらワイシャツを脱ぐ。

 ………流さんも、楽しみにしてると思うのに。

 譜面台は、できれば使いたくはない。

 楓たちのことを考え、ともすれば法に触れかねないようなものを仕入れてくれたような人だ。出来る限り、自然な状態で聞かせてあげたい。

 ………でも、あんなナイフ、どこで……

 昨日の昼に出会ったときには、渡されなかった。

 二人の身を案じている、というのなら渡すのは早いほうがいいだろう。つまり、あのときに持っていたのならすでに楓たちの手にわたっていなければおかしい。

 ………あのときに持ってなかった、とか?

 考えながらスカートに手をかける。

 ………いや、違う。

 あの喫茶店での会話の後、楓たちはクリスマスの関連品を物色しに市街地へ向かっていた。そしてその途中で楓が発作を起こし、そのままハルと一緒に家へ帰って、泊まったにせよそうでなかったにせよ、その場にいたのだ。

 ………途中で帰った、とか?

 いや、それもない。そうであったなら、人の恩義に律儀な春のことだ。ちゃんと楓にも告げるだろう。

 以上から考えられる事は、

 ………昼間に会ったときには、もう持ってたってこと。

 しかしそれなら、どうしてあのときに渡さなかったのか。

 ………人目?

 確かに、それはありうる話だ。ナイフなど、人前で渡すようなものではない。

 ………違う。

 あのナイフは、『箱に収められていた』のだ。あの外見から連想されるものといえば、せいぜい『羊羹』か少し突飛でも『砥石』程度。あの外見からナイフを連想できる人間は、まずいない。そして中身に思い至らないという事は、

 ………だれもあれが、ナイフだってわからないってこと。

 なら、渡しておいてもいいはずだ。

 ………流さんが、轢き逃げにあったから?

 しかし轢き逃げにあったのはこちらへ向かってくる途中のこと。昼に出会ったときには、もうすでに遭遇している。

 ………なら、私たちがあったから?

 ありうる話だ。

 しかし、それでも疑問が残る。

 ………それならなんで、『箱入り』で『二本』持ってたの?

 自分用なら開封してあるはずだし、それに一本あれば事は足りる。経験者だからわかる、人殺しなど、思い切りがあれば簡単なのだ。

 ………だとしたら、

 考えられる理屈は、二つ。

 そうしておいてはならないだけの理屈が存在したか、

 ………あるいは、ほかに目的があったから………

「じゃあ、その目的って………?」

 つぶやいた瞬間、

「おい、楓。早く入れ。もう飯、出来たぞ」

「!」

 脱衣所のドア一枚隔てた向こうから、ハルの声がした。

「ちょ、ハル? 何やってんの?」

「飯が出来たから一応言いに来ようとしたら脱衣所のほうに気配がした。お前のことだから考え込んでるんだと思うけど、かぜ、引くなよ」

「わかってる。じゃあ、ちょっとまってて」

「了解」

 言葉と同時、足音と気配が右のほう、リビングのほうへと遠ざかっていく。

 ………ふぅ、びっくりした〜。

 覗きの可能性はまったく考慮していないが、自分が無防備になっている時にいきなり声をかけたりしないで欲しい。

 ………ん? そういえば、風引くなって………

 その言葉は、現在楓がどんな格好をしているか創造できなければ出てこない言葉のはず。

 つまり、ハルには

「………お見通しだった、ってこと?」

 思わず、楓は赤面した。


     # # # #


「…………遅れたな」

「………うん」

 タクシーの中、二人同時につぶやく。

 現在時刻、十時二十分ジャスト。

 現在位置、コンサートホール前の交差点。

「……まさか渋滞に引っかかるとは、思わなかったよな」

「うん。一旦降りて、別のに乗ってもまた渋滞。出るもの遅れるし、もう散々だね」

「ああ………こんなことなら、最初から歩いたほうが良かったかもな……」

「うん、同感――――」

 遅刻、練習不足、それに加えて連絡不通。

 どれか一つなら素直にあせったり何かしらの手段を講じたりできるのだが、それが三つとなるともう焦りを通り越してもう諦めのほうが先に来てしまうから不思議だ。

 すでに頭の中は、言い訳の思考のほうへ傾いている。

 ………どうしようもないよな。

 後部座席左のドア、その取っ手に頬杖を付き、外を眺める。

 天候は曇り、気温は氷点下近い。空気は乾燥しているが、普段よりは湿気が高く、もしかすると今日明日当たりに雪が降るかもしれない。ホワイトクリスマス、という言葉に特別の感銘を受けたりはしないが、その環境の下で大仕事が出来るとなれば、話は変わってくる。

 しかし、それとは別に。

 不可解だと思う事柄も、ある。

「……ところで、楓」

「ん?」

「お前、財布移動させたりしたか?」

 へ? と楓が素っ頓狂な声を上げる。

「いじったりする暇、あった?」

「………いや、ならいいんだ」

 そう。

 今朝起こった不可解なこと、それは『いつもなら確実に存在している、そして自分も確かにそこに置いたはずの場所に、財布が存在しなかった』というこの一点なのである。

 見つからなかった財布は二人分の生活費や交通費、外食費といった、ふたりが仕事をやっていくのに必要となる費用全てを入れておいた財布で、当然移動のためのタクシー代もここから出ることになる。

 それゆえ、この財布の管理を欠かした事はない。帰宅直後は常にかぎ付きの引き出しに収納するし、そこから必要以上に動かしたりはしない。使用はハルが完全に管理しており、またその鍵はハルが常に携帯しているために、絶対に開けることも出来ないはずだ。

