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二十二日 午後B

     ♪ ♪ ♪


「………楓……」

「何? セリカ」

「みんな、どうして誰かに何かを期待したりするんだと思う…?」

「期待………?」

「ええ。誰かに何かを行うことを強要し、強要しておきながらその是非が非であった場合、失望する…………。そんな、最低な行為を、何で行うと思う?」

「………何か、あったの?」

「――――。いつものことよ。私だって万能じゃない。確かに基本的な性能は高い自信はあるわ。けど、出来ないことだってやりたくないことだってある。なのにみんな、私に頼みさえすればどうにかなるみたいに考えて、自分が勝手に設定した目標を私に押し付けて……そのくせ出来なければ失望する。ホントに、身勝手だわ………いっそのこと、みんな破壊してやりたくなるぐらい」

「………壊しちゃ――」

「だめ? どうして? 人なんて、どうせいつか壊れるもの。内側に歪みを抱えている人、生きていること自体がマイナスである人、その他いろいろ、壊れたい人もいる。それに『運命』なんて戯言を信仰する風潮のある世の中なら、その人を私の手で破壊したとしても『これは運命だった』で片付けられると思わない?」

「それは――――」

「人は言うでしょうね。そんな考え、狂ってるって。でも、私の言葉の何処かにおかしなところがある? 狂った言葉を展開した? おかしな認識を口にした? ……そう、私は何もそんな事は言ってない。ただ単に理論的な考えを口にしただけよ。なのにそれは狂ってる………。どっちが狂ってるのか、わかったものじゃないわね」

「ちょっとセリカ、大丈夫? 今日のセリカ、何か変だよ?」

「………変、かしら?」

「うん。いつもならもっと落ち着いてるのに、余裕がないみたいな感じで………いろいろ、我慢しすぎだと思う」

「………そうかしら?」

「うん………わたしはそう思う。回りの人の期待とか、一線引いて関われる疎外感とか、あのこととか――いろいろ、背負い込みすぎだと思う」

「まだまだ大丈夫よ、これぐらい。今まで九年耐えられたのよ? それがたったこれだけの日数で耐えられなくなるわけない……」

「本当に?」

「ええ――――少なくとも、そうのはずよ」

「じゃあ、何で今にも泣きそうな顔なの?」

「え……………」

「私、前から思ってた。なんだかセリカって、いつも寂しそうだって」

「………!」

「私ね、『あの人』のこととかハルのこととか、いろんなことでいつも助けてもらってるんだよ? それにカルテットのメンバーだって、セリカが『助けたい』って思った人たち、集めたんでしょ?」

「………言った覚えは、ないわ」

「でも、大体わかるよ。セリカ、ハルと親戚でしょ? だったら関わるチャンスはあったはずなのに、誘ってなかったじゃない」

「……………」

「私、ホントに感謝してる。だから、」

「――――」

「セリカも、私に頼ったら?」

「―――――出来ないわよ、そんなこと」

「どうして?」

「だって………相談するって、怖いことなのよ? 自分の中にある黒い感情を人に押し付けて、分析させて、それが出来なきゃ突き放す………。確かに、相談するほうは楽になるわ。でも、されたほうはどうなるの? 他人の黒い感情を身勝手に押し付けられて………どこにも吐き出せずに………」

