二十二日 夜
# # # #
トゥルルルルルルル
トゥルルルルルルル
プツッ
『……兄さん、こんな遅くに何か用……?』
「……悪いな、急に連絡してきたりして」
『別に、いいよ………こっちも、退屈だったし』
「………すまん」
『開口一番謝るなんて、らしくないね………三年前以来じゃない?』
「……正確には二年前だ。あの時はもう年が明けてた」
『………くだらないこと、覚えてるんだ』
「……というか、今お前、起きてたのか? もう消灯時間、過ぎてるだろ?」
『うん……眠れないから、病室抜け出して屋上にいるの……』
「…………どうやって入ったんだ……?」
『病院で知り合った人が…技術持ってた………ピッキング』
「………すごいな、そいつ」
『慣れてるらしいから………その人』
「……でも、体気をつけろよ。まだ、悪いんだろ?」
『そうでもないよ……今はね』
「油断はするなよ、三里」
『………相変わらずだよね、叔父さん……』
「その呼び方はやめろ」
『うん………で、用件は? こんな時間ってわかってて、連絡してきたんでしょ………?』
「ああ………聞きたいことがある」
『何……?』
「お前、楓と同じカルテットにいただろ」
『兄さんも誘ったけど、こなかったやつね……』
「そこで楓、何か言ってなかったか?」
『…………相談自体は、多かったよ、屋敷戸姉さん』
「……内容は?」
『大体、固有名詞ぼかしてたけど、三年前までは「会っちゃった」とかどうとか、儚梨姉さんと』
「……三年前以降は?」
『……だいたい兄さんの連絡前後で、言ってなかったね』
「……………なら、やっぱり終わってるはずなんだ……」
『終わってる? 何が……?』
「今日の夕方ごろ、楓がちょっとな」
『……何? まさかまた発作?』
「知ってるのか?」
『うん………カルテットのときに、一回だけ。それ以外は見たことなかったんだけど……』
「アレ、何だと思う……?」
『……………詳しくはわからないけど、パニック状態だったと思う』
「なら多分同じだ。それと同じ状態になった」
『………………………』
「多分、PTSDの類だ」
『なんて、言ってた?』
「よくわからない。ただひたすらに『見るな』って」
『………視線恐怖…………じゃないよね』
「ああ。そんな気はなかった。それに視線恐怖なら舞台に立ってないはずだし」
『確かに………』
「お前、何か知らないか?」
『……………兄さんのほうが、知ってると思うけど……』
「何をだ?」
『……屋敷戸姉さん、両親にいい思い出がないって知ってる?』
「ああ。親戚が保護者になってるって」
『屋敷戸姉さん、兄さんと一緒にいるときにちょっとなりかけたって言ってたんだよ。三年ぐらい前に』
「…………………」
『……何があったのかは、聞かないけどね。そこから考えたら、すぐにわかると思うよ、兄さんなら』
「……………………Domestic Violence」
『え?』
「家庭内暴力、って意味だ。聞いたことぐらいあるだろう」
『うん……でも、屋敷戸姉さんがDVに?』
「ありえない話じゃないだろ」
『……確かに…ね。だったら、「会っちゃった」っていうのも納得できるし………』
「だけど、ならどうしてあんな発作なんだ?」
『………わたし、予想できたかも……』
「え?」
『………だけど、この想像が正しかったとしたら、すっごく残酷なことで………屋敷戸姉さんはわたしと同じってことに、なる』
「三里と、同じ?」
『うん…………、ねえ、兄さん』
「なんだ」
『屋敷戸姉さんのこと、大事?』
「当たり前だ。だから守るって、誓ったんだよ」
『屋敷戸姉さんが、どういう人でも?』
「………どういう意味だ?」
『前科があるとか、人を殺したことがあるとか、そういうこととは無関係に、大事なの?』
「ああ――――例え楓が殺人鬼でも、俺はあいつを守るよ」
『……………わかった。わかるよ、兄さん。私にも』
「三里にも?」
『うん………私も、八宵のためにやったし。それに、どんな人でも関係なく大事だって言う気持ちも。病院で知り合ったって人、ちょっと気になってて…………』
「……どういうやつなんだ?」
『人殺し』
「………………」
『××××高校大虐殺の、生存者』
「………………」
『いろいろ話してくれたよ、その人。姉さんのこととか、姉さんが好きだったこととか、あの日に告白しようとしてたこととか、自分の手で姉さんを殺しちゃったこととか、いろいろ』
