第五十九話 息子の否決
やめて、と悲鳴が喉を裂いて飛び出しそうだった。
もう自分たちは王国とも帝国とも関係したくないの!
それなのに、どうしていまごろになって、女神も精霊も自分勝手気ままに、人を操ろうとするのですか!
セナはそう叫びたかった。
不甲斐なく、息子の見ている前で、溢れ出る涙を止めることができなかった。
思い出してしまったのだ。
最初の夜。
こうしなければならないのだと理解不明な説明を受けて、学院を追い出され、車に押し込められ、街道から外れた深い森の奥で、一人取り残されてしまったあの夜を。
あの時の恐怖がまた襲いかかる。
孤独であることは死ぬことよりも辛いものだ。
女神様に助けを求めても、歩き慣れない森の中で出来てしまった靴擦れや、腕や膝をどこかにぶつけてできた傷を癒すことはできても、明確に誰かが助けに来てくれることなかった。
数日間、森を彷徨い、ようやくあの料理店に逃げ込むまで。
セナの安息は無かったのだ。
「ちょっとママ! なんでいきなり泣き出すのさ! 話って何、どうしたの!」
「ちょっと待って。お願い、ちょっとだけママに時間を頂戴。……お願い」
悲しみは心に連鎖する。
ディーノは強い男子だ。母親が泣いている様を見れば、なんとかして守ってやりたいという勇気が逆に湧いて出る。
そこにはより大きな誰かも分からない、敵に対する不安だってある。
だがそれを我慢してこそ、僕はママの騎士になれる。そうしなくちゃ……パパがいないんだから。
幼い少年の心の中に見たこともない父親への怒りが湧いて出た。
それは純粋な怒りだった。
母親をこんなに泣かせて、不安にさせているのに、父親はやってこない。
ロアッソにさんがいてくれたら少しは違ったのに。
おじさんはお仕事だからまだ帰ってこない。
今は僕がママを守るんだ。小さな少年は心にそう固く誓い、顔を上げると俯いたセナの頭を抱きしめてやる。
「ママが泣いている理由って、もしかして僕が旅行に行くことを嫌がったから?」
「違うの。そうじゃない」
「本当に違うって言える? どうして僕のこの不思議な光たちを見て、ママが泣かないといけないの」
「待ってお願いだから。落ち着かせて、ディーノ。お願い」
駄目だ。少年は質問を止めた。
いつもは理性的で理論的な母親だが、一度こうなってしまうと、なかなか元に戻らない。
これまでの経験からやれやれ、と顔を傾けてディーノはよしよしとセナの頭をさすってやる。
すると、セナの混じり気のないシルバーブロンドからも、ディーノと同じような金色の光が沸いて出て来る。
「ママ……なんだか凄いよ」
「え?」
いつのまにか薄い金色の光は、途方もない黄金の輝きとなり、朝陽が地平線から姿を見せる時のような眩しさと共に、室内を席巻する。
窓という窓から金色の帯が四方に疾っていき、山裾に暮れようとしていた夕陽の最後のひとかけらと混じり合って、どこかに消えて去った。
息子の感嘆の声に目を開けたセナは、視界が一色のオレンジに染まっていることにため息を漏らす。
苦しみを与えているわけでも、困難を越えるべき試練として与えているわけでも、気まぐれに助けを与えてきたわけでもない。
一瞬にして消え去ってしまった永遠のような幻の光景は、戦女神ラフィネがセナたちを祝福してやまないのだ、と教えていた。
人の世には人の理があるように、神には神のやり方がある。
ただそれはいつも目に見える形となって存在するわけではなく、最後にそうだったのだと、理解が及ぶことも珍しくない。
「ラフィネ……」
「ママ」
自分の過去に対する憎しみの涙が感動の涙へと変化してようやく途切れた頃。
呼ばれてさらに顔をあげてみたら、不機嫌に腕組みをしているディーノがいる。
「なに、その仕草」