「だけどね、今までずっと私たちはそうやってセリカに押し付けてきたんだよ。だから、セリカもいいんじゃない?」

「でも――――」

「私は、別にかまわないよ。突き放したりなんかしないし、できる限りの事はするし………それに聞いてもらえるだけでも、結構楽なるでしょ?」

「…………………そうよ、ね………」

「うん」

「――――――――わたしも、それぐらいなら………」

「うん、いいよ………」

「……さいしょに、言っておくわ。とんでもなく迷惑にしかならないし、代償を支払うわけでもない――――それでも、いいのね?」

「もちろん。いろいろ頼ってるのはこっちなんだから、むしろ頼ってくれなきゃ困るよ」

「…………………………………………楓、」

「何?」

「ごめんなさい………私、もう限界かも………」

「…………なにが、あったの?」

「……ゼロの事は、話したでしょ……?」

「うん、何度も聞いたよ。セリカの好きな人で、ちょっと変わった感じの……」

「………ゼロが、『あいつ』と話してるの、見ちゃったの」

「え…………セリカの、××××と?」

「ええ………しかも、なんだか楽しそうに……」

「…………………」

「私、本気で信じてたのに………ゼロなら、間違いなくあいつの本性に気づいてくれるって」

「………………」

「最初は、本当に思ってただけだったのに、いつの間にかそれに縋ってたみたい。今まで耐えられたのが、耐えられなくなってくるほどひどくなって………崩れ、ちゃった………」

「………………八宵、には?」

「もう言ったわ。でも、八宵は自分のことで手一杯で、私に対して何かできるような状態じゃない。私、もう何していいのか、わからなくて………」

「………………………」

「そう思ってきたら、ね。急に――――寂しくなったの。今までは自分ひとりで耐えられた、自分ひとりが一番心地よかったのに………今は誰かが恋しくてしょうがない。だけどみんなは私が一人でも大丈夫だって、思ってて…………」

「………………………」

「私、もう我慢しなくてもいい――――?」

「……………………」

「強くなくて、頼れなくて、それでも関わりだけは欲しがる………そんな、駄目な人間になっても………みんなの全部、欲しがっても、いい?」

「……………………もういいよ、セリカ」

「え…………」

「………いいんじゃない? もう、我慢しなくて」

「………ホントに…………いいの?」

「うん。今すぐにそうなるのは無理かもしれないけど、ゆっくりゆっくり、我慢してた分を吐き出したりして………みんなを欲しがっても、いいよ」

「…………楓……」

「なに?」

「……ありがとう…………そんなこと言ってくれたの、楓だけだったから」

「――――うん」




「――――いやあ、あの曲調ならシンプルに『赤子』でしょ」

「いえ、それだとあまりにも安直だと思います」

 流さんとハルの声で、意識が現実へと帰還する。

「…………………」

 二秒ほど、あたりを見回し、

 ………あ、

 そこでようやく今自分は町を歩いているということ、天気がやや崩れて雪がちらつき始めていること、歩きながら新曲のタイトルを相談していること、急に流さんに暇が出来、それを利用してクリスマスネタを物色するべく市街地に向かっていることなどを把握した。

 隣を歩くハルに気づかれぬよう、小さくため息をつく。

 ………どうにか、しないとね。

 ここだけの話、ここ最近は考え込むことが以前に比べてかなり大きくなってきている。

 その傾向が顕著になったのは、この十二月に入ってから。

 十二月の初頭を過ぎてからはそれがますますひどくなり、今では歩きながらであろうが練習中であろうが考えにふけり、先ほどの喫茶店での有様になってしまう。

 原因は、言われずともわかる。

 ………セリカが、死んでからだよね。

 十二月七日、『××××高校大虐殺事件』。

 その場において、親友でありよき相談相手であった存在、儚梨セリカという少女は、殺されてしまった。

 どんな風に殺されたのか、苦痛はあったのか、苦しみはあったのか、どんな気分だったのか、それとも殺されたことにすら気づかずに死んでしまったのではないか、そんなことを、考え込んでしまう。

 それでも、彼女は、

 ………幸せ、だったのかな……

 少なくとも今まで話に聞いた彼女の人生は順風万帆とは行かなかったようだ。両親は不仲、周りは過度な期待をかけ、それに答えてしまう彼女は教師にとっても都合のいい道具でしかなかった。