「………そうか」
『私も…八宵のこと、いろいろ話してみた。わかってくれたよ、その人』
「三里」
『なに?』
「八宵の事は、もう大丈夫なのか?」
『……っ、正直なところ、まだ夜とかちょっと辛い。夢に出てくるし、感触とか、いろいろ……』
「……無理はするなよ」
『そっちも、ね。屋敷戸姉さんのことも』
「ああ。傍にいてやるよ」
『うん………コンサート、出られるかどうかわからないかもしれないけど、がんばって』
「ああ。わかってるよ。また連絡する」
『うん……退院の目処が立ったら、また』
「わかった」
プツッ
ツー ツー ツー
♪ ♪ ♪
「セリカ、」
『何を言われても私、もう我慢する気はないわよ。それになんていうか、ものすごく気分が軽いの。とっても、楽しいわ』
「ゼロにまた、話聞いてみたら?」
『もう聞いたわ。それに、もう手遅れ他の。私はもうみんなを手に入れ(壊し)始めてる。楽しくて楽しくて、やめる気になんかなわないわよ、ホンとにね』
「! それって………」
『そういうことよ、楓。今は、階段かな……』
『 ―――――――― 』
「……セリカ、今の音、何……?」
『ああ、これ? 気にしないで』
『 あああああああああああああ! 』
「ひっ!」
『 がふっ! 』
『 びしゃっ 』
『ふふふ……いけない人ね、楓を怖がらせるなんて。それにこれ……ナイフ? ああ、あなたも私が欲しいのね(を壊したいのね)……でももう手遅れ。あなたはもう、私のものよ』
「セリカ……」
『ごめんね、楓。びっくりした?』
「お願い――もうやめてよ………」
『やめてどうなるの? また前と同じお人形? 誰かの腕に抱かれて、いいように遊ばれる? そんなの嫌よ。今、とっても楽しいんだから。けど、もう楓とは話せないかもしれないわね……残念だわ』
「え、それってどういう――――」
『私、ゼロに告白しようと思ってるの。彼のことだから、きっと来てくれる。私に会いにね。そこで、一言』
「……………」
『今までずっと、好きで慕って、言おうと思うの。楓、そしたら彼、そんな顔すると思う?』
「セリカ――――そんなことしても、何にもならな――」
『 パリン 』
『――――――――――ッ!』
『 グシァ 』
『…………なんだか百合の花みたいね、綺麗だわ』
「セリ、カ…………」
『じゃあね、楓。今まで楽しかったわ。カルテットも、いい時間だったわよ。同じような人に出会ったのも、私の弱さを見ようとしてくれたのも、私にとっては大事な思い出よ。もしかしたらまた会えるかもしれないけど、期待しないでね』
「カルテットは、解散? しないって、言ったのに……」
『それについては謝るわ。ごめんなさい。嘘、ついちゃったわね』
『 かたん 』
『あら? こんなところにも………』
『 ひあぁ……… 』
『 来るな、……来るな繰るな 』
『 お願いっ……殺さないで……… 』
『うふふふふふふふふふふ…………』
『 ――――――っっ! 』
「ひっ…………」
『一応、言っておくわ。
さよなら、楓。今まで、どうもありがとう』
「さよ、なら……………?」
『縁があったら、天国か地獄か、はたまた来世で会いましょう。じゃあ――――』
「セリカ! 駄目!」
『バイバイ』
プツッ
♪ ♪ ♪
目が覚めると、自分が泣いていたことに気がついた。
うつぶせになった姿勢、目線の先には真っ黒な天井が映り、背中から伝わる感触は自分がベッドの上にいることを示している。目の横がひどくひりひりするのは涙のせいだろう。
………やっちゃった。
闇の中、楓は一人心中で思う。
精神は、ぐちゃぐちゃだった。喫茶店で交わされていた二人の会話、交差点でのパニック、そして先程の夢。
安定できているほうが、おかしいだろう。
「…………やっちゃった……」
つぶやくようにもらしたその声は、部屋の中に虚ろに響く。
PTSD、心理的外傷。
どんな固有名称をつけられているのかは知らないが、楓が抱えているのは紛れもなく、PTSDに他ならない。
突発的なパニックと過呼吸、恐怖とあの記憶のフラッシュバック。
そのトリガーとなるのは『車両のブレーキ音』と『あの瞬間の回想』である。
なぜそうなったのか。
そんなことは、火を見るより明らかだ。
………あの、日……
ハルとであったその日の、昼。
