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二十二日 午前

「ねえ、セリカ」

「何? 楓。また何か悩み事?」

「ううん。そういうわけじゃないんだけど………」

「聞かせて。どういう形にしろ、力になってあげたいから」

「うん――――いつもごめんね」

「誤ることじゃないわ」

「でも――――」

「確かに、悩みを誰かに告げるのはその人にその悩みに共感することを強制するようなものよ。でもね、それでも聞いてほしいって思ったんだったら、言わないほうが辛いと思うわよ。そうよね、()(よい)

「ええ、そうです。楓さん、もう少し気楽になってはどうですか?」

「そうだよ、屋敷戸姉さん。姉さんもいろいろあったとは言っても、まだ私たちと変わらないんだし」

「それに、何も言ってもらえないって言うのも少し悲しいわよ。せっかく今までカルテットでやってきたのに、変な壁作られた地なんかすると、ね」

「…………うん――――」

「それで? どうしたの。悩み、なんでしょう?」

「ばれてた?」

「ええ。解りやすいですからね、楓さんのって」

「………なら、隠さなくてもいいか…………

 誰かを殺したい、壊してしまいたいって思うのって、おかしいの?」

「………それってどういう意味なの? 姉さん」

「――と、言うより、私はその疑問に行き着いた経緯のほうに興味があるのだけれど」

「――――――まさかとは思いますけど、楓さん……」

「――もしかして、楓、会っちゃった?」

「………うん」

「なるほど――――」

「納得、ですね」

「うわぁ………」

「………確かにあなたの場合、それで殺意につながってもしょうがないわね」

「………しょうがない?」

「ええ。しょうがないと思うわ。関係性があれなんじゃ、ね。私でも思うもの」

「……僕も、大筋同感ですね――――」

「ん――――ごめん、姉さん。わかんない」

三里(みさと)はそれでいいのよ。理解できなくていいことは、理解しないほうがいいの」

「う〜ん、それはそれでさびしいかもだけど、まあいいか」

「まあ、この通りよ楓。貴方の所属するこのカルテットのうち、貴方を除いても二人は他社に殺意を抱いたことがあるわ」

「それも自分に非常に近いものに、です」

「それが異常かどうかなんて、はっきりいってその人物の育ってきた環境次第でしょう? それを可笑しいって断言できるのは共感できない人間――――『自分の世界にその事柄が存在していない人間』だけよ。だから………特に気にすることはないんじゃない?」

「けど――――なんだか重いですよね、楓さんの話って…」

「そうよね。私たちは殺意だけで済んでるけど――楓は傷だもの。重さが違うわ」

「――でも、今は幸せだと思うけど? 屋敷戸姉さん」

「どうしてかしら? 三里」

「だって、兄さんと一緒なんだし」

「ああ…………」

「そういえば――――そうでしたね」

「………もしかして、忘れてたの?」

「あいにくながら、ね。友人の知人なんて、よほど印象深くない限り覚えていないから」

「三里に兄さんみたいな人がいるのは知っていましたけど、楓さんと深い仲というのは――――」

「………だったら、連れてこようか?」

「その彼を? このカルテットに?」

「楽器、出来るんですか?」

「うん。私と結構前から組んでるから、ピアノはかなりのレベルで弾きこなせるよ」

「…ピアノ、ですか――――」

「……有益、ね…」

「うん。兄さんとはよく一緒に練習してたから、私のチェロとよく合うと思うよ?」

「私のバイオリン、八宵のアコースティックギター、三里のチェロ、楓のハーモニカ………に、ピアノ――――いいかもね」

「じゃあ、決まりですね。楓さん、次のときに、連れてきていただいていいですか?」

「うん。二週間ぐらいは、仕事もないし」

「そういえば、そろそろコンサートだっけ?」

「秋の……紅葉祭、でしたよね」

「あ、そーいえば兄さんから来てくれって言われてたっけ」

「その時はみんな……来てくれる?」

「ええ、ぜひ」

「お二方はいま話題の実力派ですし、招待していただけるならこれ以上の名誉はありませんよ」

「私は――――うん、絶対いく。というかいかざるを得ない」

「――――ごめんね、いつも………」

「いいのよ、別に」

「……ありがとね、みんな」


    # # # #


 六年前の、冬。

 その日の………夕方のことだった。

 忘れもしない。私の中での最悪の記憶と、そして救われたかのような安らぎの記憶。その二つが、同時に眠る日。

 あの日、私は歌っていた。

 目元はひりひりするし、のどはちょっと痛い。普段なら絶対に歌うような気分にはなれないような気分の中で――しかしそれでも、今までにないほど美しく、それでいて伸びやかに、私は歌っていた。

 曲名は、覚えていない。けれど、何か聖歌の類だったと思う。その時の私は祈るような気持ちだったから。

 夕日の中の、少し手狭な公園。

 この季節にはあまりにもそぐわない、しかし不自然なほど布地の大きくあまった赤いワンピースを身に纏って、踊るように歌っていた。

 第三者の目から見れば、異常な人そのものだったかもしれない。あの時私はもう十歳だったし、いくら精神的に参っていたとはいえ、人目を気にする程度の羞恥心は身に着けていた。

 それでも私は歌ったのだ。

 歌わざるを、得なかった。

 とにかく私はその時夢中になって歌っていて、人目も気にならないほど参っていて、そしてまだあの時は一人だった。

 そんなときだった。


「………『音は、歌い手の世界』…か……」


 その声が、聞こえたのは。

 え?