 その上で、信じるものが消失してしまっていた。

 これでは、幸せとは呼べないのかもしれない。

 しかし、死ぬ瞬間。己の人生の終局のそのときに幸せだと思っていたなら、それはいい人生であったといえるのかもしれない。

 ………なら、死んだほうが……

 幸いであったのかも、しれない。

 しかし、セリカ自信がそう思っていなかった事は明確だ。

 何しろ、彼女は少なくともあの日まで生きていた。

 自分の意思で、生きることを選択していた。

 死んだほうがいいと考えていたのなら、今の今まで生きていたとは思えない。

 おそらく彼女は、もう死んでいるはずだ。話に聞いた、彼女にとって最悪の記憶の眠る九年前のその日に。

 ………だけど、好きな人に裏切られたんだったら……

 死を望み、死んだとしてもおかしくはない。

 柱となったものを抜かれたそのとき、人というものは極限までの弱さを露呈する。もはや一人で立つこともままならず、一人で生きていくことを選択することも出来ず、ただそこで立ち尽くし、何をしていいのかすらもわからずに呆けるだけ。

 かつて、楓がそうなったように。

 たった一日、それだけで自らの信じた幸いや道筋、生活が全て崩壊し、そして全てを失ってしまった。

 今だからこそ思う。あの瞬間に、もしハルと出会っていなければ、

 ………私も、生きてなかったかも……

 出会えてよかった、と思う。

 だからこそ、今二人でこんな風にして演奏をやっていられるし、一緒に暮らしていられる。あのときからでは考えられないほど自分は幸せで、そして満たされているのだ。

 ………覚えてる、かな。

 今目の前で相談している、その曲。その曲を製作した、その瞬間のことを。

 あの日、自分は泣いていた。

 理由は、今でもよく覚えている。一見すれば非常に幸せな、楓にとっては非常に残酷な風景を目にしてしまったのだ。

 最初は隠そうと思った。

 ようやく手に入った、当たり前のしあわせの転がっている生活。それをたったこれだけのことで、二人で作っていくはずだった楽しい時間をたったこれだけのことで崩壊させたく、なかったのだ。

 しかし、ハルは気づいた。

 今から思えば、当たり前のことだろう。目は徹夜後のように充血し、声も何処か鼻にかかったような涙声だったのだ。普通の人間でも気づくようなことに、あのハルが気づかないはずがない。

