二十二日 午後A
♪ ♪ ♪
「………ねえ、楓」
「何? セリカ」
「自分が覚えてるのに、自分の過去の中には彼がいるのに、彼の世界に自分がいないかもしれないって、思ったことある?」
「………………あるよ」
「楓も、なの?」
「うん……ハルとのことでね………セリカは?」
「……彼よ。彼、私と最初に会ったのがいつか、はっきり覚えてないみたいで…………」
「そう、なんだ。その人って、この前言ってた『ゼロ』のこと?」
「そう。『ゼロ』………『ナナ』って呼ばれてることも、あったわね」
「本名、なんていうんだっけ?」
「××××××」
「…………変わった名前……」
「到底人間とは思えない名前よね。まあ、おかげですぐ見つけられたんだけど」
「……セリカ、試してみたの?」
「何を?」
「昔のこと、覚えてるかどうか」
「暗に含めて、だけどね。覚えてなかったわ」
「どういう、感じだったの?」
「…………無力感、かしらね。一番近かったのは」
「無力感?」
「そう。なんだか、彼にとって私がどうでもいい、何も出来ない、なんでもない存在なんだって、はっきり目の前に突きつけられた感じよ。だから何もする気がなくなって、無力になった。大体、こんな感じかしらね……」
「――――そう」
「だけど……楓。あなたと彼が良好な関係を築くためにも、怖がっちゃ駄目よ」
「…………どうして?」
「『しらない』ってことは、それだけで妨げになるものだから、よ。あなたは彼に彼が思うより前にあってる。だけど、彼はそれを覚えていない、でしょう?」
「……うん」
「つまり、彼とあなたの間には、その思い出を共有していないという障害があるわけよ。その妨げがある限り、あなたと彼の間にはいつまでも障害が残るわ」
「………………」
「怖いでしょうけど、一度聞いてみなさい。覚えているか、覚えていないか。それだけでも、随分と助けになるものよ」
「………わかった」
「それに、もし覚えてなかったとしても――――
# # # #
「『――――あなたが、思い出させてあげればいいでしょう』…か」
「ん……?」
「ううん、なんでもない」
「そうか」
なら深入りはするまい。
そう思い、ハルは眼前の紅茶を一口含んだ。
どことなく安心感を感じさせる香りと、温かさ。
それらを認識しながら、辺りを見回す。
クラシックな雰囲気を持つ、喫茶店。くすんだ木の色、木製のテーブル、壁に据え付けられた柱時計、漂ってくる濃厚なコーヒーの香りなど、雰囲気は高校生が入るようなところではないと思わせるほど重厚で、そして落ち着きがある。店内にはクラシックがゆったりとしたリズムを刻んでおり、それがまた雰囲気に落ち着きを出すのだが…………
「………落ち着かない、ね。なんだか」
楓はどうも落ち着かないらしい。
………まあ、らしいといえばらしいか。
ハルもそうだが、楓はもともと落ち着いた雰囲気よりももう少し自由な雰囲気を好んでいる。もともとの性格が合わないのか、それとも単に面倒なだけなのかはわからないのだが、とにかく『マナー』や『ルール』を気にしながら何かをするという行為が肌に合わないらしい。
ゆえに、普段は絶対にこんなところには来ない。
×××市立コンサートホール、その三階にある喫茶店。
紅茶、コーヒーなどの品質は非常に高く、サイドメニューの質も高い。その上で値段も手が届きやすく、コンサートホールに用がない人間でもこの喫茶店には足を運ぶことが多いという人気店だ。
が、品質が高いためなのか、それとも店全体の雰囲気にまでこだわったためなのか、その雰囲気は非常に重厚である。その上出てくるカップやティースプーンその他がやたらと高級志向で……早い話が非常に肩の凝る雰囲気ということだ。
「まあ、確かに落ち着かないといえば落ち着かないが……これぐらいは我慢しろ」
「うん……わかってるけど――――」
所在無くあたりを見回す楓。
その様子にハルはため息をこぼし、再び紅茶を一口。
「そのあたりの文句は流さんに言ってくれ。俺も楓もこの雰囲気は嫌いなのに、こんな店指定したんだから」
言いながらも柱時計に目をやる。
午後二時、三十分。