 私は内心でそう思い………そして今更ながら見られていたということを再認識し、少し恥ずかしくなって歌うのを止めて、その方向を振り向いたのだ。

「……………」

「……………」

「……………」

「……あなた、誰?」

 躊躇いがちに、私は言った。

 振り向いたその先、そこにいたのは私とそれほど変わらない歳をした男の子だった。

 分厚い手提げ鞄と、季節柄にぴったりの厚着。それなりに裕福な家の子なのだろうか、手提げ鞄から高級そうな懐中時計が覗いていた。

 その男の子はまったく表情を変えずに、

「ただの通行人」

「……………………」

 思わずきょとんとした表情になってしまったことに、私の責任はないはず。

「綺麗な歌だったよ」

「!」

 思わず赤くなった。

 まさかそこまで聞かれているとは、思わなかった。

「…………………」

 そのまま私は身を縮める。上手い、とはいままでなんとも言われてきたからそれほど気にはならないけど、まだ見知らぬ人、それも男の子に聞かれるなんて、すこし恥ずかしい。

 だけど、その言葉は私に向けられたもの。

 だから、ちゃんと言わなければいけない。

 掠れた声だけど、聞こえたかどうかもわからないけど、

「……………ありがとう…」

 私は確かに、そういったのだ。

 ふ、と少年は軽く微笑んで、

「………君、なんて名前?」

「え?」

「名前だよ、なまえ」

「…………………」

 躊躇うように、私は二三度口を開け閉めした。

 ………初めて、会った男の子だから、だろうか。

 かなり緊張する。

「…………やしきど……」

 縮んだその身が、その一言でほぐれる。

「………やしきど、かえで…」

「かえで?」

「………うん」

 思い出す。まだ私が幸せだった頃を。

「実りと……彩りの季節にやってくる…綺麗な赤の名前」

「秋の名前なんだ………」

 その男の子は、微笑みのまま言った。

「じゃあ、僕と一緒だね」

「いっしょ?」

 うん、とその男の子はうなずいた。

「僕は、××春×。みんなからは、ハルって呼ばれてる」

「はる?」

「うん、ハル。秋の反対にある、芽生えと、花の季節」

 春と、秋。

 最初に気にかかったのは、その二つの符号。私とおんなじ季節の名前を手にしている、その男の子の名前。

「君って、歌えるの?」

 その男の子、ハルが訪ねてきた。

 まだ少し躊躇いながら、私は答える。

「……少しだけ、だけど」

「………なら、今度からは一緒に、歌わない?」

 その言葉に対し、私は躊躇って、躊躇って躊躇って躊躇って、

 そしてその後に、うなずいたのだ。


 そう。

 これが、最初の出会い。

 私がハルと、春という季節をその名前に宿した少年に出会った、その瞬間のこと。

 だけど、私はその時は知らなかった。

 春というのは、恋の季節でもあるのだ。

 それを私が心から知るのは、もうちょっと後の話。


     ♪ ♪ ♪


 幸せだったのか、

 それとも不幸せだったのか。

 よくわからない感覚を覚えながら、楓の意識は浮上する。

 意識と同時に浮上するのは感覚。感覚は浮上すると同時にその役目、あたりの把握と言う役割をこなし始め、周囲の状況、ひいては心境までを自らの情報として伝達する。

「……………………」

 こまごまとした小物の多い、大人しいながらも飾り気のある部屋。家具自体の数は少なく、置いてあるのは精々ベッドと机、そして本棚程度だが、その壁、そこに貼り付けられたコルクボードには実に多くの写真がある。

 恥ずかしそうに身を縮めながら隣にいる少年の腕にしがみつく少女の写真、何処かの舞台で歌う少女、その隣でグランドピアノに向う少年、何かの盾を掲げている小さな少年と少女、嬉しそうに笑いながら囲むにぎやかな食卓、二人並んで真新しい制服を身に着け校門の横、また別の舞台、今度は二人とも制服で、友人たち四人と、四人での演奏、また舞台、ブレザーを身につけて校門の横、紅葉の中のステージ――――

