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二十一日 午後

 他者を怪物と呼ぶものは、自らが怪物でないか確認せよ。

 誰かを怪物と呼ぶとき、そう呼んだ人間もまた、怪物足りえるのである。


     ♪ ♪ ♪


 十二月二十一日。

 先月まで降り続いていた大雪と呼ぶにふさわしい雪がやみ、久々に心地よいと証することの出来る陽光が降り注いだ小さな冷たさを溶かしている、そんな日。

 地に降り注いだ雪は季節の風物詩として、美しい風景をその場に残す。きらきらと太陽を反射する白く冷たい輝き、その下に存在している地面に与えるみずみずしい恵み、そういったものから総じて感じられる、奥深さ。

 その光景が見られるのはどこでも同じであり、それはつまり×××市の公園の中でも、例外ではないということだ。

 その上を、一人の少女が歩く。

 紺色のブレザー、学校姉弟の長さよりも長い不釣合いなスカート。黒というよりは少し紺色じみた長い髪をにつけられているのは旧式のヘッドホンで、どことなく老成した雰囲気を漂わせながら、しかし歩調はひどく軽やかに、歩いている。

 雪化粧された、並木通り。季節が変わればこの並木通りも、並木に咲き乱れる薄紅の花を見物する花見客でにぎわうのだろうが、あいにく今は冬で、大雪の後である。

 しかしだからといって、華がないわけではない。木々に積もった雪はきらきらとした輝きを伝え、葉も花も散ってしまった枝に、まったく別の味を持つ『花』を咲かせていた。

 それらを横目に見つつ、軽やかにその少女は歩く。歩くたびに腰の当たりまで伸びた長髪が揺れ、背格好にそぐわない大型ヘッドホンに髪がぶつかって硬質な音を立てる。機嫌がいいのか口元は緩み、曲と思われる軽やかな音を口ずさんでいた。

「――――――」

 恐らくはオーケストラと思われる曲を口ずさみながら、公園の中央のほうにある広場を目指す。

 ―――― きゅっきゅっきゅっ

 一歩ごとに少女のローファーが積もった雪を踏みしめ、柔らかな音を立てる。

「……いよいよ、か」

 つぶやき、一言。

 きゅっきゅっきゅっ

 軽やかな歩調のまま、広場に到着する。やや広めに取られた面積、中央にある噴水付きの池。正し今は温度の関係上水は止められ、噴水は動いていない。

 一度そこで少女は足を止め…………

「――――おっ」

 何かに気づいたように目線を留めた。

「……………………」

 しばらく、その方向を凝視する。

 目線の先にあるのは、一つのベンチ。広場にいくつか据え付けられているものの一つで、木製・背もたれ手すり付きのありきたりなもの。もちろんその上にも雪が積もっているのだが、そのベンチだけは、別のものも積もっているようだった。

「……………………」

 少女があきれたように顔を弛緩させる。

 ベンチの上に乗っている雪以外の何か、それは、少年だった。服装は少女と同じデザインの、男子用と思われるブレザー。やや着崩れているのは本人の使い方だろうか。汚れることを気にしていないのか、ベンチに仰向けになっていて………あろうことか眠っている。

「……………――――」

 あきれ果てたかのような、ため息。

 転校は安定しているものの、まだ十二月で、大雪の後だ。あの格好のままで塾意してしまった場合、恐らく凍死は免れない。放っておけば数時間後には、季節を考えなかった愚かな少年の氷像が完成しているだろう。それはそれで見てみたいよう鳴きもしないでもないが、まさか放置しておくわけにもいくまい。