 終わってしまうかと、思った。

 自分が何をやったのかを、知られてしまうのかと思った。

 だけど、

 ………違ったんだよね、ハルは。

 ハルはそのとき、無言でピアノの前に座り、

 ただただ黙って、聞いたこともないような曲を演奏し出したのだ。

 技術的にはつたない、しかし技術ではない何かが間を埋めているかのような、温かな印象を持つ旋律を。

 突然の演奏に、楓はしばし聞き惚れた。

 そして少しだけ困惑し、

 その後に、笑ったのだ。

 ………それに、

 演奏終了の、その直後。

 ハルは、こういった。

『………もう泣かないで、いいんじゃない?』

 優しい目を、して。

『これからは、僕が守るから』

 今から思えば、到底小学生の言う言葉ではないと思う。

 しかしその言葉は同い年であった当事の楓にはしっかりと響いて、

『…………うん』

 気がつけば、うなずいていたのだ。

 同居を始めたのは、その言葉から遠く離れた三年後のこと。

 過去からの異物が自らの負った傷以外に存在しなくなった、その歳からだった。

 ………聞いてみるのも、

 悪くないかもしれない。

 ………もし、覚えてたら、

 自分の傷、それを全て話してしまおう。

 一体、ハルはどんな反応をするだろうか。

 受け入れて、くれるのだろうか。

 あるいは、今までの彼らのように――――

「………っ」

 こみ上げた嫌な風景を振り払うため、唇に歯を立てる。鋭くも鈍い痛みが一瞬脳髄に伝達され、

「………ですから、極端に単純化しすぎると味がなくなるんですよ」

「え〜。素朴な味って言うのも、ありじゃない?」

「そういうのは難しいんですよ。下手に素朴を狙って味がなくなるよりは、普通にいいのを考えたほうがいいでしょう」

「いやいや、難しいからこそ挑戦しがいがあるってもんじゃないのかい、ハル」

「言うほど創るのも簡単じゃないんですよ。出来ますか、流さん。この場で」

「ん〜、それはいくらこの僕でも難しいなぁ………せめて二時間はないとね」

「でしょう」

 ハルと、流さんの会話が耳に入った。

 ………そんなはず、ない。

 ハルが、今の楓を拒絶することなど、ありえないはず。

 だから、ふみだそう。

 クリスマスコンサート、その後に。

 ………けど、今はとりあえず……

「だったら、折衷にしてみたら?」

 今はこの会話に、混ざってみよう。

 この、あまりにも自然でありながらも幸いを感じる、この話に。

「……折衷? それってどういうこと?」

 流さんが怪訝な顔をしながらこちらを振り向く。それでも笑みを浮かべ続けているあたりが流さんらしい、と思わないでもない。

「素朴でありながらもちゃんとわかりやすい……って感じかな?」

「例えば?」

 あまり当てにしていないのか、適当な様子でハル。

「例えば、『赤子の唄』……とか」

「赤子………? ……ああ、その手があったか!」

 大きく手を打つ流さん。

「いけるよ、ハル。確かに深みは残しつつ、君の言うわかりやすいタイトルにもなってる。いいよ、これ」

「…………     」

 しかし、

 その言葉への返答は、

 楓の耳には、届かなかった。

 正面の、横断歩道。

 そこから走った無数の悲鳴と、

 正面から迫る、車の甲高いエンジン音によって、

 かき消されて、いた。


 頭の中に、今日聞いたばかりの流さんの言葉がよぎる。

『その事故なんだけどね、轢き逃げ、らしいんだよ。その事件は昨日の晩だったらしいんだけど………実は今朝ね、こっちへ向かう前に僕の車もやられたんだ。その轢き逃げに』

 つまり、その轢き逃げはこの町にやってきたということ。

 今、ここで楓たちがその轢き逃げに出会ったとしても、なんら不思議はないということだ。


 その速度は、速い。

 法定速度無視、どころの話ではない。八十キロ九十キロ、あるいは百キロオーバーだろうか。高速で走行することを可能とした常用の鉄の塊は、その使用用途を『攻撃』に用いたその瞬間からただの常用車両としての意味を喪失し、ただの『武器』としての側面を露呈させる。

 そう、今この瞬間のように。

 頭で考える必要すらない。本能が、先に理解する。

 あの鉄の塊に激突する事は、負傷ではなく死を意味する、と。


 ………避けられる。

 正面から接近する赤の付着した車両を見て、楓はそう思った。

 少なくとも運動は苦手ではない。単純な反射神経だけならばはっきり言って人並みをはるか凌ぐ程度のものは有しているし、咄嗟に行動をとることも、その行動に必要な筋肉も、全てがそろっている。

 しかし、体は動かなかった。

 思い出す。

 思い出して、しまう。

 あの日を。

 あの、

 最悪の日のことを。

 流れ出す。記憶が。

 溢れ出す。過去が。

 そして、止まらない。

 傷の、痛みが。

 目の前を、次々と。

 痛みが明滅しては、消えていく。

 正面を走り抜けていく、幾台もの車。

 そして正面にある、恐怖。

 見間違えようもない。それは、『あいつ』の持つ無防備な背中。

「楓!」

 そう、私はその背中に――――何かをして、

 そして全身に衝撃が走って、

 地面に、倒れた。

 そして

 

 ――――――――――ッッッッ!