 ………なのに、今朝。

 その財布が、なくなっていた。

 昨日は確かに収納したはずなのに、間違いなく鍵もかけたのに、鍵をはずした覚えもないのに、忽然と。

 無論、そのままで出かけられるはずもなく、ぎりぎりまで捜索したものの、見つからなかったのだ。

 結局、タクシー代はハルのポケットマネーから出ている。

 それ自体はかまわない。が、『絶対になくなるはずのない財布の紛失』というものはかなり気になる。

 そして何より、

 ………取れるチャンスのある人間が、一人しかないない。

 東期、流。

 彼にしか、疑いをかけることが出来ない。

 しかし、仮に彼を犯人だと仮定したとして、

 ………金銭目的、じゃあないよな。

 流さんは少なくとも、金銭的に不自由するような立場にいるような人間ではない。仕事量も仕事の質もハル達より遥かに上であるはずだし、それに彼には余裕もあった。

 だとしたら、流さんは犯人ではないか、

 ………別の目的があったか、だ。

 ナイフのことも不可解だが、これはもっと不可解だ。

 突然渡されたナイフ、突然紛失した財布、そしてその前夜に起こった楓の発作と進行した人間関係。最後のものは関係ないとしても、短期間でこれだけのことが、起こっている。

 ………これだけ密集すると、理由があるような気がする。

 少なくとも、最初の三つは。

 切り離せない何かで、つながっているような気がする。

「ついたよ」

 タクシードライバーの言葉で現実に意識が帰還した。

 気がつけば場所はもうコンサートホールの前。もうすでに他の出演者たちは全員集合しているのか、その駐車場には多数の車が停車しており、恐らくはもうすでに中ではゲネプロが行われているはず――――


「ん?」


 そこで、気がついた。

「……楓、」

「なに?」

「そっちの携帯、直さんから連絡があったか?」

 直、というのは二人のマネージメントのようなことを勤めている人物であり、有事の際にはこの人物に連絡を送ることになってくる。

 つまり、こっちが連絡を怠った場合、確認の連絡が来るはずだ。

 楓が携帯電話を取り出して確認すると同時、ハルも確認を行ってみる。

 電話、メール、双方共に、ゼロ件。

「………どうだ?」

「………ない」

「――――こっちもだ」

 とりあえず運賃を支払い、タクシーを降りる。外は氷点下近い気温であることもあり、とてつもなく寒く感じた。

「ハル、どういうこと? 直さんから連絡ないって………」

「わからない。でも、おかしいのは事実だろ? 直さんの性格を考えたら、こっちから連絡入れなかったら向こうから入れてくるはずだ」

「それがない、ってことは…………」

 考えら得る事態は、二つ。

 一つは急な用事を言いつけられ、こちらのことにまで手が回らなくなった可能性。

 もう一つは、何かしらのトラブルに。それも連絡不能に陥るようなトラブルに陥っている可能性だ。

 ………まさか。

 脳裏に様々な情報がよぎる。用事がある、今朝早くに出た流さん、どうして夜のうちに戻らなかった? 急に渡されたナイフ、タイミングがおかしい、財布の紛失、渋滞、もし十分な金がなかったら? 計算されたかのような遅刻、そしてとどめに、直さんからの連絡がない事実。

 ………まさか。

 思い至ったのは、最悪の可能性。

 渡されたナイフが早速役に立ちそうな、そんな可能性。

「………とりあえず、行くぞ」

「――――うん」

 楓もまったく同じ可能性に思い至ったのか、いつもよりも小さな声で、そして不安げな様子で返答する。

 コンサートホール正面の階段を上り、踊り場を経て更に登り、そして正面入り口前の広場を抜け、ホール入り口のガラス戸へ。

 そこで、見た。

 思い至った可能性が、さらに濃厚になるようなものを。

「…………ハル、アレ……」

「ああ、わかってる…………」

 正面のガラス張り、両開きの扉。二重になっているためよくは見えないが、その奥側の扉に張り付いている『それ』。

 遠目から見ても明らかな粘性を持ったその液体は、

「インクか、そうでなかったら――――血だ」

 隣で楓が、凍りつく。

「…………まさか…………なかで誰か、怪我でもしたのか?」

 違う事は端からわかっている。が、それでも。希望的観測に、縋ってしまう。

 よぎるのは××××高校での出来事。一人で59人もの人間を虐殺した、この十二月最大の惨劇。

「……………行くぞ。楓」

 確かめなければ、ならない。

 その可能性が、はずれであると。

 どうかはずれであって欲しいという願望に、答えを出さねばならない。

「…………ハル、大丈夫……?」

「――――ああ」

 言いながら、ゆっくりとガラス戸に手をかける。

 ひやりとした取っ手、滑らかな表面。その上に被さるじっとりとした湿り気を持つハルの手のひら。

「……………っ」

 一気に扉を、引き開ける。

 ………間違いない。

 正面に見える、二枚目のガラス戸。

 そこに張り付いている液体はインクでは、ありえない。

 何がどう転べば、あんな下にべっとりと手形が付くというのだろうか。

「……………………」

「…………楓は、ここで待て」

 凍りついた楓をその場に残し、ハルは内側のガラス戸に手をかけた。

「……何があったのか、見てくる。わかったら連絡するから。その場合は、警察、もしくは救急に」

「――――う……うん」

 不安に彩られた、楓の声。

 それに対し、ハルは振り返って笑みを浮かべた。

「心配するな。ちゃんと、帰ってくるよ」

「うん」

 不安で満たされた声を瀬に、ハルは再び扉に向き直る。

 深呼吸を、一つ。

 ポケットに感覚を集中させ、そこに確かなナイフの感触を確信する。

 そして、

「――――」

 冷たい白金の取っ手を握り、意を決してドアを開いた。



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