 あきれた表情のまま、先ほどとは打って変わった荒っぽい足取りでベンチの横まで歩いていく。

「――――――」

 少年の目覚める気配は、ない。

「…………そう来るか――――」

 にやり、と少女は口元をゆがめた。

「だったら、覚悟しなさい――――」

 言いながらとりあえずあたりの様子を確認した。

 見える限りに人影は、ない。

 つまり、この先自分がどう行動したのか知る者は、自分以外に存在しないということでもある。

 なら、行動あるのみだろう。

 口元をゆがめたまま手に持った荷物、大型の本が五、六冊ほど入った、かなりの大きさと重さを誇る鞄を振り上げる。

「…………………」

 少年は目覚めない。

 少女は更に口元を凄絶にゆがめると、少年の腹部、丁度正中線の真上辺りに狙いを定める。そしてしっかりと鞄を握りなおし、一拍の間をおいて…………


「ていっ!」

「ぐほぁ!」


 直撃。

 少女の放った渾身の振り下ろしは狙い違わず、少年の正中線のど真ん中、腹部の中央にヒットする。

 飛び起きて悶絶する少年。

 そんな少年を見下ろしつつ、少女は先ほどとは打って変わった花のような笑みを浮かべる。

「おはよう、ハル」

「……………(かえで)…一体何が…………ぼんやりしてたら腹に……」

 苦悶しながらその少年、ハルがうめくように言った。どうも衝撃がほとんど逃げることなく命中してしまったらしい。ひどく苦しそうな様子だった。

 少女、楓は心中で笑う。

「まあ、気にしない気にしない。ちょっとどけてね」

「――――ああ」

 苦悶しながらもハルが身を起こし、楓の座るスペースを作る。

 と、そこで気づいたらしい。

「…………もしかして、さっきのは楓か?」

「さっきのって?」

 にたにたとした悪戯っぽい笑みを一面に浮かべる。それを見てハルは渋い表情になり、

「……間違いないな、この様子だと。さっきのボディーブロー、あれ、お前だろ?」

「どうして?」

「直後にそこに来たし、掛け声がお前の声だった」

 ばれたか。

 まあ、隠すつもりもなかったけど………

 にひっと笑って、ハルから目線をはずして空を見上げる。

「………いい天気になったよねぇ――――」

 ちょっと空気が湿っぽいけど冬場だと気持ちいいぐらいだし、それに雪も残ってるから散歩すると楽しいし。こんな日は縁側でのんびり雪でも眺めつつお茶でも飲んでまったりと――――

「ごまかすな」

 少しむすっとした声で、ハル。何処となく表情が暗く沈んでいるようで、外見的には無言を貫いていても、内心では何かをぶつぶつ呟いていそうな雰囲気だ。

「ん〜……どうかした?」

 表情を変えることなくたずねてみると、案の定ハルは、

「いや、別に。起こすならせめて普通に起こせだとかいくらなんでもボディーブローはないだろうとか外見に似合わないことはやるもんじゃないとか、そんなことは思っていないぞ、楓」

 思ってるじゃない、という声を堪える。負けを認めてはならない、認めたらそこで負けだ。

「オンナノコに起こしてもらうのはオトコノコにとって幸せだってよく聞くけど?」

 正しいかどうかも定かではない伝聞だけの情報をもとに奇妙な理論付けを行い、正面からハルの顔を覗き込んだ。

 ちょっと目線が怖い。

「それは時と場合とやり方による。ゆすられて起こされても時間によっては――――微妙だろ」

「起こしてくれたのが同棲相手でも?」

 ぴたり。

 ハルの動きが、完全に停止する。

 そのまま数秒間、ハルの時間が完全に停止し、そして数秒後に再起動して額に手をやった。

「………あのなあ、楓。そういうこと、世間様の目が痛いから外で言うのやめろって言ってるだろ………」

「? でも真実でしょ?」

「俺たちは半ば以上自立してるとは言っても、まだ高校生、しかも互いに、だ。大学生ならまだしも、高校生同士となると間違いなく問題だろ」

 一気に言い、伸びをする。凝り固まっていたらしく、背骨の辺りで何か軽いものをへし折るような音が聞こえた。

「――――――っ、と。世間的には俺とお前は『仕事仲間』。同居してるのは練習関係で俺の家に居たほうが都合がいいから。実質的には同棲でも、世間的にはそういうことにしとけ」