楓が『正面から差し伸べられる手』に恐怖を抱く、原因となったその日。
その日の午前に、それは起こったのだ。
「……………………あ」
いまさらながら、ヘッドホンの不在に気がついた。
どうしたものか、一瞬内心で考え、そしてこうなってしまった以上、もうあってもなくても同じであるということに思い至り、放置しておくことにした。
………あれも、安定器具みたいなもんだし……
安定器具、その名が示すとおり、あのヘッドホンでさえもあの症状になりにくくする存在でしかない。気休め程度に服用している精神安定剤と同じ程度の効果は期待できるが、それでも今日のような本格的な発作にはほとんど効果を発揮してくれないというのが本当のところだ。
と、そのとき。
天井から降ってきた強烈な白い光が、楓の目を焼いた。
「………っ」
反射的に瞼を閉ざし、視界を遮る。とは言ってもその光は闇になれた目に瞼を貫通して軽く突き刺さり、結果的に楓の目を一瞬で感光させることになる。
「……………起きたか、楓?」
楓の左側、部屋の入り口から飛んできた声は紛れもなくハルのものだった。出汁の持つ特有の香りが空気に混じっていることを考えると、何かを持ってきたのかもしれない。
「…………うん」
ハルのほうを向きもせず、目を腕で覆う。
楓の態度をまったく意に介していないのか、ハルは変わらぬ調子で続けた。
「何か食う気、あるか?」
「ん…………少しだけ」
よく考えれば、今日はまだ昼食すら食べていないのだ。食欲はそれほどないが、少しは食べておかなければ体を壊しかねない。
まあもっとも、
………そうなっても、別にいいんだけど……
頭上、ベッドの隣に配置してある小型の棚の上に少し思い何かが置かれ、そして出汁の香りが先程よりも遥かに強くなる。
「なら食え。おじやだ」
「ん………」
目を閉じたまま上半身を起こした。
ゆっくりと目を開け、光に目を慣らす。
「……………」
数秒後、視界のちらつきが落ち着いてくる。落ち着くと同時、ベッド脇に立つハルが心配そうに自分のことを見ていること、その服装が昼間のものと変わっていないこと、部屋の壁にかけられた時計から、あのときからすでに六時間以上が経過していることなどを認識した。
「……………」
更に無言で、ベッド頭上の棚の上に目を落とす。
小型の土鍋の中、煮卵で閉じられた水気の少ないおかゆのようなものが湯気を立てている。食べる際に使うためだろう蓮華が土鍋の中ではなく、脇に添えられている辺りがなんともハルらしいといえばハルらしい。
「………………」
一切の声を出さず、無言で食する。表面の卵のおかげだろうか、内側のおかゆは一切温度がもれておらず、その温度は火傷しそうなほど熱い。
「………………」
味は、確かにいい。
いつもの、ハルの味だ。具が微妙に少なく、そのくせ出汁は濃い目に味付けされ、米も少々固めである。本人曰く、これは手を抜かれてもそれほど気にならない手抜きで、ハルの要領のよさが非常によくわかる。事実、そんな細かな手抜きなどまったく気にはならなかった。
いや。
今なら、どんなものを出されても、気にならなかっただろう。
こんな、精神状態なら。
「………………座ったら?」
「……いいのか?」
「……いいよ、別に」
「……すまんな」
言いながらハルが楓の脇に腰を下ろす。
………やっぱり。
質問、してこない。
気にならないわけが、ないはずなのに。
あれほど大きな心理的外傷の露見、それもそれを始めて目にするハルの前で起こしてしまったのだ。
間違いなく、何かを質問されるはずだ。
そして、その結果――――
「……………」
………また、
壊れてしまうのだろうか。
三年前の、あの日のように。
「……………」
嫌だ。
とっくに過ぎ去った傷によって、離れていかれるなんて。
たったのそれだけのことで、未来に続くはずの幸せが壊れてしまう。
そんなこと、絶対に――――
「…………楓」
ピクリと、思わず体が震えた。
………壊れる。
壊れて、しまう。
「………膝、こぼしてるぞ?」
「え?」
その言葉に一瞬きょとんとし、意識が空白に落ち込む。そして言葉の意味を二瞬後に理解し、慌てて目線を膝に
「熱っ!」
落とすまでもなかった。
かなり高温の、おじや。
とある事情により、かなり敏感な足。
布越しとはいえ、今まで感じなかったことが異常なほどな熱さだ。
「まったく…………ほら」