 実に多くの写真の中、そのほとんどに写っている少女は寝ぼけた顔で部屋を見回し、時計に目を留める。

 午前八時、二十二分。

「……………」

 のそり、と楓はベッドから降りると、部屋を素足のまま移動、寝巻きとして纏っているワイシャツのボタンを外しながら、クローゼットを開け放つ。

 綺麗に洗濯、アイロン掛けがなされた衣服の中から、いつも通りのブラウスとロングのフレアスカートを選んで身に着ける。

「………………」

 欠伸をかみ殺しながらベッドの枕元に放置されているヘッドホンをつけ、部屋を出た。

 瞬間、鼻をついたのは楓にとっての朝の匂い。

トーストの焼ける、どことなくほっこりした香りと、それに混じった深みのある豆の芳香、そしてかき消されそうになっているものの確かに存在する、植物の花を思わせる紅茶の香り。

その香りに誘われるように歩きなれた少し細い廊下を左に向って歩き、リビングへ。

 そこにいたのはハルだった。ワイシャツに黒のズボン、その上から真っ黒のエプロンと言う、ジャズバーの店員を思わせる格好で……電話中だった。

「………はい? 時間変更ですか? どうして? ――――――え? 葉山さんと禊さんが……それと流さんも? ………わかりました。それで、変更後は?」

 とりあえず応対を続けるハルに会釈をすると、ハルも電話を続行しながらテーブルの上を指差す。

 トーストとベーコンエッグ、それとポットが二つ。香りから判断して、中身は紅茶とコーヒーだろうか。典型的な洋風朝食の風景である。

「…………」

 とりあえず電話中のハルを横目に、食卓につく。

 ソーサーに伏せられているカップに紅茶を注ぎ、一口。

 ………ふう。

 内心でほっと息をつく。

 ………やっぱり、朝はこれだよね……

 二年前からの日常、二年前からの暮らし。一日の始まりには、いつもこれがあった。

 ハルの家は×××市中央に程近い位置にある、分譲マンションの四階にある。防音完備で部屋が広く、その上全部屋のドアがかなり大きい(ちなみに狭いとピアノを運び込めない)という、二人にとって見ればかなり嬉しいマンションなのだ。

 なんでも、ハルの両親が二人が正式に音楽家としてデビューした二年前、それを期に購入したマンションらしい。そのマンションをそのまま、ハルに与えたのだ。

 その住まいに同居を勧められたのは、その時のこと。

 以来、ずっとこのマンションに二人で暮らしている。

「………………はい。一時間ですね。明日のほうは――――――変更、なし? 了解です。他に変更点は? ……………へ?」

 電話に出ると、ハルは表情がころころ変わる。おかげで旗から見ている分には、内容が酷くわかりやすい。

 どうも、大きな変更点があったらしい。

 ………なんだろ? 順番…かな。

 思いながらもトーストを一口齧る。

 おいしい。

「ちょっ………いきなりそんな大きな変更ですか? ――――確かにそうですし、チャンスなのも確かですが、尺が持ちませんよ。…………え? 新曲? あるにはありますが――――それを? まだ未練習状態です、発表できる段階じゃあありませんよ」

 ………新曲?

 今まで存在を聞かされていなかったものを示唆され、楓は首をかしげた。

 確かにここ最近、いつもの練習が終わったときや授業中などに何か書いているのは見たことがある。何かの曲のようだ、いつかは歌うことになるだろう、などとは考えていたが、まだこちらに話が来ていない以上、まだ歌えるような段階にはないということでもある。

 ………大丈夫――かな?

 少し不安を覚える。

「――――――っ、そこまで言いますか? …………わかりました。そこまで言われたら、もう引き下がれませんから。それで、ほかに変更点は?」

 ………受けちゃった……

 顔を見ればかなり大きな変更があった事は間違いないはず。なのにこちらに相談もせず、受諾してしまった。

 ………それはそれで、さみしいものがあるんだけどなあ……

 まあ、気にしてもしょうがないだろう。

 ハルが決めたなら、間違いはないはずだ。

 とりあえずもう一口、トーストを齧る。

「…………はい、ゲネプロが――――わかりました、明日の十時、ですね。了解です。変更点は…………はい、じゃあ今日の十時

にまた――――っ、わかってますって。では」

 がちゃん。

 壁に据え付けられた充電器に受話器を戻し、ハルが軽く息をつく。

「……大きな変更?」

「ああ――――」

 言いながら、一人暮らしにはあまりにも広いリビングを横切り、楓の正面の席に陣取る。そのままティーポットから自分用のカップに紅茶を注ぎ込み、一口。

「………まったく、直さんも何でいきなり……」

「なに? 時間でも、変わった?」

 どことなく不安を感じつつ、ハルと同じように紅茶を一口。トーストとの相性が非常にいいので、朝食には最適な味である。

 ハルは大きくため息をつき、

「ああ――それもある。葉山さんと禊さん、事故にあったって。それと流さんも」

「え――――?」

 ソーサーにカップを戻そうとしていた手が止まる。

「事故―――って、どの程度の?」

「連弾二人組は出演辞退、流さんは軽症だそうだ。そのせいで到着時間が遅れるから、リハの時間が遅れる」

 言いながらテーブル中央の大皿からスコーンを一つ。

「まあ、流さんが遅れるならしょうがないか、とも思うけどな」

 確かに。流さんは楓もよく知る人物で、その人気はかなりのものであり、そしてまた今回のコンサートの主役でもある。それだけ大きな人物のトラブルともなると、全体が遅れるのは不思議ではない。