「………ふ〜ん。別にいいと思うけどね、私としては。別にハルと………えと………その――実際に、ね、そういう問題視される行動に及んだことは、ないんだし」

「………自分で言っといて照れるな」

 左右に体をひねり、体をほぐしてから背もたれにもたれかかる。

「……で? なんかいいことでもあったか?」

「へ? どうしたの、藪から棒に」

「いや。さっき歌ってただろ、お前」

 言ってからハルが楓の髪の上、こうしてみるとカチューシャにしか見えないようなヘッドホンを指差す。

「カノン。ヨハン・パッフェルベル」

「………大当たり」

 ………相変わらずすごい耳…

 口ずさんだとは言ってもわずか数小節、しかも有名な部分ではなく中途半端な部分を、それもごく小さな音量で、だ。やはり四年間も同じような仕事を続けているもの同士とはいえ、その聴力だけは感嘆させられる。もう四年になっても差は微妙にしか縮まないし、この先もたぶん、敵わないだろう。

「お前が歩きながら歌うときって、大概機嫌のいいときだろ? それもクラシックとなると、普段じゃまずないから……」

 ………なんだかんだで、よく見てるよねハルって。

「いや、この間のコンサート、大成功だったでしょ?」

「ああ、確かに」

「――で、その時の話を信号待ちのときに聞いちゃって」

「…………なるほど」

 納得した表情でハルがうなずく。

「――――けど油断するなよ、楓。このあとも………」

「わかってるわかってる」

 言いながら、楓もゆったりと背もたれに体重を預けた。

 ――――×××市は、かなり音楽などの芸術分野を重んじる町だ。

 その起源は単純で、ただ単にこの市ができた当初の頃、芸術を重んじるお偉方が何世代も連続し、結果的に芸術分野の設備が突出したらしい。

 そのせいなのか、市内のどこに行っても月に一度は音楽・絵画関連のイベントがあるし、市営の芸術関連の教室なども珍しくはない。学校で行う授業の水準も、他の学校よりも全体的にレベルは高く、ホールや個展の数もはるかに多い。

 そうなると、当然市内出身の歌手・奏者・描き手も多くなる。

 楓とハルも、そういったもののうちの一人だ。

 楓が歌い手、ハルがピアニスト。

 二人で組んでから、もう四年になる。

 これははっきり言ってただ事ではない。

 何しろ学校の授業水準も高く、音楽関連のイベントも非常に多いため、基本的に高レベルの音楽が身近にあり、それゆえに市民の耳が肥えている傾向にあるのだ。

 ちなみにこの町の『学芸会レベル』は、他の町で『そこそこ聞ける』と判断されるレベルである。

 そうであるため、この町で歌手として歌い続けるには相当のレベルが必要になってくる。

 だが、楓とハルは四年前、十二歳の頃から歌うことをやめていない。

 四年かかり、それなりの数のファンを得、かなりの評価を得るようになって、今年はいくつか大きな仕事も入るようになった。

 先日行われた『冬花祭コンサート』もそのひとつ。

 そしてこのあとに控えている今年最後の大仕事が『×××市クリスマスコンサート』だ。

 ×××市で行われる、最大規模のコンサート。

 そこに、楓とハルの二人は出ることになっている。

「………で? 今日は練習、どうする?」

「ん〜と、今から学校戻るのもなんだし、いつも通り家で」

「了解」

 クリスマスコンサートまで、残す日数はわずかに三日だ。少々今までよりも根をつめて練習する必要がある。

「なら、晩飯の買出し寄るぞ。食料がない」

「え? 前行かなかった?」

「いや、練習合間の夜食が多かったからな、補給しなきゃ米がない」

「なるほど………」

 言いながらハルはポケットからイヤホン端子を引きずり出し、左耳にだけ装着、腰の辺りをごそごそやってMDプレーヤーの再生操作を行う。

 音量が少し大きめなのだろうか、装着していないイヤホンから聞いている曲がもれ出ている。ゆったりしたテンポの曲、ピアノ伴奏と明るいソプラノの女声。その声の主は間違いなく――――

「………それって、私の歌……だよね?」

 ピアノ伴奏だけのシンプルな曲だ。曲調はクラシックというよりポップスに近く、声は高く通るもの。それは紛れもなく最近反復練習を繰り返して本番に臨んだ自分たちの――――