ため息と同時、土鍋と一緒に持ってきたのだろう濡れ布巾を投げ渡してくる。
「あ…ありがと」
上手くキャッチ、は出来なかったがとにかく布巾を受け取り、押し付けるようにしてスカートを拭っていく。
「………」
その間も、ハルは無言だった。
無言が、逆に恐ろしい。
何かを告げる間合いを計っているようで、止めを打ち込むための力を溜めているようで、
そしてその結果、何がもたらされるかなかなかわからないことが、とても。
とてつもなく、怖かった。
だから、だろうか。
「……聞かないんだ」
自分から、自分の傷に関することを切り出してしまったのは。
「……何をだ?」
「交差点での、こと………」
「お前は話したいのか?」
質問に対して帰って来た質問、それに対し、楓は視線を落として答える。
「……正直なところ、あんまり――――」
拭う手を止めず、つぶやく。
「嫌なことしか思い浮かばないし、それに……重いと、思う。私と一緒にいるのが、嫌になるほど。それに、ハルだってわたしが何をやってきたか、何を壊してきたか知ったらその後はきっと――――」
三年前のあの日に再会したあいつのように、
「――――私のことを、化け物って呼ぶことになる」
それを知り、距離を置こうとしなかった人間はいなかった。カルテットの仲間も、緋鞠ちゃんも。
ただ、セリカだけを除いて。
しかし、そのセリカにしたところで離れていかなかったのは楓を自分と重ねていたからだ。
そうでないハルが知れば、間違いなく楓を化け物と呼ぶことになるだろう。
それが意味するのは、この関係の、
六年間のつながりの、崩壊である。
「………………」
何を思っているのか、外部に一切悟らせない無表情でハルは楓を見つめた。
怖い。
何か、楓にとって最悪の一言を発されてしまいそうで。
そしてハルが、自分を拒絶されてしまいそうで。
恐れていたものが、現実になりそうで。
「そんな風には、なって欲しくないから………正直なところ、あんまり話したくない。でも――――」
もしも、
「――――ハルが、知りたいって、言うんだったら…………」
少なくとも、今のハルには知る権利がある。
自分のあの発作を間近で見、そしてそのことをまったく知らなかったのだ。教えておかなかった自分にも責任はあるし、それに例えハルであろうとも、自分の隣に化け物など置いておきたくはないだろう。
それを知ることを、望んでいるというなら――――
「………話して、あげるよ……」
この関係性の崩壊を、意味するとしても。
ハルが自分から、離れていくことになったとしても。
ハルが、それを知ることを望むのなら。
………そうだとしたら、わたしは――――
「………………」
何かを考えているのか、ハルは無言だった。
何一つ言葉を発さず、何一つ表情を変えない、それはハルが考え込むときに見せる特有の表情。
やはりその無表情は最後通牒の直前のようであり、何も見通せない夜道のようであり、そして何も知らない赤の他人のようであり、恐怖を禁じえないものであった。
「……………………」
そのまま、時間だけが流れていく。
支配するのは無言、共有するは無言、感じるは不安、予感するは崩落、そして、喪失するは互いの時間。
楓にとっては真綿で首を絞められるような時間だけが、ただただ流れていく。
「…………………」
やがて、
「…………ああ、頼む」
ハルはゆっくりと、口を開いた。
………ああ、やっぱり。
ハルが選んだのは、知ること。
楓が押し隠していた、自分の中の『化け物』を暴くこと。
今まで続いていた、ぬるま湯のような安定を破壊することだった。
「…………わかった……」
視線を落としたまま、楓はゆっくりと言葉を
「けど、楓。知ってほしいことがあるのは、俺も同じだ」
「え?」
困惑する楓をよそに、ハルは楓のほうに身をスライドさせた。
「お前のトラウマに関与しているかどうかは知らない。けど、俺は確かに――――」
そのまま、ハルは楓の耳元に顔を寄せ、
「××××××、×××」
「!」
一瞬にして表情が驚愕に歪む。
「………お前の言う化け物が何なのかは知らない。でも、俺はお前を拒絶するつもりは毛頭ない。なぜなら、」
俺も、化け物だからな。
「………………ハルは、化け物じゃない――――」
「どうしてだ?」
「だって、ハルは私のためにやったんでしょ? けど、私は……」
純然たる自分のために、