「……演奏、大丈夫かな?」

 楓の心配そうな声に、

「まあ大丈夫だろ。出演辞退なんてことにはなってなかったし」

 ハルは気楽な様子で答えた。が、その表情は少し重い。

「……それより、俺にとって見ればもう一つの変更のほうが心配だ――」

 言いながらまたため息。

 どうも、その変更はハルの気を重くさせるに十分足りるほど、大きな変更であったようだ。

「…………悪い、変更なの?」

 どうにも不安な気分になってきた。

 意味もなく手がやることを探してさまよい、必要もないのに紅茶をかき回してしまう。

 紅茶特有の香りが紅茶から立ち上るが、それでは不安要素解消には足りないだろう。

「……………驚くなよ?」

「うん――――」

「直さんの言葉によると、俺たちの出演順が大きく変わったらしい」

 重々しい口調で、ハル。

「………どこへ?」

「―――――――」

 質問には答えず、ハルは紅茶へ角砂糖を三つも落とし込んだ。

 珍しい。ハルは基本ストレート派で、それは楓もそうなのだが、ともかく普段は絶対にミルクも砂糖も入れないのだ。

 そのハルが、三つ。

 どうもその変更点の規模は、とてつもなく大きいらしい。

「…………楓、さっき連弾二人組が出演辞退したって言ったよな?」

「うん………事故にあって、これなくなったからって」

「その穴埋めの出演者として、白羽の矢が立った」

「え?」

 思わず絶句する。

「ちょっ……ハル、それって――――」

 連弾二人組、葉山さんと禊さんのコンビは流さんには及ばないものの、かなりの重要出演人物だ。もちろんその穴埋めとなれば二人が使うはずだった時間がそのままこちらに委譲されることになる。

 つまるところ、この変更が示す意味とは………

「そういうことだ」

 適当にかき混ぜていた、恐らくは砂糖が溶けきっていないであろう紅茶を口に含み、

「俺たちに連弾二人組が使うはずだった枠へ収まることになった。つまり、メイン級の時間で演奏できるってことだよ」

「――――――――――――――――――――」

 瞬きの間、

 世界が、停止した。



「ちょっとまって、一個ずつ確認していくよ」

 虚脱状態から脱出して開口一番、楓は半ば身を乗り出すようにして聞いた。

「まず最初に、流さんが事故にあってリハーサルに遅れる、と」

「ああ」

「まあ、これはそれほど大きな変更じゃないからいいとして、次。で、出演予定だった連弾二人組も事故にあっちゃって出演辞退した」

「そう。大物二人のペアがな」

「で、その穴埋めが急に必要になって、直さんがその穴埋めに私たちを推薦して………」

「それが通ってしまった、と」

「そうなっちゃったから、時間が予定よりも延び延びになって、結果尺を伸ばすためにまだやってない曲を演奏するしかなくなったというわけ…………なんだよね」

「ま、そういうことだな」

 確かに、これは大きなチャンスでもある。前座の扱いであった今までの待遇とは違い、メイン級の立場を与えられたということだ。この演奏を成功させれば、今後もこういった大きな仕事にも参加できるようになるかもしれない。

 それは言うなれば登竜門。ここまで大きな演奏ともなれば、今まで聴く機会のなかった人たちに自分たちの存在を知ってもらえるいい機会だ、気に入ってもらえれば、自分たちの演奏を聴きに来てくれる人間が増えるチャンスにもなるだろう。

 別に、今までの仕事に不満があるわけではない。小さなコンサートであればメインでも演奏することが出来るし、現に先日の紅葉祭の時にはメイン級として出演していた。それに大きな仕事にしたところで、前座扱いとして出演することも出来る。それなりに金銭も得ているし、若年層に人気が高いため、小さいところからCDも出ている。