「ああ。こっそり直さんに頼んどいた。ノリノリで録音してくれたよ」

「うう――――」

「………どうした? 地方TVで見たこともあるし、CDにもなってる。商店街で流れてるのも聞いたことあるだろ? 今更恥ずかしがるようなことか?」

 まったく悪びれた様子もなく、ハルは軽く言ってのけた。

 楓は少し固まりつつ、おずおずと

「いや、やっぱり自分の声が自分の意志以外で流れてくるのはキモチワルイといいますか……とにかく恥ずかしいデス」

 しかし楓以上にハルは自分の伴奏をじかに聞いているはずなのに、どうして平気なんだろう。こっちは完全に赤面必至なのに。

「そうか? 客観的に観客の立場に立ってると思えば同ってことないぞ? それに客観的に聞いてみないとわからないこともある」

「例えば?」

「あそこ半音ずれた、とか歌詞が違う、とか」

「…………そんな間違い、してたっけ?」

「聞いてみるか?」

「遠慮しときます」

 しかし楓の身に覚えがないかときかれれば、そういうわけではないのもまた真実なのだ。

 基本的に二人が歌う曲は規制のものではなく、オリジナルアレンジを加えたものや完全オリジナルなどが多い。一応規制の有名どころも歌ったりするのだが、それはあくまでおまけのようなもので、基本的には言語を変えたりジャズアレンジを加えたり、作詞から自分たちでやったりというものが多い。

 だから、そう。

 早い話、歌詞を一箇所間違えた程度ではわからない、ということだ。

 ………だから誤魔化してるところもあるんだよねぇ……

 さすがにここ最近は減っている。アレンジや作曲には時間がかかるし、歌っているものの多くはアレンジが入っているとはいえ日本語で、有名どころだ。専門家の耳にも届くようになってきたため、さすがにそのあたりは誤魔化しが効かない。

 と、そこでハルが何かを疑うかのように目を細めた。

「………もしかして楓…お前、自分が何どこで失敗したか、わかってるのか?」

 うっ、と言葉に詰まる。

 それだけでハルは溜息と共にゆるゆると首を左右に。

「やっぱりか」

「は〜い、そのとおりで〜す……この前も三箇所ほどミスりました……」

「三箇所………」

 軽く表情に驚愕が走った。

「……解ってると思うけど、クリスマスコンサートでもほとんど歌うからな? 前の曲」

「ひえ〜」

「わかったら、ほら。練習行くぞ」

 軽快な動作でハルが立ち上がる。そして何のつもりかその場で手を差し伸べるように楓のほうへと手を――――

 瞬間、

 楓の視界の中のハルが、

 別の人間になった。

 さし伸ばされる手、その手は私に愛情など与えず恐怖ばかりを与え、本人がどういう感情を抱いているにしろ私には巨大な恐怖の塊にしか見えなくて、そしてその手から逃れた私を捉えるためにもう一度手を伸ばす。

 その手にとらわれれば、どうなるか。

 それは、身をもって知っている。

 しかしその風景の中、手は楓の意思を無視してどんどん迫り、そして楓の両脇の下へ入り込んでそのまま重力の感覚から解放されて――――


「イヤッ!」


 思い切り自分の前にある手を、跳ね除けた。

「あ………」

 そして自分が誰の手を跳ね除けたのかに気づく。

 眼前に居る人物、それはハル。楓の手によって思い切り叩かれた左手をぶらぶらさせ、何処となく所在なさげにあたりを見ている。

「あ〜何というか、その………」

 ハルにしては珍しく、困ったように視線をさまよわせ、

「すまん、忘れてた」

 そしてハルは楓に背を向け、

「……とりあえず、行くぞ。今回のは俺の責任だ、うん間違いない」

「……………うん」

 軽くうなずき、楓もハルに続いて歩き出す。

 ………やっちゃった……

 ハルの隣を歩きながら、内心で思う。

 無論、今までにこんなことが一度もなかったわけではない。同じ家に住んでいることもあるし、それに住み始める前からも同じようなことが何度もあった。その度に楓は差し伸べられた手を思い切りはたき、そしてハルはそれに関して謝罪してきた。

 ………ハルが悪いわけじゃ…ないのに――――

 悪いのは、それを今まで忘れることの出来ていない自分。

 なかったことにしよう、何度もそう思いながらも結局振り切れず、そのままずるずると記憶を引きずってしまう自分。

 しかし、それも――――

「………まだ、怖いのか?」

 ハルの隣にいれば、

「…うん………」

 一度うなずき、

「でも、前ほどじゃないよ。ハルもいるし、それなりに今は楽しくやってるから」

 そう。

 ずっと一人だった昔のことを思えば、今はもうずいぶんとよくなっている。昔は駄目だった『物を差し出す手』も、今ではもう平気になったし、こっちが立っていれば反射的に跳ね除けてしまうほど怖くはない。