自分が解放されるために、
化け物になった。
「自分の身勝手で、やったんだよ……?」
「だからなんなんだよ……楓」
つぶやくように、呻くように、ハルは言った。
「何をやったのかは知らない、誰にやったのかも知らない。けど、お前言ってただろう――――」
本当は、幸せになりたいって。
「!」
「悪いことなのか? 自分の幸せを願うことが。そのためになんでもする事は、赦されないのか?」
「それは…………」
「少なくとも、俺はそうは思わない。それに、お前だって楽になりたいだろう? 受け入れてもらえる人が、欲しいだろう?」
何度も、楓もそう思った。
自分を理解して欲しいと、バケモノだと離れていって欲しくないと。
しかし、それは無理な話だった。
人は自分の理解できる範囲と、自分の価値観の中でしか人を認識できない。自分にとってすべからく忌むべき存在を受け入れてくれる人物など、どこにもいなかった。
同じ経験を、同じ感触を、知っている人間以外。
「でも、そんな人―――」
カルテットにしか、いなかった。
例えばセリカ、例えば八宵。三里は何も知らなかったけど、あの明るさならきっと受け入れてもらえただろう。
自分と同じ経験をしたものでなければ、間違いなく。
この一件は、受け入れられない。
「――――あ………」
そして、ようやく気づいた。
「楓、俺も化け物なんだよ。お前のため、なんて大義名分で、××××××××××だ」
………ああ、やっぱり。
ハルは、やさしい。
こんなこと、普通は話さない。こんな状況であろうとも、楓が危惧したような爆弾を抱える言葉を話すなんて、正気の沙汰とは思えない。
なのに、ハルは話してくれた。
楓の傷を受け入れる、それだけのために。
「………話してくれよ、楓」
ゆっくりと、目線が上がる。
「お前が、どんなことをしてきたのか」
そしてその目はハルを捉え、
「……………うん」
楓は、うなずいた。
♬ ♬ ♬
「……私の保護者が、実際にじゃなくて書類上でも、両親じゃないのは知ってるよね……?」
「ああ。父親は事故死で、母親は――――通り魔だったか、三年前に」
「……………うん。六年前から、私の保護者は変わったの………見て」
言って楓はロングスカートを捲り上げ、腿を露出させた。
白磁の肌、年相応の外見、普通ならそこにあるのはそれらだけだろう。
だが、これは…………
「………………これ……」
「……わかるでしょ? 白く広がってるのは全部火傷で、点みたいになってるのは煙草………細いのはカッターで、それよりもっと細いのは針で…………何なのか、わかる?」
聞かれるまでもない。間違いなくこれは………
「………虐待、か…?」
「うん、それで正解。
私、小さい頃からずっとこんなことされながら生きてきたの。お母さんもお父さんも、機嫌が悪いときとか私が気に入らないことしてたときとか、二人で喧嘩した時とか――いろいろなときに。
あ、ちなみに右足がお父さんで、左足はお母さん………不文律でも、あったみたい。そっちしかやらないって」
「……………」
場を和めようとしたその言葉は、虚ろにしか響かない。
それをわかっているのか、楓は間をほとんど挟まず、続けた。
「虐待がバレて、二人が離婚することが決まったのは、八年前だった……と思う。はっきりしないけど、その辺で私は両親から離れて親戚のところに行くことになったの。
私、そのとき本当に嬉しかった。
痛みのない生活、騒いでも起こられない生活、大好きな歌もゆっくり歌えて、一挙手一投足にびくびくする必要もない、当たり前だけど、私には当たり前じゃなかった暮らし。
今の性格の大元みたいなのができた時期………かな。いろいろ抑圧されてたのが外へ出て、今みたいに」
「………………」
想像する。今まで存在していた環境、そこからの解放。暴力も何もなく、ただただ自由だけが約束されている、そんな当たり前の幸い。
それを経て、今の性格になったのだとしたら………
………ふとした拍子に出てきても、しょうがない、か。
暗い下地が消えたわけではなく、そこで得た傷が消えたわけではない。それはまさに、傷の上に作られた隠れ蓑の幸い。
「………私、そこで幸せだった。
毎日毎日、今まで怯えてたものがないんだって認識したその日から、ずっと幸せだった。引き取ってくれた親戚の人も、結構演奏が好きな人で、その人の演奏にあわせて毎日歌ってたの。本格的な教室にも通って………どんどん上手くなった。