 甲高い、ブレーキ音。

 誰かの肉を、跳ね飛ばす音。

 一瞬の、静寂。

 そしてその後の、


「―――――――――――――――――――――ッッッッッ!」


 ヒビキワタルジブンイガイノニンゲンノヒメイ。

 ナニモカンジナイ、カラッポナココロ。

 イヤ、タシカニカンジテイル。

 カラッポニモニタココロノナカ、ソコニアルノハタシカナ、

 ヨロコビ。

 アア、コレデワタシハシアワセニナレル。

 コワイオモイナンテ、シナクテイイ。


 間違いない。間違えようがない。

 この状況はまるっきり、

 まるっきり、あのときと同じの――――


     ♬ ♬ ♬


「楓ちゃん! ハル! 大丈夫かい!」

「はい、生きてます!」

 背後から飛んできた怒号にも近い流さんの声に、ハルは叫ぶようにこたえた。

 ………危なかった。

 通りに乗り上げてきた、恐らくは轢き逃げ犯の車両。あのままでは確実に犠牲者になっていたであろう楓を突き飛ばすことで、ハルもぎりぎりで回避できたが………

 ………あの人は、

 後ろを振り返る。

 そこにいた、いや、『いた』と表現していいものかさえも迷ってしまうような外見をした人物。全身のいたるところがあらぬ方向へと捻じ曲がり、折れ曲がり白いものが飛び出し、そして赤いものを広げている。その光景はトマトに大量の爪楊枝を突き刺したかのように思えてどこか滑稽で、どこか残酷で、そしてどことなくえげつなかった。