この店で待たされて、もう三十分も経ったことになる。
リハーサルも順調に進み、それが終了したのが午後の二時。一応、全体の流れと演奏曲の確認も終了し、各出演者がさわりの部分だけを演奏しておよその所要時間を計算、新曲のみの確認を行い、それも終了した午後。全体の流れの把握は終わり、詳しくは明日のゲネプロということにし、今日はお開きになったのだ。
で、その後。ハルたちは同じイベントの出演者の一人にしてこのコンサートの主役である人物に声をかけられ、ちょっとお話でも、とこの喫茶店に誘われたのだ。
その直後にその人物の携帯電話に連絡が入り、そして少しすれば戻ってくるから待っていてくれ、といわれた後に用事を済ませに言ってしまった。
結果、コンサート練習直後にそのホールの三階で、しかもカフェの窓際席に向かい合って待たされているという、見ようによっては完全に共通の認識を辺りに与えるであろう状況に放置されているというわけだ。
その状態で、三十分が経過している。
はじめの十五分で新曲に関する相談は終了し、その後に他の演奏曲の相談に移ったのだが、その相談も僅かに五分で終了。そのため今は単なる雑談に費やされているのだが、その雑談も雰囲気のためにそれほど続かず、今はちょっとした沈黙が続いている。
「……………遅いね、流さん」
レモネード(三杯目)に付属している糖蜜を大量に流し込みながら、楓が言う。少し空元気のような気がして心配だったのだが、今はもうすっかり元通りである。
「確かに、遅いな。あの人のことだからもう少し早くてもいいはずなのに………」
紅茶(アールグレイ、お変わり自由、五杯目)を必要もないのにくるくる回す。
「けど、しょうがないかも」
ストローをくわえ込んで、レモネードを吸引する楓。
「どうして?」
言いながら極微量、ミルクを流しこむ。
「流さん、案外いい加減なところあるじゃない? 案外今はのんびり歩いてきてたりして」
「いやいや、それはないよ楓ちゃん」
「そうだ、それはない。間違いなくな。あの人は言っちゃ悪いが年下趣味だ。楓におおっぴらに会えるとなると、走ってくる事は間違いない」
「………それはそれでひどいと思うんだけどね、ハル」
「あ、確かにありうるかも………」
「肯定するなんて、それはとってもひどいことだと思うんだけど。楓ちゃん」
「確かに、ひどいな。あの人の場合ただの『年下趣味』だ。ロリコンじゃないだけまだマシだといってやれ」
「あ――――十分それでもひどいと思うんだけどね」
「あ、確かにそうだね、ハル」
「肯定しないで欲しいんだけどなあ………」
「生暖かく、だ。楓。どうせ肯定するなら、な」
「……うん、僕がそういう趣味だって言うことにしといてあげてもいいから、せめてもう放置しといてくれないかい……?」
とうとうテーブルの横、そこにいつの間にかやってきた男が崩れ落ちる。
「……いきなり会話に入ってくるからですよ、流さん。普通に名乗ってくれたら、最初から弄ったりしなかったのに………」
言いながらハルの真横の男、東期流を見下ろす。
「いや、ごめんごめん。なんだか楽しそうに会話してたから、話の端っこ折り返すのもどうかと思ったんだよ……」
言いながら立ち上がるカジュアルスーツの若い男。その表情は笑みで、先の会話を自分なりに楽しんでいたことが伺える。
「隣、いいかい?」
「どうぞ、流さん」
とりあえず自分の隣の席を勧めておく。名前の通り、流れるような仕草でたまたま隣を通りかかった店員にホットコーヒーを注文し、そのまま座席にまったりとした仕草で座る。
「ありがと。いやー、悪かったね、待たせちゃって。頼んでたものが思ってたより早く手に入ったもんだから、取りに行ってたんだよ」
「………なら、場所変えてください」
恨みがましい目で流さんを見つめる楓。どうも本気でこの店は好きではないらしい。
「だからごめんって言ったでしょ、楓ちゃん。けど………二人とも演奏、上手くなったね。前に聞いたときより、かなり上手くなってるよ」
「そうですか?」
流さんはこの世界に入って間もない二人の面倒をいろいろ見てくれた先輩であり、ハルにとっては自分の目指す目標点でもある。感覚的には兄に近いが、それでも憧れには違いない。