ご飯のときも、楽しかった。
それまで、私にとってご飯なんて拷問みたいで………美味しいご飯を、仲良く会話しながら食べるのも、ものすごく楽しかった。
寝るときも、幸せだった。
夜いきなり起こされて酷い事されないって、ゆっくりした安らぎだけがあるんだって、わかってたから。
もちろん、小学校もちゃんと行った。
服がちょっと目立ったけど、それでもみんなとも仲良くやって、一緒に遊んだり宿題したり。家に呼んだりもして、毎日楽しく過ごしてた。ちょっと勉強は、苦手だったけど。
そんな感じで、毎日が楽しかった。
だけど、ちょうど六年前。
そんな暮らしが始まってから、二年後に……終わっちゃった」
ふ、と。
自嘲的に、楓は微笑んだ。
「………何が、あったんだ?」
ゆらりと、楓が表情を消失させる。
「お父さんが、私に会いに来たの。
近付くなって、言われてたはずなのに………」
「!」
親子間での虐待が発覚した場合にとられる、基本的な措置。
それが『子供に近付くことの禁止』である。
それを破ることとは、虐待を受けていた子供の生活を崩壊させることに他ならない。
「………公園で、ゆっくりベンチに座ってたときに、声、かけてきたの。お父さんが。
謝りたいって、何度も言われた。
できるならまた一緒に暮らしたいって、言われた。
だけど、そんなこと私にとっては単に怖いだけだった。今までずっと私にひどいことしてきたのに、いまさら謝りにこられたって、ただ怖いだけにしか映らないのに。
『いやだ』って、言ったよ。
またあんな暮らしになるんだったら、この場で死んだほうがいいって、本気で思ったりもした。
『だったら、せめて一緒に散歩しよう』
お父さんはそういって、私に手を差し出したの。
だけど私にとってはそんなの、連れて行こうとしてるようにしか見えない。ベンチに座ってる私の正面に立って、完全に逃げ場を塞ごうとしてるみたいに、手を伸ばしたって受け入れられるはずないのに………」
「………正面からの手が怖いのは、そのせいか?」
「うん………小さいことなんだけど、それももう駄目になっちゃって」
やはり自嘲するように、楓は笑った。
「私、それでも逃げたの。小さかったから、ベンチの上を走って全速力で。
つかまるのが怖かったから。前と同じ暮らしが始まるのが怖かったから。だから、全速力で人の多いほうに逃げた。身長が低いから、人ごみにまぎれれば見えなくなるかと思って。
走って走って走って、上手く人ごみにまぎれられた。お父さん、後ろから追いかけてきてたんだけど私のこと、完全に見失ってたみたいだし。
けど、そんなこと私にはわからない。
だから、私は――――」
そこで楓は言葉を詰まらせ、
「私は、お父さんを殺そうって思った」
「!」
ありえない発想ではないだろう。
自らを追いかけてくる怪物のような存在、逃げても追いかけられ、隠れてもいずれは見つかる。
なら、どうすればいいか。
簡単な話だ。
その存在を、始末してしまえばいい。
その存在を破壊して、この世から捨て去ってしまえばいい。
「ちょうど大きな交差点で人ごみに隠れきった後だった。
後ろからお父さんの背中が見えてて、その背中がちょうど通りの向こう側を見てたときに忍び寄った。
多分、私がむこうの通りに逃げたんだって思ったと思う。けど、私はじっさいはお父さんの後ろにいて、タイミングを待ってた。
そして、目の前の交差点を大きな車が通るそのタイミングで…………
私はお父さんを、突き飛ばして…………」
「…………………」
「……ひどかった。
あちらこちらに飛び散った赤い血と、部分的な肉片。お父さんだった大きな肉の塊と、飛び交った悲鳴………
そんな光景だったけど、私は嬉しかった。
これでもう、お父さんは私の前に現れない。絶対にもう私に酷い事しないって、確信できて安心できたから。
でも、周りの人たちは、私を………
私のことを、『化け物』って………」
想像する。楓の遭遇した、その風景を。
究極的な安心感を得たその刹那、自らに向けられる怪物を見る目線。あたりは自らを拒絶し、祝福を期待していたもののそれは与えられることなくただただ恐怖のみを持って迎えられる。
それは、ある意味ではただ拒絶されるだけよりも春華にひどい風景だろう。
「……だから、ブレーキ音が怖かったのか」