 助かるかどうかは、定かではない。

 いや、あの様子では助かる見込みのほうが、薄いだろう。

 反応があと一瞬遅れていれば、あるいは突き飛ばす距離が少し短ければ、もしくは轢き逃げ犯の気が変わっていれば、ああなっていたのは、自分だったかもしれない。

 いまさらながらに、全身から冷や汗が吹き出た。

「あれが轢き逃げ魔ですか?」

 抱きかかえていた楓を離し、地面に座り込む。予想外の緊張で、もしかするとしばらくは立てないかもしれない。

「ああ、間違いないね。車種に、ナンバー。それに気づいたと思うけど、ボンネットがだいぶへこんでたよね。あれ、多分僕の車に当てたときに出来た凹みだと思うよ」

 それに――――、と流さん。

「これだけの目撃者に………今回の犠牲者はあれだ。チェックメイト。見つかったら、もう言い逃れできない」

 確かに、そうだろう。

 目撃者の数、そして今回の犠牲者。あれほどまで大量出血しているのだ、間違いなく轢き逃げ犯の車にも、一見してわかるほどの量の血液が付着している事は間違いない。

「けど………ホントに間一髪だったね。運が良かった、としかいい用がない」

「確かに、そうですね。ちょっと足をひねったみたいですけど………っ、これぐらいなら、安い代償でしょう」

「はは、確かにね。僕なんて車一台だよ? 僕自身に怪我がなかったとはいえ、高く付くからねぇ、車は」

「ご愁傷様、としかいい用がありませんね」

「で、楓ちゃんのほうは? さっきから動いてないけど……」

 言われてハルは楓のほうへ目をやる。

「…………大丈夫、か?」

 楓は、答えなかった。

 その目は見開かれ、何も見ていないかのように虚空を見つめる。

 その唇は薄く開き、何かにおびえるかのようにただ震えている。

 そして、長髪から露出したその耳。

 絶対に外さないはずの防壁たるヘッドホン、それが楓の耳から完全に外れ、地面に転がっていた。

「………楓……?」

 答えない。

 そして、気づいた。

 楓のその全身が、寒さではない何かによってガタガタと震えていることに。

 見開かれた目、薄く開かれた唇、そして外れたことにすら気づいていない余裕のなさ、それに加えて、震え続ける全身。

 それが描き出すのは、紛れもない『恐怖』の感情だった。

「おい……………楓…………」

 明らかに、普通ではない。

 それでもハルはいつもどおりの対応をとってくれることを期待して、押し倒されたときの姿勢のまま地面に倒れ伏す楓の肩に触れ

「…………ぃゃ……」

「………え」

 小さな声が、震える声が。

 その、口の端からもれた。

 今まで、自分が耳にしたことのない、紛れもない拒絶の意思が。

「……おい、どうしたんだよ楓」

「ん、楓ちゃん、一体………」

 さすがに心配なのか、流さんまでが楓の顔を上から覗き込んでくる。そしてハルはそのまま楓の肩に再び手を伸ばし、身を起こさせるべく肩を、


「いやあああああああああああああああああああああ!!!!」


 絶叫。

 悲鳴。

 心の底から、感情の深奥から、自分というものの根底から。

 紡ぎ出された、完全な拒絶の意思。

 あの、楓が。

 この六年間、自分がパートナーとしてやってきた楓が。

 絶叫、している。

 確かに今まで何度か精神的に不安定になっているところは見た。

 精神安定剤の常用を必要としていることも、知っていた。

 だからこそ、自分はあの日に楓を守るという約束をし、そしてそれを三年前に一度果たして、そして今に至ったのだ。

 ここまでのものを、心の奥に押し込んでいるとは、思わなかった。

「楓! 落ち着け! お前の母親はもう死んだ! 間違いなく、お前の母親は死んだんだ! もうお前を傷つけるような奴はいない! だから、落ち着け!」

 ハルの必死の叫びは届かなかったのか、楓は跳ね起き、自らの体をこぶしが白く染まるほどの力で抱きしめる。

 そして、


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい………」

 壊れてしまったからくり人形。

 あるいは、針の外れたレコード。

 見るものを恐怖に誘うほどの侠気と共に、楓は延々と繰り返す。

 自らの体を抱いて、延々と。

 誰かに対する、謝罪の言葉を。

 戦慄した。

 ………何なんだよ、これ………

 大きなトラウマがある事は、知っていた。

 そしてそれが、両親に関連しているものであることも、予想は付いていた。

 だから、三年前。

 楓を守る、その言葉を果たすために、

 ………俺は、果たしたはずだ………

 それで終わったと、思っていた。

 俺の手が赤い色で染まったその瞬間に、俺は全てが終わったことを確信した。通り魔に見せかける手管も完璧で、俺がやったという痕跡はまったく残されていない。そう、それで、楓のトラウマの一端を担う存在は間違いなく消えたのだ。

 だが、これは何だ?

 これほどにまで恐れる何かを、彼女は抱えていたのか?


 そしてその上で、あんな風に笑っていたのか?


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい私が悪いから私が全部悪いからちゃんと謝るからちゃんと償うからちゃんと裁かれるからちゃんとおとなしくしてるから幸せになんかならないからううん本当は幸せになりたいでもそんなこと望まないから他のことだってしないよ騒がないから声も出さないからじっとしてるから何も欲しがらないからご飯もいらないから話しかけたりもしないから化け物だってちゃんとわかってるわかってるよ私が化け物だってそう私はただの化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物化け物わかってるからわかってるただの化け物だってこと単なる化け物だからここにいちゃいけないわかってるわかってるよなのになんでそんな目で見るのなんそんな風に拒絶するのなんで私から幸せを取ろうとするのわかってるのにちゃんとわかってるのに見ないでよそんな目で見ないで見ないで見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るなわかってるから私が化け物だってこと化け物化け物わかってるだから」

 そして

「そんな目で私を見るなぁ!」


 ソンナメデワタシヲミルナ。

 バケモノ、バケモノ、バケモノ。

 イッタイナニガ、イッタイダレガ、カエデヲココマデ…?

 マサカ、マタナノカ?

 マタ、アイツラミタイナヤツガイタノカ?

 モウオワッタハズナノニ。

 イッタイ、

 イッタイドレダケノキズヲオウヨウナコトヲ、ケイケンスレバ、

 イッタイドレダケカエデヲキズツケレバ、アイツラハマンゾクスルンダ…………

「楓!」

 一瞬流れ出した狂気にも似た感情を振り払い、頭を回転させる。

 前回にも、似たようなことがあった。

 あれは三年前のこと、あいつと再会したそのときのことだった。

 あの時は、俺は一体何をした? 何をして、楓を元の状態に戻した?