うんうん、と満足げにうなずく流さん。
「どことなく、余裕が出来た感じ? 前みたいに目の前のを必死にやってるんじゃなくて、先のことを見て全体を形作ってる感じになってるんだよ。大きい進歩だよ、これ」
「前のときというと………CDですか?」
確か、つい二週間ほど前に出ていたはずだ。
「ううん、それとはまた別。収録時期から考えると、CDのほうが古いからね。一番最近の時系列になるのは………一月前かな」
一月前といえば、ちょうど紅葉祭で演奏したあたりだ。あの時は出演者として流さんはいなかったが…………
「……もしかして、来てくれたんですか? 紅葉祭」
「うん。自分の友達の歌ぐらい、生で聞きたいしね。苦労したんだよ〜チケットの入手。結構人気だったからさ、自分の伝使わずに手に入れようと思って、アングラネットまでしたんだから」
「アングラネットって………そこまでやったんですか」
苦笑しつつ、ハル。
「そこまでやるような曲でも、ないと思うんですけどね」
「それほど卑下することもないと思うよ、ハル。それに友達は大事にしておくに越した事はない。違うかい?」
ニヤニヤと含みのある笑みを浮かべる流さん。ハルは苦笑を崩さず、
「友達……なんて呼ばれるほど近くにいるとは思えないんですけどね、こっちは。実力的にも年季的にも差がありすぎますし」
「友達かどうかなんて、でっかい差があっても上のほうが友達だって思ってればそれで友達なのさ」
「そういうもの、なんですか?」
「そういうもんなんだよ、楓ちゃん」
流さんの笑みから含みが消え、ただただ純粋な笑みとなる。
場に満ちた暗い空気をそれだけで消し飛ばしてしまうような、明るい笑み。
完全に毒気を抜かれてしまうその人懐っこい笑みを見ていると、大抵のことがどうでもよく見えてしまうのだから不思議だ。
「それはそうと………今日は何か、用でもあるんですか?」
「どうして?」
「いつもは立ち話か、外まで出るでしょう。それなのにこんなところへ呼び出したりなんかして………」
「ああ、ちょっとね。リハでのあれ、聞いてるとなんだか二人と話したくなっちゃったから、ここに。実を言うと、この後またちょっとした用があるから、それほど時間もないんだよ」
やはり妙な人だ、と内心でハルは思う。そんなちょっとした話のために、ここまでやるだろうか。
そんなハルの内心を察することなく、流さんは続けた。
「今日のリハでやってた曲なんだけどね……あの新曲、どうしたの?」
「アレ、ですか……?」
今日披露した新曲といえば一曲しかない。
「いつものごとく、完全オリジナルですよ。俺の作曲です」
「あ、やっぱり」
笑みが、また含みを持つ。丁度到着したホットコーヒーを受け取り、そのまま間髪いれずに一口。軽く息をついてから、
「………タイトルとかは、決まってないの?」
「お恥ずかしながら………アレ、実を言うともう少し後にならないと発表しないつもりだったんで、急造なんです」
「急造? その割には歌詞もリズムもしっかりしてたように思うけどねぇ………」
笑みを浮かべたまま、流さんが眉をひそめる。
「急造にしては、出来が良すぎるように思うんだけど?」
「いえ、もともと歌詞もリズムも昔から固めてきた曲なんで、未完成だった曲に修正を加えつつ直していったんですよ」
「あ、そゆことね」
納得の色が、流さんの顔に広がる。
「じゃあ、あの曲ってどれぐらい前に作ったの?」
「確か………五年前だったと思います」
………楓と、一緒に。
忘れもしない、あれはまだ二人で組んでからまだそれほど経っていなかったころのこと。ハルも楓も二人で一つの曲を演奏するという行為に慣れ始め、規制の曲に飽き始めてきたのだ。
なら創ってみれば? とハルに言ったのは楓。
それなら……、と基本からはじめたのは、ハルだった。
その結果できたのが………
「最初は、曲とも思えないようなエグい曲だったんですよ。それを暇見てちょこちょこ修正して行って――もうすぐってときにこうなったんで、蔵出ししたんです」
「え? ってことはアレ、基本的な部分は五年前に作ったって事?」