 が、この大舞台だ。

 今までの仕事とは、規模も心構えも違う。

 チャンスとはいえ、かなり厳しい仕事になるだろう。

「…………できる、かな……」

 思わずもれた、楓の弱気な一言を、

「出来るか、じゃない」

 紅茶を一気飲みしながら、

「やるしかない、だろ?」

 ハルが、一蹴した。

「それに、新曲も形はできてる。発表には、いい機会だろ?」

「…………出来てるの?」

 初耳だ。確かに創っているところは見ていたものの、最終的に歌うのは楓になるため、歌詞や音程などに関して相談に来るのだ。

 そしてそんな相談を受けた覚えはない。

 つまり、まだ曲としては完成していないということだ。

「いや、まだ骨組み程度だけど――――歌えない事はない」

「………それ、絶対無理」

「そうでもないと思うぞ。クリスマスも近いってことで、聖歌調にしてみたから歌いやすいはずだし」

「そんなこと言われても…………」

 本番までの日数は、今日を含めてもわずかに二日である。いまから全力で練習したとしても、まず本番では出来ないだろう。

「………日数か?」

「うん。明後日、だよね……本番」

 どれだけ簡単な曲でも、完全オリジナルの初見をこの大舞台で演奏するというのはあまりにも無茶が過ぎるというものだろう。

 が、ハルは涼しい表情のまま、

「まあ――多少の無理はあるだろうが、多分大丈夫だろ」

 けろりとそんなことを、言ってのけた。

「…………本気で言ってるの?」

 眉をひそめて聞き返す。

 するとハルは微笑み、

「………まあ、聞けばわかる。多分、覚えてると思うから」

 そんな意味深なせりふを言い残した。

「それ、どういう意味?」

 ハルが創るのはいつも完全にオリジナル曲だ。稀にアレンジ曲を作るときもあるが、そっちはいつも新曲とは呼ばずに『アレンジ曲』と呼んでいる。そのハルが新曲と呼ぶからにはそれはアレンジ曲ではなく、世界で誰も聞いたことのない曲であるはずだ。

 聞いている覚えがあるほうが、おかしいだろう。

 内心でいろいろと考えている楓、その表情を見たためなのか、ハルは普段では考えられないほど無邪気な笑みを見せ、

「……ま、聞いてみればわかる。先、行ってるぞ」

「あ、待って!」

 半分ほど残っていた紅茶を一気に飲み干し、

「おっと」

 立ち上がる前にポケットからそれを取り出す。

 アルミ包装の、錠剤。糖衣錠ではなく圧縮整形の錠剤で、明らかに栄養剤の類ではなく医療用だ。

 いくつかを手のひらに落とし、一気に飲み込む。

 薬は、軽度の精神安定剤だ。

 六年前から服用を続け、手放せなくなったもの。

 この生活を保つために、必要なもの。

「…………よし」

 一息ついてから錠剤をポケットに戻し、楓はハルの後に続いた。


     ♬ ♬ ♬


「三里」

「なに? 兄さん」

「………毎度のことだが、どうして呼び方が『兄さん』なんだ?」

「いいじゃない。このほうが呼びやすいもの」

「血縁関係、微妙だろ――――」

「伯父さんって呼ばれたほうがいい?」

「遠慮しとく」

「………で、どうかしたの? 兄さんが沈んでるなんて、よっぽどのことじゃない。また親と喧嘩でもした?」

「いや………そういうことじゃない。なんてことない質問なんだけど――――」

「どんな?」

「………幸せって、一体なんだと思う?」

「はあ? 何それ、何かの例え?」

「いや、そのままの意味だ。特に深読みした回答は期待してないから、率直にこたえてくれてかまわない」

「う〜ん…………そんなこと言われたって、今まで考えたこともなかったし………」

「そうか………」

「でもわからなくはないかな。用はどれだけ、その人が『自分を幸せだと思えてるか』ってことでしょ?」

「………そうともいえるな」

「私は今学校でも楽しくやってるし、それ以外もカルテットで楽しくやってるし、兄さんともこうして普通に話せてる。特に何かに困ってるわけでもないよね。これもある意味幸せだっていえるけど……これが幸せだって思える人って、どれだけいるのかな?」

「実感を持って、だと難しいんじゃないか?」

「私もそう思う。こう思えてるのだって、カルテットのみんなといるからだしね。けど、気づいたらこれでも十分幸せなんだよ。だから私にとっての幸せって言うのは、『どれだけ周りの環境を素直に受け入れられるか』。これもある意味、答えだよね」