 ………そう、確かあの時は、

 楓の耳を完全に塞ぎ、あたりをシャットアウトした。そしてそのまま、落ち着くのを待った。

 だが今回、接触を拒絶されている以上その手は使えない。

 ならどうする? わからない。精神安定剤は? 飲まないだろう。無理やり飲ませることも不可能ではないが、そうすれば恐らく余計にひどくなる。それに精神安定剤とは言ってもあれは意識をぼやかすためだけの薬品のようなものだ。使えない。なら他の手段は? 考える。楓は自分ことをほぼ完璧にコントロールしていたと見るべきだ。精神安定剤の服用、大型車両をなるだけ避け、交差点を歩かないようにする。それぐらいのこと。なら他には? 普段から使っていたものは何だ? ロングスカート、ズボンなどの常用? いや、それは今も使われている。ならヘッドホン? 付け直させればあるいは…………だがそれでどうなる? 一度起きた発作だ、何かで一度意識をリセットしなおさなければならな

 ヘッドホン。

 その本来の用途、楓の記憶。

 つながった。

 押し倒したショックで頭から外れ、地面に転がっている楓のヘッドホン。視認と同時に拾い上げ、ヘッドホンのジャックを楓のレコーダーから引っこ抜き、自分のCDプレーヤーへ挿入、そして瞬間的に再生の操作を行い、全身で押さえつけるようにして楓に装着した。

 同時に始まったのは、音楽の再生。

 ヘッドホンの隙間、周囲の雑音にまぎれてかすかにもれ聞こえるその音は紛れもないハルのピアノ。

 そしてそれに付き従うのは、楓の歌声。

 楓が歩んだ傷の年月、その上に成り立つ二人で歩んできた幸いの年月だ。

「…………落ち着けよ、楓」

 楓の全身から、ゆっくりと。

 震えと力が、抜けた。

「………大丈夫。お前は、俺が守るから。あいつはもういないし、誰もお前を傷つけない。傷つけようとされても、俺が守ってやる。だから――――」

 流れ出てくる曲、それはふたりの十八番。ハルが単独で作ったものではなく、初めて楓もアイディアを出し作り上げた、本当の意味での『二人の曲』だ。

 よく覚えている。ひねり出すのに四苦八苦した歌詞、あわせるのに苦労した伴奏、にもかかわらず楓はやたらに歌詞に干渉したがり、やむなく一から再構成したのだ。

 結局完成した曲に、ハルの手はほとんど入ってない。

 しかし、それでも。

 この曲は、楽しかった。

 忘れていない。忘れられない。

 一曲一曲の中に、記憶はある。

 二人で重ねてきた年月、そのもののように。

「――――帰ろうぜ、楓」

 楓の紡ぎ出す言葉が、『過去』が、『狂気』が、

 ゆっくりと、止まる。

「俺たちの、家へ」

 一拍の間。

 そして、楓の全身から力が完全に抜け、

「――――――――  」

「……なんだって?」

 やわらかに、ハルは微笑んだ。

「――――――――ぅん……」

「……………ああ。帰るぞ」

 そのままハルは立ち上がろうとし、

 一気にもたれかかってきた楓によって、立ち上がることを阻まれた。

「おい…………」

 返事は、なかった。

 答えるだけの意識が、なくなったらしい。今まで僅かに冷静さを構成していた部分が完全に消失し、ただハルにしがみつくのみとなっている。

 その表情はどことなく、親からはぐれた仔猫のようで………

「まったく」

 つぶやいて許容したくなるほどには、愛らしかった。

「…………とりあえず、行き先は君たちの家でいいの?」

「ええ。帰りましょうか」

 楓をしがみつかせたまま、立ち上がる。

「………行くぞ、楓」

 ゆっくりと楓の柔らかな髪をなで、

 そのままハルは、二人の家へと歩き出した。


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