「本当か?」

「どうして?」

 硬い表情のまま、ハルは楓の頭部、正確にはそこにカチューシャのように乗っている大型のヘッドホンを指差す。

「それ、何も流れてないだろ」

 そのままハルは何かを確認するかのようにあたりを見回し、

「………誰かの声に、怯えでもしてるのか?」

「…………そうかも」

 深く考えることなく、楓はそう答えた。

 ヘッドホンをつけっぱしにする癖。

 それが付いたのは――――何時ごろからだっただろうか。

 楓の中の不確かな記憶、それを手繰ってみる。

 ………ああ、そうだ。

 両親が、離婚したあたりだったか。

 更に正鵠を期すなら、それよりも少し後のこと。

 楓にとって、最悪の記憶の眠る頃。あの日々の所為で今の自分と言うものの根底に根強い闇と、根深い傷が生まれ、そしてそこから逃れるためにヘッドホンが外せなくなり、そして服装も、ロングスカートか長ズボン以外は着用できなくなってしまった。

 制服のスカートが不必要に長いのも、そのため。

 見ることを忌避し、触ることも拒絶したそれは、紛れもない傷なのだ。

 しかし、

「――――だとしても、大丈夫。今は自分でも歌ってるし、それにハルもいるじゃない? だから最近は別に」

「…………そう、か」

 言葉の上ではそういいながらも、その表情は心底心配しているためなのか、酷く硬い。

 ………もしかして、勘付いてる?

 楓がどんな傷を抱いているのか。

 ………ううん。

 そんなはずはない。

 それに、ただ勘付かれているだけなら今はまだ話す必要はない。

 話せば、おそらく今の関係は瓦解する。

 今までが、そうであったように。

 そうなるのは、

 ………いや…

 だから、今は笑うべきだ。

 作り物でもまがい物でも、そこに存在してしかるべき感情の詰まっていない虚像でもかまわない。

 とにかく、笑みを浮かべていよう。

「ホントに大丈夫。そんなこと気にしてる暇もないほど忙しいしね」

「――――そうか」

 ようやく安心したのか、ハルの表情が(わかりにくいものの)一部和らいだ。

 うっすらと、楓の顔に笑みが浮かぶ。

「ありがとね、ハル。心配してくれて」

 踊るように、軽やかに。ハルよりも数歩分、前へ出る。

「気にするなよ。同居人だし、一応恋人だ。ちゃんと口にはしてないけど」

「じゃあ、今聞かせてくれる?」

「!」

 にひ、と悪戯っぽく笑みを浮かべる。するとハルは見る見る顔面を湯に突っ込んだかのように変色させ――――ものの二秒で綺麗に茹で上がった。

 ………あらら、蛸顔負け。

「バッ……何言い出すかと思えばそんなこと……」

「台詞が棒読みになってマスヨ?」

「だから、なんでそんなこと急に――――」

「目が泳いでマスヨ?」

 くっ、とつぶやき目をそらす。

 そして茹で上がった顔のまま、視線をうろうろとさまよわせる。

 なんだか、微妙にかわいい風景だった。

「ほら、早く行かないと食材が手に入らなくなる! 行くぞ!」

 競歩のランナー(ウォーカー、だろうか)もかくやと言う速度で歩きだす。

 ………絶対照れ隠しだ。

 なんだか可笑しくて、ついつい走って追いかける。

「待ってよ! どうせおんなじところ行くんだから!」

 言いながらこちらをどんどん突き放すハルを、笑いながら追いかけた。

 ………ほら、大丈夫。

 傷をそれほど気にする必要もないほど、今の日々の中には幸せが満ちている。

 だから、心配は要らない。

 願わくば、今のこの幸せがずっと――――


『本当に望んでいることなら、それを手に入れないと。それを心のそこから願っているなら、祈ってもいいのよ』


 ………そうだよね、

    セリカ…………



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