「確かに、そうだな」

「でしょ? 特に何の問題もなかったら、気づいた時点で申し合わせだと思うけどね、私は」

「…………そう、だよな」

「でも兄さん、一体どうしたの? つかみどころがないのはいつものことだけど、いきなりこんなこと聞いてくるなんて珍しいじゃない」

「いや………ちょっと、楓がな……」

「屋敷戸姉さんが?」

「ああ。普段、かなり明るいだろ?」

「うん。カルテットでよく会うけど、随分明るい人だよね」

「それだけじゃ、ない」

「当たり前でしょ?」

「そういう意味じゃなくて、もしかすると過去に何か………」

「う〜ん―――確かに、たまに相談してるね。私じゃよくわからないけど、八宵とか儚梨姉さんとかは、わかってるみたい」

「やっぱりか………」

「でも、どうしてそんなこと急に?」

「ヘッドホン」

「え?」

「楓、ヘッドホンつけてただろ? やけに大きい、不釣合いな奴」

「うん。確かに、いつもつけてるね。練習中とか、会話中とか、食事中とか関係なしに」

「寝るときと風呂のときぐらいにしか、はずさない」

「……………………」

「それにお前、楓があのヘッドホンで何か聞いてるの聞いたことあるか?」

「………ちょっと待って…気にしたことなかったけど、そっちでも何も聞いてないとか?」

「ああ。せいぜい機嫌のいいときにかけてる程度だ」

「……何かの、トラウマ……かな」

「たぶんな」

「……やっぱり、そうなんだ――――」

「俺個人が干渉していいことじゃないのはよくわかってる。けど、どうにかしてやりたいんだよ………同居人としてじゃなく、な」

「………さすがカレカノ関係。いうことが違いますな」

「当然だ」

「そこ、照れるとこだよ?」

「照れて意味あるか?」

「ないね」

「だろ?」

「………うん、そういうことなら、カルテットに来て見たら? 姉さんも八宵も、楽器が増えるって喜んでたし」

「クインテット、か? 俺のピアノと、三里のチェロと…後は?」

「八宵のアコギと姉さんのバイオリン、それと屋敷戸姉さんのハーモニカかな」

「………取り合わせ悪ぅ……………」

「……それ、禁句」


     ♪ ♪ ♪


 市街地中央の道路を、一台のバスが走っていた。

 電車ほどの速度はないものの、市街地の細かい場所を網目のように走る公共交通手段であるところのバスは、どこの町であろうとも便利に利用される存在であり、そしてそうであるからには多数の人がそれに乗り込む。

 平日の昼前であろうとも、それは例外ではない。

 少し車内に目をやっただけで、買い物に向かうと思われる中年の女性や徒歩での移動が億劫になったと見える老人、明らかに不真面目そうな学生に私服の少年まで、老若男女を問わぬ様々な人の姿を目にすることが出来る。

 そのため、このバスという交通手段の中においては不自然なものでも勝手な理由をつけられ、話題の対象にはならず………つまるところ、バスの最後尾の席に座る、第三者の目から見て完全にカップルにしか見えない二人組はまったく目立たないということでもある。

 何かの資料なのか、譜面のようなものを一面に書き込んだノートを広げる少女、楓は、

「――――この辺、気になる、かな……」

「そうか?」

 その隣の少年、ハルが左隣から譜面を覗き込む。

「うん。リズムがちょっとずらされてるから、音がとりにくくて」

 うなずきながら楓が譜面を指でなぞっていく。

「……うん、この辺もそう。歌ってみてわかったけど、歌詞も変えたほうがいいと思う。リズムが崩れてるから、聞き取りにくい」

「ああ、そのあたりは俺もそう思ってた。で、どうする?」

「………このままでも通せないことはないけど、完璧にやるならもうちょっとゆったりさせたほうがいいと思う。悪くはないけど、こっちも自分でアレンジ入れそうになるし………」

「了解。じゃあ、ちょっと貸せ。即興で直してみる」

「よろしく」

 笑みを浮かべながらハルに譜面を差し出すと、ハルは指摘部位を数瞬見つめ、

「………………――――するか…」

 何事かをつぶやき、ポケットからペンを取り出し修正を加え始める。チョコチョコと書き込み、チョコチョコとすでに書かれている部分を消し………そしてまたちょこちょこと書き込んでいく。

「…………………」

 長くなりそうだったので、目線を外の景色へと移した。

 流れる町並み、どんよりと曇った空。時間帯のせいなのか、それとも今にも雪が降り出しそうな空のせいなのか、あるいはただ単に寒いためなのか、外を歩く人の姿はほとんどなく走る車の台数も少ない。流れていく風景は冬の色に彩られた穏やかな風景で、見ていてどことなく安らぐ気がする。