納得と笑みの色が消失し、驚愕へと塗り替えられる。
「ええ………まあ。本当はもうちょっと修正したかったんですけど………」
「………いや、びっくりだね。ホント、びっくりだよ………」
唖然、という表現があまりにもしっくり来る表情。
その顔のまま、流さんはコーヒーに砂糖を一杯、落としこんだ。
「……そんなに、驚くようなことですか?」
「まあね………あの曲、かなりいい曲っぽかったからね。てっきり僕、また最近になってから作った曲かとばっかり思ってたし」
「…………………」
なんとなく照れくさくなって、紅茶に逃げた。
自分の曲を聴くのは、平気である。
自分の創った曲の評価を人伝に聞いたり、インターネットなどに書き込まれている評価を見たりするのも、まあ平気だ。
しかし、面と向かって褒められたりするのは、
しかも自分より遥かに上にいると認識している人物からの言葉となると、
はっきり言って、照れる。
ハルの内心を知ることなく、流さんは更に続けた。
「なんというか、まだ未完成な感じだね。基本的な部分はしっかりしてるのに、アレンジによってはいくらでも違う顔を見せてくれるというか、演奏者によってはまるで違う局になりそうな………可能性の塊みたいな曲だね、言うなれば」
「まだ赤ん坊、みたいな感じですか?」
「お、それいい表現だね」
「まあハルのあの曲調だと、『歌』というより『唄』だけどね」
「………楓、それどう違うんだ?」
「はははははははは」
実に楽しそうに、流さんは笑った。
「………ところで、急に話は変わりますけど」
「なんだい?」
「……事故にあったって聞きましたけど、大丈夫なんですか?」
「――ああ、そのことね」
口ごもる流さん。
普段が笑みなだけに、言葉に詰まったり暗い表情になることが極端に似合わない。
「……良平さんの事件の事は、知ってるよね?」
「はい、驚きましたよ」
「私も。出番も、いきなり伸びちゃったし……」
「その事故なんだけどね、轢き逃げ、らしいんだよ」
「轢き逃げ、ですか?」
わからない話ではない。
十二月、七日。
『××××高校大虐殺』と呼ばれる、一人の女子生徒がもたらした惨劇のその日から、世間では殺人事件が急増した。
わけのわからない、大量の殺人事件。家族殺し、怨恨、痴情の縺れ、無差別………殺し方も動機も対象も、まったく一貫しない大量の事件が、いきなり溢れかえったのだ。
大虐殺事件に触発されたもの、すぐに収まる。
それが世間の見解ではある。
が、あの事件からもうすでに二週間になるのに………その間、二桁以上の人が『殺人事件』によって死なない日は、一日としてなかった。
「その事件は昨日の晩だったらしいんだけど………実は今朝ね、こっちへ向かう前に僕の車もやられたんだ。その轢き逃げに」
「え…………」
「大丈夫、だったんですか」
絶句する楓の表情に苦笑を浮かべながら、流さんは言う。
「見ての通り。車は潰されたけど、僕は無傷だよ。けど実際、事情聴取だとか一応の検査とか、足の確保とかで嫌になるほど時間食って、遅れちゃった」
参っちゃうよね、と流さんは笑う。
「模倣事件なら、どっかよそでやってほしいもんだよ。何でこの町でやらかそうとするかね……」
「ええ、まったく持って同感です」
「ああ、そういえばいたね、ハルの知り合い。模倣事件の被害者で」
「………ええ」
うなずきながら、シュガーポットに手を伸ばす。
砂糖を、二つ。
落としこんで、かき混ぜる。
「そっか――――下世話なこと聞くけど、どの事件だっけ?」
くるくると、砂糖は回る。薄く透けたカップの底、その中央に白い山を作りつつ。
「第一通り魔事件です」
『×××市 第一通り魔事件』。
三十一名の被害者を出した、×××市で最初に起きた無差別通り魔事件。後×××市での七つの通り魔事件、その最初の一つだ。
「第一ね、第一第一…………確か、最後の被害者が二人とも生存してるはずだったけど、どっち?」
「すみません、それはちょっと……」
「おっと、失敬」
素直に引き下がってくれる流さん。
正直なところ、まだその一件はハルの中でも整理がついていない。