「話してくれるよね? もしかして旅行に行くって言いながらおじさんとかおばさんとかみんなに黙って、どこか遠い所に行ってしまうとか考えてなかった?」
「ちょっ、違うっ」
「違わないでしょ……」
息子はセナの言葉を言下に否定した。
セナは嘘をつくとき、かならず左の頬を触る癖がある。息子にはいろいろとお見通しだった。
「お風呂に入る前、部屋のタンスの中を見たら、いつもあるところに服がないの。他の所に置いたかなって思って確認したけど、どこにもない。最初は泥棒が入ったのかと思って、それでママが泣いてるんだったら早くおじさんに連絡しなきゃいけないと思ったけど。なんか違うみたいだし」
「あう……ディーノ。ママはね、その」
「どうして女神様の名前をつぶやいたの? 今度やる歌劇の一幕にあるよ。聖女様が女神様に選ばれたとき、黄金の光が室内を満たした、ってとこ。ママは聖女様になるの?」
セナはその質問を受け、疲れたように肩を落とした。
ないわよ、そんなことは、とぼやくように吐き出す。
「いまそんな大役をいただいても困ります。ママが女神様に文句を言ったから、そんなことはないって言いに来られたのよ」
「……暇な女神様もいるんだね」
息子の呆れた素振りに、セナはあんぐりと口を開けた。
仮にも女神様に対してそれは不敬な物言いですよ、と叱りそうになり、それを止める。
「それくらいあなたと私は大事にされているっていうことだから、ね。ディーノ……お願いだからママと一緒に……」
「旅行には行かない」
「ディーノ!」
「だっておかしいよ。王国の殿下とか、うちに来るはずがないよ。ママが泣いているのも嫌だし、ここからどこかに逃げても何も変わらないよ」
「ディーノ! 言うことを聞きなさい!」
「押し付けないで! 女神様だってここにいて大丈夫だって言いたかったから、出て来たんじゃないの? ママはおかしいよ!」
神々の考えることなんて、庶民の私に分かるはずがないじゃない。
と、ぼやきたかったが、それを言うべきは息子ではないと言葉を飲み込んだ。
いつになく強い口調でしかられて、ディーノは涙を目尻に溜める。
いろいろな偶然が重なりすぎて、泣きそうなのはセナもおなじだった。
「週末の練習にはちゃんと出たい」
「どういうこと?」
「どこに旅行に行きたいのかわからないけど、今、火曜日だし」
と、息子は壁にかかったカレンダーを指差す。
確かにそうだ。明日になれば、週の半分が終わる。
「日曜日。日曜日の朝から練習だから。今から出かけたら戻ってこれる?」
「え、ええ……そんな急な!」
「泣きながら、言うこと聞きなさいって言ったの、ママだよ!」
「はい……そうね」
「行くなら今から行く! 行かないなら諦めて!」
そして女神様に約束して必ず帰ってくるって! と息子は叫び、逃亡する道は塞がれてしまった。
今から行くとして、約四泊五日の旅になる。
どこに行くべき? それはもう決まっていることだから、今さら躊躇はない。
北の都に行くための魔導列車のチケットは偶然にも今夜発のが取れたし、ディーノはさっさと他所行きの服装に着替えて待っていた。
「ねえママ、荷物はどこにあるの?」
「あ、ここにあるから。大丈夫」
そう言って亜空間を開いて見せる。
「計画的犯行だね」と容赦のない息子の一言が、セナの罪悪感をぶすりと突き刺した。
ロアッソには手紙を残した。
日曜日には戻ってくるとただそれだけを書いて。
「北の都って、つまり魔王様の……大丈夫?」
「帝国と魔王様はもう百年以上、戦争をしていないもの。王国に行くよりも安全だわ」
「なるほど!」
何を納得したのかよくわからないが、黒いサマーニットキャップに青い髪を隠して、ディーノはふんふんと大きく肯いた。
二人が向かった魔導列車の駅には、もうすでに乗る予定の定期便が到着している。
こうして母子は束の間の、休息を手に入れた。