「うん…………」
うつむいたまま、楓は答える。
「あの音聞いたり、あれと似たような状況になると……思い出しちゃうから。ヘッドホンはつけてないとまた聞こえそうで怖いから、薬は急に思い出したりしないように………あんまり効果はないけど、それでも何もしないよりはマシだから………」
うつむいたまま、楓は笑う。
「………私、最低でしょ? ハル………」
「……どこがだ」
少なくとも楓は自分の恐怖を消し去ろうとしただけだ。虐待されていたならその人物に対する恐れは一般常識の域からでは考えられないほど根深く、そして強いものに他ならないだろうし、そしてそんな存在に出会ったとしたら普通の思考などできるわけがないだろう。
自ら卑下する理由は、どこにもないはずだ。
「………ハル、気づかなかった?」
ゆったりと、楓はハルの顔に目線を移行させる。
歪んだ微笑み、狂った笑み。
オカシナ感情から浮かべられる、普通のものではありえない、微笑み。
「私が怖がってたのって、あくまで『拒絶』だけなんだよ? だって、そのとき私、本気で嬉しかったから………」
「っ………」
「お母さんが『通り魔に』やられて死んだときも……私は喜んでた。人一人死んだのに、人が一人殺されたのに、そのときだって私の中には喜びしかなかった。
………わかる、ハル? だから私は化け物なんだよ。
人が一人死んだのに、それが自分にとって悪い関係性しかもっていなかったら、それを心のそこから大喜びできる人間。
それってつまり、その人の死なんてどうでもよかったってことじゃない?」
「……………っ」
確かに、そうだ。
人の死に、歓喜する。
それは『死』という名の最大の不幸ごとが訪れたことこそがその人物にとっての喜びであったということ、他人の差宇内の不幸を歓喜したということ。
つまり、その人物の価値は消失しかなかったということで、
それまでは何の価値も存在していなかったということで、
そしてその人物の人生など、どうでもよかったということだ。
死に歓喜する最悪。
確かにそれは、ある意味では最悪と呼べるかもしれない。
しかし、そんなこと。
「………お前を拒絶した奴も、それぐらいの事はやるだろ……」
例えば『クラスで目立って鬱陶しかった』。
それだけで、その死を喜ぶ人間もいる。
例えば『一人だけ違って怖かった』。
それだけで、その死を願う人間もいる。
例えば『日常の中に刺激が欲しかった』。
それだけで、一人の人間の人生の終局を夢見る人間もいる。
世界は死に対して無味乾燥で残酷で無感動で、娯楽的だ。
「……そうかもしれないね、ハル……」
自嘲的な笑みを浮かべたまま、楓は続ける。
「でも、二週間前のあれはそうは行かないよ……」
二週間前、その符号で一致する事件といえば、一つしかない。
「××××高校の惨劇が、どうかしたのか?」
「………ハル、言ってたでしょ? あの犯人が、どうしてあんなことをしたのかわからないって………」
隣で楓が肩を震わせる。
思い出したくないかのように、認めたくないことであることであるかのように。
「………私、わかるよ……」
「……どうして?」
「儚梨、セリカ」
言葉を遮ってつぶやかれた名は紛れもなくあの事件の、五十九人もの人間をたった一人の手によって虐殺した、その人物の名前。
「セリカは、ただの殺人鬼なんかじゃない。誰の相談にも乗ってくれる、頭も良くて綺麗で演奏も上手い、いい人だった。世間じゃ最悪の殺人鬼なんて呼んでるけど、本当はそうじゃない。私の、大事な親友なんだよ」
「それが動機とどう関係が――――」
「あるよ」
またも遮り、楓は続ける。
「私のせいなんだ」
「え?」
「だから、私のせいなんだよ………セリカが、あんなふうになったのは。出来もしないくせに相談に乗って、言葉の後にどうするかを考えずにあんなこと言って……そしたらセリカはあんなことやって、その末に――――死んじゃった」
自嘲するかのように。
懺悔するかのように、楓は言った。
「最初からわかってたはずなのにね。セリカはいつもさびしそうだった。壊れそうだった。そんなこと、最初からわかってたのに………そんな状態であんなこと言ったら、壊れるのは目に見えてたのに………」
「楓……」
「だから私は最低なんだよ。六年前に一人の人間を殺して大喜びして、三年前に一人の人間が死んだことで大喜びして、二週間前に六十人の人間の死に……手を貸した。肯定されるわけない。拒絶されて当然。それが、私なんだよ」