 ………あの後も、こんな感じだったかな…………

 思い返すのは、六年前の冬のこと。

 あの少年と初めてであった、その後のことだ。

 ――最初に感じたのは、困惑だった。

 最悪な気分で歌っていた歌を、見知らぬ誰かに聞かれてしまった。それだけなら単なる恥の記憶で終わったのだが、その後に褒められてしまったというのが印象的だった。

 ………あの日まで、褒められたことなんてなかったから……

 だから、自分の歌が褒められたという事実をすぐには受け止められなかったのだ。

 けれど、その後に、

 ………ちゃんと、いえたから。

 ――次に感じたのは、恥じらい。

 聞かれていたという事実、褒められたという感覚、それが見知らぬ人からだったという実感、それら全てからもたらされた結果として、とてつもなく恥ずかしくなってきたのだ。

 だから、

『…………やしきど、かえで…』

 それだけでも、もう貌から火が出そうなほど、恥ずかしかった。

 あの時は自分もとてつもなく人見知りであったし、そしてあの時あの少年とは初対面だった。名乗れただけでも、あのときの自分にしてはがんばったほうだろう。

 ――そして、次に感じたのは………

 喜び、だった。


『………なら、今度からは一緒に、歌わない?』


 その、一言。

 何気ない一言。

 他愛もない一言。

 その言葉で片付けてしまうのはたやすいことだろう。

 だけど、あのときの楓にとっては、

 ………嬉しかったな……

 自分の全てを捨てかけていた、自分にとって。

 己が人間でないと認識しかけていた、自分にとって。

 どこまでも脆弱であった、自分にとって。

 あの日から二人は歌い始め、偶然にも同じ小学校であったこともあり行事などで歌うこともあり………そしてその行事の中で直さんの目に留まり、それが元でスカウトを受け、気がつけば……

「…………これでどうだ?」

 気がつけば、ここまできていた。

 あの時では考えられなかったほどの、場所へ。

 ………ハルは、

「どれどれ?」

 差し出されたノートを受け取り、そのページに目を落とす。かなり修正したらしく、五線譜そのものが書き直されたところや、ほかと比べて明らかに筆圧の異なる場所など、修正のあとがいたるところに見て取れる。

 ………覚えてる、かな……

「――――――うん、これならたぶん大丈夫。普通に聞こえると思うよ」

 あの日のことを。

「そうか…………なら、リハはとりあえずこれで行くぞ」

 もし覚えていたのなら、

「りょーかい。ピアノ、よろしくね」

 ………私の、傷を―――

「任せとけ」

 言って修正に使ってたシャーペンを再び収納し、またノートを覗き込む。

「ほかは、もう大丈夫か?」

「一回歌っただけだからなんともいえないけど、多分大丈夫だと思う」

 ノートを閉じ、はい、とハルに。

「………でも、無茶したよね。小学生のときに作ってたやつに、アレンジ加えて演奏する、なんて」

 そう、いま修正を加えていた曲は、ハルが五年前に作っていた曲を今の技術、技能、思考でおかしいと思える場所を変更し、リズム音程等を整え、新曲としたものなのだ。確かにリズムは単調で、子守唄に近いものがあるため歌いやすいといえば歌いやすいが、修正を加えたといってもまだ歌いにくいところなども存在しているため、まだまだ未完成といったところだろう。

「その点に関しては俺も同感だよ、楓。でも、これぐらいしか手段、なかっただろ」

 ノートを足元の鞄の中に入れつつ、ハルがぼやいた。

「だからってはじめて作った曲持ってくることもないと思うけどなぁ」

 作りかけなら、他にもあったはずである。それを何も、最初の最初に作った曲を用いることもないはずである。

「……一番完成形に近かったのが、それなんだよ」

 言いながら身を起こし、座席に背を深く埋める。

「いつか使えるかとも思って、弄繰り回してたからな。完成はもうちょっと先かと思ってたんだが………まさかこんなところで発表する羽目になるとは………」

「予想外?」

 ああ、と呻くような返答。

「こうなるってわかってたら、もっと準備もしといたんだけど…」

「でもいいんじゃない? 私、この曲好きだし」

 視線をバス車内に戻し、ハルの方へ向き直る。

 そして、

「………ねえ、ハル」

「なんだ?」

「この曲作ってたと――――――」

 しかし、その声は、自分にさえも届くことはなかった。


 ―――― ッッッッッッッ! ――――


 突然車内に響き渡った、ブレーキの音。

 それと同時、全身にかかる前方への力。

 座席に座っていようとも、その姿勢は簡単に停止しようとする力と逆方向、つまり前方へと崩れ、前方に座席のない楓の位置からではいともたやすく通路へと投げ出されるだろう。

 反応できたのは、いかなる偶然か。

 全身に力がかかったその一瞬、咄嗟に腕は最後尾座席の背もたれ上端をつかみ、投げ出されそうになる身を保持し、


 そして全体重が右腕一本にかかったことで全身に鈍い衝撃がやってきて…………


 瞬間、意識が混濁した。

 それはフラッシュバック、瞬きの間の走馬灯。目の前を幾多者風景がよぎっては消え、消えてはよぎり、正しい世界の認識は目の前から完全に消失する。音は風景の中にめぐるものだけを延々と再生を続け、そして周囲の情報が一切入ってこない以上、楓の感得する世界はよぎっていく光景だけに集約される。