×××市第一通り魔事件最後の被害者にして生存者、そのうちハルと直接の知り合いである人物は一名で、その名を桶中三里という。かつては快活で明るく、にこやかな性格で、ハルにとって見れば妹のような人物だった。
が、今では見る影もない。
第一通り魔事件で負った精神的な傷、それが、三里を変えた。快活だった性格は随分とおとなしくなり、表情からも彩りが消失、口数も少なくなり、そのせいなのか同時に負った肉体的な傷の治りも遅いらしい。
今でも連絡は時々取っている。が、変化のほどはすさまじく、事件後初めてあった後は、他人としか思えなかった。
何しろ自分が事件に首を突っ込んだせいで、親友をこん睡状態に追いやってしまったのだ。
そう簡単に、回復するはずがない。
「ねえ、ハル。君は、思わない?」
含みのある笑みを再び表情に湛え、流さんが言う。
「何を、ですか?」
「今の十二月の、原初の種。あの事件の犯人は、一体何を思ってあんなことをしたのか、ってね」
「それは………」
思った。
三里が入院したその日、散々考え続けたことだ。
「ハルは、どう? 考えたり、しちゃった?」
「…………………はい」
「……やっぱりね。知り合いが巻き込まれたなら、君がそう考えないはずはない」
真剣な口調で、言葉は続く。
「で、ハルはどう思った?」
思考を積み重ねた末の結論、それは――――
「わかりません」
「うん、他のことなら笑ってすませるところだけど、今回ばかりは僕も回答に到達できなかったから、笑えないね。昔から考えるのは好きなんだけど、この一件に関してはまったく考えが及ばなかった」
「そうですか………」
「うん。世間はいろいろ言ってるけどね、そのどれもに納得がいかないんだ」
「………同感です」
あまりにも大きな事件、あまりにも衝撃的な事件、あまりにも多すぎる犠牲者。それ故に原因究明の活動、あるいはその大義名分を身にまとった責任の擦り付け合いも、当然ながら激化した。
学校の教育現場に対する批判、家庭に関する個人情報保護も何もない追及、メディアの発行する書籍・映画などへの責任転嫁、マスコミの殺人事件の報道に関してまで、世間はその責任を擦り付け合った。
が、そのどれもに納得がいかない。
どれほど納得できそうな理屈を聞こうとも、何処かに穴がある気がする。
穴のない原因を思考しようとも、それが存在していないかのような錯覚にとらわれる。
それほどまでに、この事件の真相はつかみがたいのだ。
「…………ところで、楓ちゃんはどう思う? さっきからずっと黙り込んでるけど………」
そこでようやく、今まで会話の中に楓が入っていなかったことに思い至った。
「……………………」
楓は答えない。レモネードの水面を見つめたまま、黙り込んでいる。
「………どうしたの、楓ちゃん?」
楓は答えない。自分以外の誰かがそこに存在していることを認識していないかのように、黙り込んでいる。
「楓、どうかしたのか?」
楓は答えない。自分の世界、自分の領域の中に引きこもってしまっているかのように、何も言わない。
「………楓?」
その黙殺する表情、その様子にバスの中での出来事が脳裏をよぎり、思わず身を乗り出してその肩に軽く触れ――――
「っ!」
ビクリ、と楓は全身を一瞬震わせ、
そして顔が上がり、目があった。
「大丈夫、か?」
目が少々、虚ろになっていた。
「あ……………」
そして目が心配そうに自分を覗き込むハルに焦点を合わせ、
「……ごめん、ちょっと考えちゃって」
ばつが悪そうに、楓は言った。
いつもと比較にならないほど、暗い雰囲気。
今までの会話が楓の何かに触れてしまったのは、間違いないだろう。
「……どうかしたのかい、楓ちゃん? そんな風に考え込むなんて珍しいじゃないか」
「いえ……、ただ私も十二月の事件で友達が何人か、被害にあってるんです。そのときのこと、思い出しちゃって………」
「そういえば、お前も三里と………」
「うん…………カルテット、だったから」
親友。
楓が自分のカルテットのメンバーをそう呼んでいるのを、ハルは何度か耳にしたことがある。
親友が、消える。
