第七話 殿下
殿下に会ったことは、幾度かある。
しかし、遠くから見たり、たまたますれ違っただけで、こちらは礼をして顔を伏せていたから、あちらはセナの顔までは知らないはずだ。
ある客室を清掃していると、それまでそこに宿泊した男性がもどってきたことがある。
彼らは夜通しはしゃぎ、床に酒瓶をほうり散らかして帰ることで有名な、上客だった。
財布を落としたという彼につきあい、ベッドの下に落ちていたそれを渡すと、お礼のチップをもらった。
そんな忘れ屋さんを廊下でじっと待ってたのが、ロバートだ。
出口で忘れ屋さんは感謝を述べてくれたが、ロバートはセナに見向きもしなかった。
セナがこのホテルで働き始めてすでに二年近くが経過しているが、その間で、殿下とこれほど近い距離になったのは、それが最初で最後だった。
それからも殿下が主催するパーティーという名前のバカ騒ぎは、数度行われていたが、やがてホテル側のクレームにより、彼らはここに寄り付かなくなった。
ロバートは苦手な男性だ。
王国の女性たちから人気のある貴公子は、真っ青な空の様な蒼い髪と、宝石の紅玉髄のような深い紅の瞳をしている。
あれほど毎夜のように騒ぎ、ホテルに迷惑をかけている彼らのリーダーなのに、粗野で乱暴な素振りは感じられない。同じ男性でも、バルドとは雲泥の差だった。
セナは彼を見るたびに、バルドに受けた暴力で萎縮した心が、もっともっと小さくなっていくのを感じた。
ホテル・キャザリックは周辺の国々にいくつもあるが、その中でもこのホテルはかつての大公の屋敷を改装しただけあり、今では宿泊料金にふさわしい、地域随一の高級ホテルとなっていた。
そんな場所で働けることは光栄だ。
けれどお仕事で手を抜けば、すぐさま、解雇が待っている。
上司の判断は的確で、さらに解雇には容赦がない人だ。
セナは職場を失いたくなかったし、そんな理由でロバートを見ると、心臓がつままれるような激しい動悸を覚えた。
「もう戻ってくる気はないの?」
「……実家には彼女たちがいるから」
「そうね。おば様達がいるものね」
ホテルの寮に住み込んでいる従業員の場合、解雇されたら即日、寮を出て行かなければならないことになる。
あっという間にホームレスになってしまう。
ここに来る前、帝国のとあるホテルで働いた経験のあるセナは、そこよりかは遥かに給料がいい、現在の仕事が気に入っていた。
スイートルームの清掃を担当していると思いがけないところで高額なチップを得ることができる。
持ち前の明るさを活かし「人の足らないシフトに入る」と上司に申告すれば、笑顔でもって歓迎された。
しかし、どれほど残業を増やし、チップを貯めてみても、なかなか望む金額には辿り着かない。
家の頭金にするには、まだまだ働かなければならなかった。
「私はここで住みたいの」
「本気?」
この二週間の間、言わなかった本音がポツリと漏れる。
安心できる居場所、危険のない我が家、誰にも奪われることのない自分だけの家を手に入れることが、セナの望みだった。
「ふうん。それだけ決めているなら、誘うのはもうやめるね。ところでお昼休みに来てくれるって聞いていたから、それを用意させていたの」
「それって――」
これ? とセナは招待状と仮面を示して見せる。
ミアはそうだと肯いた。
「まさか恋人がいるのに、仮面舞踏会に参加する気なの?」
「そんなことしないわよ。アロンゾが怒るから。それは多分なんだけれど、ある一定以上の家柄とか資産とかそういったものを持つ家の、独身の女性から候補を選んで贈られたんじゃないのかなって」
「ミアの場合は?」
「一度実家に発送されて、それからここに送り返されてきた」
両手を持ってあっちからこっち、こっちからあっちと、ミアは手ぶりをして見せる。
……そうなると、彼女の実家。
パルスティン公爵家は、それなりの気構えをもって、ドレスや身に付ける宝飾品を選び、同梱したことだろう。
相手は王国の次期、国王候補だ。
はからず良縁になれなくても、顔を売って名前をおぼえてもらうだけでも、参加した意義がある。
「大変ね。その体調で出られるの?」
「自信がないの。殿下にダンスを申し込まれでもしたら、きちんと踊り切れるか、謎だわ」
「きっとあなたの頭の中は流行りの風邪で駄目になったのね。そんな体が悪いまま参加する淑女だなんて、耳にしたことがない」
親友は、夢を語っているのだ。
参加することはできないのがよく理解できていて、それでもこんなことがあったらいいなと希望を胸に抱いている。
病人がベッドで思い描くにしては、随分と立派な妄想だった。