 男女の争う物音、暗い部屋の中、床を踏みしめて歩く音、軋みを上げる床に、確かに感じている恐怖、そして痛みと痛みと痛みと痛み、強烈な熱はもはや熱としてではなく崩壊の感触としてのみ神経を伝わり、そして意識が遠くなる。やってきたのは解放、恐怖も痛みもない家の中、冬の公園、雪が綺麗だった。やってきた恐怖、恐怖は手を伸ばす、再び取り込もうと。確かな逃走、流れる風景破裂しそうなほどの動悸、冷え切り異様なほど過熱した全身、森の木々のように広がる人々の足、急に開けた風景、全身に走る衝撃、眼前で響くブレーキの音、鮮烈な目に焼きつく赤、

 そして、目。

 目、目、目、目、目、目。

 目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目目


 攻め立てるような、心からの憎しみを向けるかのような、目。

 それとは異なる、怪物でも見るかのような恐怖の目。

 それらは全て、

 自分をさげすんでいた。

 自分を恐れていた。

 自分を拒絶していた。

「――――――――ぁっ…………――っ」

 上手く呼吸が、出来なくなる。

 自己の中の荒れ狂う感情が体の中で荒れ狂い続け、結果呼吸という生命活動のなかで最も基礎的で、もっとも重要な機能を、阻害、する。

 ………だめ……っ

 ぼんやりと霞がかかった意識を繋ぎとめるため、呼吸という無意識下の行動を意識的に行う。過剰に稼動を続ける胸部の筋肉の活動を押さえ、無理に動きをゆっくりにする。痺れが走った手先に徐々に温かみが戻っていき、動悸は呼吸のペースより一拍ほど遅れてゆっくりに戻り、そして意識の霞もゆっくりと晴れていく。

 それに習い、頭の中の風景も喪失し――――

 そしてようやく、自分が車内に倒れていたことを認識した。

「あ…………………」

 まだ温度の戻らない腕で身を起こし、あたりを見回す。

 床からの振動がまったくない、ということはバスは停車しているのだろう。乗客は困惑というよりも好奇心に満ちた目で前方を伺っており、後方へ目をやるものは皆無といっていい。網棚の上の荷物はいくつかが滑り落ち、かなりの勢いでブレーキがかけられたことがわかる。

 ………一体、何が………

 思い、自分の座っていた席を振り返り、

 そこでようやく、心配そうに自分を見つめているハルの存在に気づいた。

「……………………どうか、した?」

 祈るような思いで、楓はたずねた。

 どれだけの時間、過呼吸状態に陥っていたのかはわからない。が、どれだけ少なかろうとも呼吸音は聞かれていたはずだ。

 あの、過呼吸特有の異常なほど早まった呼吸音を。

 過呼吸の呼吸音は普通の呼吸音と明らかに異なる。一回一回の呼吸は大きいのに、その速度は息切れのそれである。音は当然とてつもなく大きなものになるし、また全身に力が入らなくなり、地面に倒れ伏すことも珍しくはないのだ。

 それが見えていなかったとしても、音だけは誤魔化せない。

 ましてや、ハルの前では…………

 ………どうか、

 気づかないで欲しい。

 ………私の、

 私の、傷に。

 ………気づかれたら、

 今の生活は、終わってしまうから。

 終わって欲しくは、ない。

 終わらせたくは、ない。

 だから、どうか。

 ………気づかないで………

「――――降りるぞ、楓」

「え?」

 楓の困惑をよそに、ハルはとっとと座席の足元においてあった二人分の荷物を担ぎ上げ、立ち上がる。

「どうも、轢き逃げらしい。前の交差点で事故があって、身動きが出来なくなってる。降りなきゃ、間に合わない」

 ほら、と無理やり楓の肩をつかみ、立ち上がらせる。少し乱暴かも、と思わないでもないが、楓のことを考えての最良だろう。

「でも……まだここからだと――――」

 窓の外から見える風景、そこはまだコンサートホールからそれなりの距離がある交差点だ。徒歩で行けば、二十分以上の距離がかかる。

「タクシー使えばいいだろ? 幸いにして金もあるし、近くに市庁舎もある。タクシーぐらい、捕まるはずだ」

「けど――――」

「それに急ぐ急がない以前に、そんな体で歩けるわけないだろ」

 有無を言わせぬ口調だった。

「降りるぞ。もしかするとタクシーが捕まらない可能性もある。その場合は…………背負って歩いてやるよ」

 ………いや、それはちょっと遠慮しときたいけど……

 さすがにそれは恥ずかしい。

「まあ、とにかく行くぞ。遅刻になると直さんがうるさいからな」

 荷物を背負ったまま、ハルが楓の脇を抜ける。

「――――うん」

 どことなく今までより力強い言葉が出たような気がする。

 ………でも……

 ハルの後ろに続きながら、内心で楓は思う。

 ………聞かなかった、よね。

 つまりそれは、楓の内心を察したということでもある。

 あの状況の根本にあるものが、楓の傷であるということを理解してくれたということだ。

 ………ありがと、ね――――

 何気ない態度。何気ない気遣い。

 それがあまりにも、楓にとっては嬉しかった。



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