「楓、」
「今日のことだって、どこかで思ってたのかもしれない。こうなればいいって。殺されちゃえばいいって。生きてたら、また何人の死に手を貸すかわからないんだもん。だから私なんていっそのこと死――――」
「やめろ!」
全身全霊の力で、
己の可能とする最速で、
ハルは楓を、狂気に満ちた笑みを浮かべ己の崩壊を望み続ける楓を、抱きしめた。
「もうやめろよ、楓! お前は何も悪くないだろう! セリカのことだって両親のことだって、お前が気に病む要素なんて何一つないんだ! 化け物? そんなわけないだろ! 当たり前のことだろうが! セリカのことだって、お前はセリカを助けたかったんだろう? 死んで欲しかったわけじゃないだろう? 殺し始めることが予想できてたわけじゃないだろう? じゃあ、どこに気に病む必要があるんだよ!」
心の底から、絶叫する。
屋敷戸楓、その名を持つ一人の少女を助けるために。
受け入れるために。
「…………そうかも、しれない」
抱きしめられたまま、楓は落ち着いた声で言った。
「でも、私には理由がない。『いちゃいけない理由』はあっても、『ここにいていい理由』がない。人殺しって、そういうもんでしょ?」
「理由? そんなもの、俺が与えてやる! 世間がなんといおうとも、俺はお前を受け入れてやる! 忘れたのかよ、楓! 俺、言ったよな? 『これからは俺が守る』って!」
「!」
楓が腕の中で、身を硬くする。
「………覚え、てたんだ………」
呆然とした声、僅かな震えの滲んだ声。
「……忘れるわけ、ないだろ」
五年前の誓い。楓を守ることを心に誓った、その日のこと。
他の約束はどれだけ破ろうとも、この約束は、誓いはずっと守り続けるだろう。
その確信が、ここにある。
「理由が欲しいなら、俺が与えてやる」
落ち着いた深い声言いながら、ハルは腕の力を緩めた。
「『俺の約束を、無下にさせるな』」
ゆっくりと楓を解放し、その顔を見つめる。
狂気の笑みが消えた、いつもどおりの表情だった。
「それが、お前のいる理由だ」
「………小さくない?」
くすりと、楓は笑う。
「でも立派な理由だろ?」
「……確かに…ね」
ハルの全身が圧迫される。
背に回された、楓の腕によって。
「――――ありがと、ハル。受け入れて、くれて」
「気にするなよ」
極々自然な動作で、自分にしがみつく少女の髪を軽くなでた。
「お前は、俺にとって大事な人だ。頼られるのも、悪くない」
「ふふ…………」
先程までの笑みとは違い、今度は完全に嬉しさから来る笑みが漏れた。そしてそのまま、腕の中で楓が身じろきし、
「……ねえ、ハル………」
「何だ?」
「……………流さんの期待に、こたえてみない?」
爆弾発言、投下。
そんな一言が、ハルの頭の中を一瞬で駆け抜けた。
なんとなく全身の体温が上昇したような気がする。いや、体の正中線の頂点付近に限ってみれば間違いなく上昇しているだろう。恐らく今体温測定を試みれば間違いなく病気認定されるはずだ。
「…………? どうかしたの?」
「いや………」
どうして楓は平気なのか、疑問が頭に浮かぶ。が、
………平気、じゃないみたいだな。
顔を見せないようにして上手く誤魔化してはいるが、よく見れば微妙に見えている顔の端々が若干赤い。
………しょうがない、か。
内心でハルは覚悟を固めた。
「………目、閉じてろ」
「あ、うん………」
やはり照れあるのか、素直に目を閉じる楓。
確実に目を閉じていることを確認すると、ハルはゆっくりと楓の肩を抱いた。それに反応し、楓がビクリと身を震わせる。
「………………」
沈黙したまま、ハルはゆっくりと顔を近づける。
どんどん接近する楓の顔、誤魔化しようのないほどその顔は赤い、普段からよく見ているが事実肌の見目は細かく、手触りはいいはず、髪は一本一本の質がかなりよく、見ていてもなかなか、色合いは間違いなく黒っぽい藍色で黒系統なのでなかなか気づかないが、近付けば間違いなく藍色であるということがわかる。
吐息も触れ合うほどの距離、おたがいの息遣いはそれこそ自分の感受する感覚として認識され、それでもゆっくりと接近を続け、もはやそれが顔であるということまで認識できないほどに近くなり――――
「…………………」
「…………………」
レモンの味は、しなかった。