ハルにその事実の経験はないが、恐らくその苦しみは並大抵のものではない。それこそ己の精神の一部を、魂のカケラを、力ずくでもぎ取られるような苦痛があったはずだ。
「………ああ、ごめんね楓ちゃん。嫌な話だったかも知れないね」
「いえ………いいんですよ」
そういって、楓は悲しげに笑った。
「もう二週間になるんだから、払拭しないと………」
「いやいや、楓ちゃん。確かに忘れたほうがいい痛みは忘れなきゃならない。だけど、誰かが死んだ、なんて記憶は忘れちゃいけない。身近な人はどれだけ昔に死んだとしても、辛いものだよ」
しっかりと真のこもった言葉、その背後に見えるある程度の感情。
過去に同様の経験があった、そのことを示唆する、物言いだった。
「けど……いろんなものがなくなる一ヶ月だ」
「そう、みたいですね」
発端は一女子生徒の大量虐殺。
そしてその結果は、四桁にも及ぶ大量の屍。
身近なものが次々と死んでいき、
人々の中から罪の意識が消えていき、
そして冬は、赤に染まる。
終わりにあるのは、そんな十二月だ。
「………けど、なくすばかりじゃなくて得たものもあるみたいじゃないか」
にやり、と流さんが笑う。
「ねえ、お二人さん?」
「………………」
「――――――」
微妙に嫌な予感を感じ、思わず楓と顔を見合わせた。
「明日はクリスマス。救世主がこの世界に降誕した日にして、日本で言えば恋人たちが愛を語り合う素敵に緩くて空から激烈に甘いアイスが降ってくる日だ。そういう関係に当たる人物が身近にいた場合、浮ついてしょうがない日でもある」
「………………………何が、言いたいんですか?」
嫌な予感が着々と現実に近付きつつある実感がある。このままだととてつもない方向へ話が流れてしまいそうな、そしてその結果としてそのとてつもない方向を現実の道行きとして設定せざるを得なくなりそうな…………そんなとんでもない嫌な予感が。
「いやあ、ただちょっと気になっただけだよ、お二人さん。――そういえば、いっつも二人一緒にいるけど、クリスマスとかは、どうすごすのかな……?」
………狙いはこれか。
一瞬で合点し、潰しにかかる。
「いえ、クリスマスは仕事で完全につぶれる予定ですから、これといった予定はありませんよ」
「い〜や、そんなわけはない。何しろ、僕ら出演キャストの解散時間はちょっと早めの九時半だよ? 県条例に律儀に従ったとしても、まだ三十分ある。しかも二人は家でも一緒なんだ。何か予定ぐらい立てていても、おかしくはないよね?」
「ちょ、流さん? 私たち別にそんな――――」
………馬鹿っ!
思い切りおたおたしながら、楓が最悪の方向に否定する。
この手の人間と関わりなれているが故に言える。この手のことで他人をからかう人間にそんな否定の仕方では、
「動揺してるねぇ、楓ちゃん。初々しくて実に結構だ。クリスマスには………Aぐらいは済ませて欲しいね」
「っっっっっっ!」
………ろくなことには、ならない。
「………流さん、なんでそっち方面へ引っ張りますか?」
「だって君たち、Aもまだだろう? その歳でうら若き男女が一つ屋根の下に同居、しかも二人は恋人同士。僕ならもうCまで行ってるけどね」
「品のない会話はやめてください。楓もそういうことに耐性ないんですから」
「そうですよ、流さん! 確かに私たちキスの一つもしてませんけど――――」
「なら、期待させてもらおうか。クリスマスには、二人がちゃんとA以上の位置に行ってることをね」
「「期待なんてしないでください」!」
ぴったりと、ハルと楓の言葉のタイミングがかぶった。
「おやおやおやおやおや………こりゃあ、本気で期待できそうだ」
にんまりと、顔全体が歪むほどの笑みを浮かべる。
その表情で見られることが恥ずかしくて、そして周りの視線全てが全て突き立っていることにようやく気づいて、そしてどんな内容を展開していたのかを再び整理し、二人そろって赤面した。
それはもう、本当に仲のいい恋人同士のように。
「うんうん――――若いって、いいよね………」
感慨深げにしみじみと、流さんが言う。
――――やっぱり、この人には叶わない。
いまさらながら、ハルはようやくそのことを実感した。